第59話 見知った場所

 

【59】見知った場所




 文字通りミンディに叩き起されたテオは、重たい足と丸くなる背中を叩かれるようにして、ミンディの話していた食事処へと向かった。


 毎度の如くテオの財布で散々飲み食いをし、唇を油まみれにしたミンディの満面の笑みを思い出す。

 テオの三倍の量の飯を腹に詰めたミンディは、窓掃除でもするかの如くテオへと向けて手を振ってから自らの寝床へと帰って行った。


 その溢れ出る溌剌さに、楽しかったようで何より、と小さく笑みを零したテオは跳ねるような足取りのミンディの背中を見送った。


 大きく重たい武器と、アーニーに頼まれて買ってきた軽食の入った小さな包みを手にしたテオは、一人宿への道を歩き出す。


 ミンディに食事を詰め込まれ、満腹を超えた腹をさすれば、膨らんだ胃が胸の辺りを圧迫するようだった。


 宿の前までたどり着いたテオは、自らの身長を超える獲物が宿の玄関口に引っかからないように気を付けながら、戸口を潜る。

 夕日になりきらない日差しが窓から差し込み、抱え込んだ大薙刀を包む布の陰影を深めた。


「ただいま」

「おかえりなさい、テオ君」


 癖のままに口から零れたテオの言葉を受け止めたのは、受付カウンターの椅子に腰かけた一人の女性だった。


 その女性はアイザックと同じ色の赤毛を一つにまとめ、長い前髪でその右目を覆い隠している。

 髪の赤に陰を指したように濃いブラウンの左目で、その赤毛の女性は戸口に立つテオを静かに見上げていた。


 女性の膝には大きなシーツが一枚乗せられており、その白い指には小さな裁縫針が摘まれている。

 シーツの端にできたほつれを直そうとしたのだろう。白く垂れる糸が針の穴に繋がっていた。


「アイリーンさん。それ、俺がやりますよ」


 テオはそう言って、布に包まれた長い獲物を邪魔にならないよう壁際に立てかけた。


 アイリーンと言う名のこの女性は、アイザックの母親であり、女手一つでこの宿を切り盛りする主人だ。

 長い前髪の横で覗くブラウンの瞳が、テオを見詰めて細められた。


 手にしていた小包みをカウンターの上に置き、傍に置かれていたもう一脚の椅子を手繰り寄せる。

 椅子へと腰掛けたテオは、アイリーンの手から裁縫針とシーツを受け取った。


「ごめんなさいね。いつもいつも」

「お世話になってますから。これくらい気にしないでください」

「じゃあ代わりにお茶を入れてくるわね。テオ君も飲むでしょう?」

「いただきます」


 テオの返事を聞いたアイリーンは受付カウンターの奥の扉を抜け、キッチンへと消えていった。


 その姿を横目で見送ったテオは慣れた手つきで白いシーツに針を通す。無骨な武器を振り回す手が、小器用に布から針を引き上げた。


 テオがこの街に来る前も、手先の器用でなかった兄弟子と師匠の分もこの手の手仕事は引き受けていた。得意分野とまでは言わないが、決して苦手な作業ではない。


 何よりも、向き不向きというものがあるとテオは考える。


 アイリーンの長い前髪に隠された右目は機能していない。

 人間は両目でものを捉えることでその形を浮き彫りにし、立体として認識すると言う。故に、片目しか機能しないアイリーンにとって、世界は少し平坦だった。


 元来の不器用さも多分に影響しているが、そんな彼女は少しばかり裁縫のような手仕事が苦手だった。


 それはアイリーンが、聖教嫌いで悪目立ちしていたテオを受け入れ、用心棒として雇われないかと持ちかけた際に明かしてくれた話だった。


 その右目は生まれつきなのだという。

 へその緒の切れる頃には既に、右目の穴にはあるべき物が欠けていたのだと。生まれた頃から無い物に、癒術が作用することもなかったのだと。


 彼女の右目はその治癒を聖教の治癒院が拒んだ故に生じた欠損では無い。

 だから、本来であればアイリーンは、世間が爪弾きにするような聖教が受け入れなかった人間では無いはずだった。


 それでも。

 欠損を認めたがらないこの国で、その欠落はアイリーンの生きる道を険しくするだろうことは容易に想像が出来た。


 その欠落を他人がどう見るのか。

 はたしてその事情までを全ての他人に知らしめられるのか。


 街で目の欠けた女にすれ違うとして、人々は真っ先に思うだろう。あれは聖教が弾いた人間だと。

 人々はその事情を都度訪ねるだろうか。

 弁明する女の声に耳を傾けるだろうか。

 女が口を開く前に、石を投げる者は決して居ないと言いきれるだろうか。


 アイリーンの行先を恐れた彼女の両親は、彼女の欠陥を隠すことを選んだ。義眼を埋め込み、髪を伸ばして欠落した目を隠させた。


 多少遠近感がぼやけても、生まれた頃からその世界しか知らない彼女はまるで他の人間と何の変わりも無いように振る舞うことも出来た。


 本来であれば、誰にも明かしてはならない秘密だった。アイリーンの右目の事を知るのは、亡くなった彼女の夫と、息子であるアイザックだけだった。


 けれど、アイリーンはその秘密をテオへと打ち明けた。聖教嫌いのテオに、欠落を戒める理由がないこともある。


 けれど、何よりも。

 夫を亡くし、一人で息子を守らねばならなくなった彼女は、ただひたすらに息子と自分を守れる盾を求めていた。


 欠落を嫌わないテオであるならば、きっとこの右目は同情を買うための要素になる。そう思ったのだと、だから打ち明けたのだと。そう言って、アイリーンはテオに用心棒の件を持ちかけた。


 断れるはずがなかった。

 同情などなくとも、アイリーンがその歳まで生きる中で抱えて来た恐怖心は、テオにとって、簡単に無視できるほどに他人事ではなかった。


 それは月の無い夜を歩くような感覚なのだろう。暗く沼のように濁った道を一歩、また一歩と怖々に歩く。


 例え誰の事も咎めて来なかったとして、それでも誰かに咎められない保証は無い。

 指された後ろ指がいつ首筋に穴を開けるのかと、腹の底を冷やして恐れながら歩む道は、本来のそれよりもずっとずっと狭く感じるものだ。


 テオにとってその道を照らす灯りは師匠であったが、アイリーンにとってその導は夫だった。

 テオは師の元を離れることで、アイリーンは死別することで、それぞれの導を見失っていた。


 テオは暗い道に再度踏み出す気力を取り戻す為に、灯りの点る止まり木を求めていた。

 アイリーンは自らの立つ場所へと暗闇が決して侵食しない為の、街灯が壁を照らす荒屋を求めていた。

 自然と、互いに求めていたものは合致した。


 アイリーンにその話をされた頃には既に三つのパーティを抜け、師匠の言葉を果たせない自分に辟易していたテオは、彼女の要請に是と答えた。


 聖骸ミダスの弟子と言う看板を背負っていたテオが、この宿の用心棒に着く事で得られた恩恵は少なくない。

 ギルドの名目だけでは話の通らない輩だろうと、聖骸と言う恐ろしい程の力を持った相手が背後に構えているテオという人間を、容易に敵に回そうなどとは思わないからだ。


 この宿の一室を借りてからのテオの日々は、少しばかり穏やかだった。


 師匠の言葉に反するはずのソロ活動に前向きになれたのも、ホゾキやアイリーン、ジルのように、テオの聖骸嫌いを過度に否定しない人間に支えて貰ったからなのだろうと、テオは考える。


 だからこそ、尚更。

 テオはこの街の防衛戦を放棄できない。種の進行と言う魔物の蹂躙を許せば、少しだけ穏やかに感じたこの日々は踏み潰されて消え失せる。

 この街に来て五年、テオは最後の家族を失ってから初めて、リリーの事を抜きにした戦う理由を見出し始めていた。


「できた」


 テオは最後の一刺しをシーツから引き抜いて、一人そう呟いた。糸を留めてハサミで切れば、元通りに整えられた縫い目の合わせがよく見える。


 糸の切れた針をピンクッションへと刺し、シーツを畳んだ所で、二つのカップを持ったアイリーンが戻ってきた。


 出来を確認して貰おうと修繕した箇所を伸ばして拡げたテオへと、その手元を覗き込んだアイリーンは小さく頷く。


「ありがとう。とても綺麗だわ。テオ君は本当に器用ね」

「また何かあったら言ってください」

「そうさせてもらうわ。いつも本当に助かってるのよ。ありがとうね、テオ君」


 シーツと交換に受け取ったカップから立ち込める湯気が、テオの鼻腔を擽った。

 つんとしたハーブの香りを飲み込むように、カップの中身を喉の奥へと流し込む。


 胃に落ちていくハーブティーの代わりに湧き上がった熱を持った呼気を吐き出したテオを横目に、アイリーンが椅子に腰かけた。


 アイリーンはハーブティーの熱を冷まそうと、自らの手の中のカップに吐息を吹きかけてその水面を揺らしている。

 肺に息を貯める度に束ねた赤毛を揺らすアイリーンへと、テオはおもむろに口を開いた。


「祭りが近いですけど、何か変わりないですか?」

「ええ。今年は例年より人が少ないの。もう遠方の方々はお別れを済ませてしまったみたいね」


 そう答えたアイリーンは、そのブラウンの瞳を小さく伏せる。微かに残る揺れごと飲み込むように、アイリーンは手の中のカップを煽った。


 釣られるようにカップを口元へと運ぶテオへと、アイリーンは熱の残る吐息と共に言葉を零す。


「義妹から手紙が来ていたわ。墓参りは、今年の祭りで最後にするって」


 そこで言葉を切ったアイリーンを、テオは無言で見詰める。彼女のブラウンの瞳は伏せられたまま、テオを見詰め返すことは無かった。


「仕方のないことよね。私たち、生きていかなければならないのだもの。墓を掘り返すわけにもいかないわ。……本当なら、今年も来てくれることを、喜ばないと」


 尻窄みになるアイリーンの言葉に、テオは沈黙を返した。

 冷めきらないカップの中身を喉の奥へと流し込み、腹の中からから湧き上がる熱気を吐息に混ぜて吐き出す。


「この宿はもうしばらく続けるわ。壁の向こうも、雪の溶ける頃までは大丈夫なんでしょう?」

「はい。でも、……無理に粘る必要もないですよ。アイザックもいますし」

「そうね。冬が来る前には、踏ん切りをつけるわ」


 そう言って目を伏せたアイリーンに、テオは小さく肩を落とした。


 彼女の夫であり、アイザックの父親である男は既に亡くなっている。テオがこの街に来た頃には既にその男性は墓の下に潜っており、テオはその顔を見た事がない。


 アイリーンとアイザックが教えてくれる彼の話を通して、一方的にその存在を認知しているに過ぎなかった。


 それでも。

 その男性はきっと良い人なのだろうとテオは思う。会ったことの無い男性に対し、彼女達の話を聞いていてテオが感じたのは好感だった。


 少なくとも、アイリーンとアイザックの二人にとってのその人は、墓の下に残したまま離れることを躊躇う程に、愛おしい人であることは間違いないだろう。


 話に聞くその人は、いつも笑っていたように思う。彼女達の記憶にそう焼き付いたのか、そう焼き付けたいがためにそう語ったのか。

 テオには知る由もないが、それでも、テオの想像の中のその男性は笑うことが多かった。


 だからなのだろうか。

 顔も知らないその男にも笑顔を浮かべさせた彼女たちが、その人を墓の下に置き去りにして行く悲しみに顔を伏せる事が、テオには苦しくて仕方がなかった。


 けれど。

 冬を超えても壁の向こうから害が溢れてくる事などないと、そう言ってやれるほど、テオは己惚れることが出来なかった。


 テオがこの街に来た五年前と比べても、魔物の数は楽観視などできない程に増えている。

 発生源となる種は目視できるほどの距離にはないが、彼我の距離は確実に詰まっていた。


 種がどれだけ強大なものでも、その表面すら切り裂けなくとも。

 それでもテオは挑むだろう。そうするように生きてきたし、そうできるように育てられた。


 何よりも。


 例え種の破壊が叶わなくとも、種に立ち向かわない自分自身と言う存在を、テオは認めることが出来ない。


 それでも。

 きっとそれは難しいことなのだと、頭のどこかで理解していた。無駄死という言葉が、自分の死に際に添えられる可能性を否定できない。


 テオが挑もうとしているものは、見上げるという言葉が烏滸がましく思える程に強大な力を持つ聖骸達が幾度となく挑み、そして敗れてきたものだ。


 師匠である聖骸ミダスが。

 そして、兄弟子ニールが。

 テオが師事してからの十数年の間に一度も挑もうとして来なかったものだ。そんなものに、自分たった一人が加わった所でどうこうなるとも思えない。


 それでもこの足を止めなかったのは、死者を理由に生きてきた意地がそれを許さなかったからだ。


 師匠の元を離れて、この街に居座ってから段々と薄れていく自信にへこたれそうになる。

 師匠と兄弟子の二人の元に居た頃は、種の破壊を成し遂げる事を疑いもしない二人の言葉を欠片も疑わなかった。

 けれどこの街に来てから、年々と激しくなる魔物の行進の進み具合を逐一に感じて、目標の実現の、その厳しさを思い知った。


 それ故に、今のテオにアイリーンを安心させられる言葉を吐くことは出来ない。

 それがただ、酷く悔しかった。



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