第56話 城壁1
【56】城壁1
踏み固められた地面から巻き上げられた砂埃が視界の端々の邪魔をする。鍛えられた体が動く度に、鳴り響いた鞘鳴りと鎧の音。
泥と返り血に塗れた盾を背負った重戦士とすれ違えば、鉄錆に負けない汗の臭いが鼻腔を掠めた。
ニーナとベッドの上で話し込んだ翌日、テオは街を囲う城壁の上にいた。薄汚れてしまった布に包んだ身長を超える大きな獲物を手に、石造りの通路を歩く。
二週間ぶりに訪れた城壁の内側の景色は、どこか落ち着きがなく感じられた。
切り出された石を積み上げて作られた足場は頑強に噛み合い、容易には崩れそうもない。しかしそれはここが護られた城壁の中でも内側の方に位置し、主要となる部分だからだ。少しでも外周へ、端へと進めば足場に散らばるのは角を立てて切り出された石材ではなく、砕けた瓦礫になることをテオは知っている。
通路を覆うように胸ほどの高さに作られた壁には、弓兵や魔術師が遠方を狙う為に開けられた縦溝から差し込む陽の光が照り返していた。
その天然の灯りを踏み付けるように早足で通り過ぎる兵士と冒険者の混合部隊を見送る。彼らの顔には僅かな緊張と疲労、そして何より、隠し切れない闘争心による興奮が滲んでいた。
微かに眉を顰めたテオは、ゆっくりと通路の端を歩き出す。腕を絡めるように手にした獲物が重苦しく持ち主の顔に影を落とした。
「おや。テオ、久し振りだね」
掛けられた声と共に、日差しからテオの顔を隠す影が厚みを増す。その原因となった大男は、二メートルを僅かばかりに越す身長で、道の端に立ち止まったテオを見下ろしていた。
自分を呼び止めた大男を見上げたテオは、見知った顔に肩の力を抜く。
くすんだブロンドの短髪には所々白髪が混じるものの、太陽の下では同色に紛れ目立たない。純度の高い氷をはめ込んだ様な青い瞳はどこか気だるげに細められていた。
巨体に隠れるように背負われる大剣は刃先が潰れ、最早鈍器としての役割を持ち主に提供するものとなっている。その体躯の迫力とは裏腹に人が良さげに和らげられた顔面だが、中央に残る傷は真新しく、今も流れる流血が顎を伝って着込んだ金属鎧を汚していた。
外に出ない魔力が体を強化し尽くした人間の見本のようなその大男は、しかしその暴力的な体格に不釣り合いなぬいぐるみの布人形をテオの太腿ほどの太さの左腕に隠す様に抱えていた。
「久し振り、エイダン。メイガンも元気かな」
「ああ、元気だとも。ほら、メイガン。テオに挨拶をして」
相好を崩したテオが大男エイダンと、その腕の中の人形に向けて小さく手を振って挨拶をする。それに垂れ下がった瞳で答えたエイダンは、赤子をあやすようにメイガンと呼ばれた布人形と共に体を揺らした。
エイダンは、ポーロウニアで活動するソロの冒険者の一人だ。城壁の防衛戦でしか活動しない彼は、常時であれば非常に温厚で人が良い。けれど同時にソロとして活動しなければならない程度に問題を抱えている事は、テオやジルを含む他のソロの冒険者と変わりはなかった。
例えばそのひとつが今も尚エイダンの腕に抱かれている人形だ。片手が塞がれるにも関わらず、エイダンは戦場ですらその布人形を手放さない。“娘のように”大事に扱われる人形をメイガンと呼ぶ大男は、壁の外から流れてきた人間の一人だった。
城壁に守られるポーロウニアに逃げ込む際、大事な何かを落としてきてしまったと言う。エイダンはその落し物を探すため、冒険者になることで得られる城壁の防衛戦への参加権を利用した。防衛戦と言う大義名分の元、来る日も来る日も壁の外で探し物をする大男は、それ故に動きが読めず、指示を聞かない。
エイダンは落し物を探すために外へ赴いているのであって、魔物や種の事情など知ったことではないようだった。
種の破壊だけを見据えて他のことを鑑みてこなかった自分も、他人のことは言えないとテオは小さく頭を振る。
「今日は青か。今の空と同じ色だ。君にぴったりだね、メイガン」
エイダンの腕に抱かれた布人形へと、テオは声を掛ける。テオの声と合わせて緩められたエイダンの腕の中から、首に巻かれた青いリボンを揺らしたその布人形が顔を出した。
砂と血に汚れた布製の人形は、小さな女の子を模していた。本来はもっと発色の良かったであろう淡い赤色のスカートを着込むその縫いぐるみは、エイダンの金髪よりもほんの少しだけ暗い色の髪のお下げを二つ揺らしている。目の代わりに縫い付けられたボタンは所々焦げているものの、元地の青を残していた。
その作りすらよく知るテオは、メイガンと名付けられたぬいぐるみに笑いかける。そうしたテオの態度に酷く満足気に目じりを下げたエイダンは、熊手のように大きな手で布製の頭を撫で回した。
「ああ。神様の色だよ。きっとこの子を守ってくれる」
「……そうだな」
腕の中の布人形に柔らかく笑いかけるエイダンの言葉に、曖昧な笑みを返したテオが答える。無意識に立てられた爪が、獲物を包む布を掻いた。
青。それはこの国では神聖な色であり、民衆に親しまれた色だ。神の恩恵である癒術の光が青であることから、神様の色とされたその色は、時として願掛けのように多用される。
教会のステンドグラスの外周に。死者を弔う鳥の笛に。誰かの無事を願うお守りに。
そして、神様に捧げられる聖骸という名の器を彩る装飾に。
テオにとっては、日常的に目に入るものが多くあるからこそ、自分の側から排除できない連想の原因のひとつだった。
目の前の大男の瞳が、その腕の中の人形の首輪のようなリボン飾りが。どうしても死体を包む大きな布を思い起こさせる。
人形に向けられた目を背けないまま、どこかぼんやりとしたテオの様子に気が付いたエイダンは、深く息を吐き出した。
止まりかけていた額からの血が固まり、はりはりと短い髪から散っては落ちている。
「テオ、君は調子が悪そうだ。何か悩み事でもあるのかい」
「いいや。いいや。何ともないよ、俺は」
「そうかい。ならば行こう。僕達はね、きっと動いていないといけないね」
「そうだな。でもその前に、あんたはその怪我を治してもらって来たらどうだ? あっちで癒術師先生方がハラハラしている」
そう言って、テオは通路の向こうの壁際に張り付くようにいる三人の癒術師達を指さした。
白の前掛けが目立つその姿は、教会お抱えの癒術師の制服だ。救護室ではなくただの通路にたむろしている事から、恐らく休憩中だったのではないかと思われる。
それでも血を垂れ流して歩いている大男が心配でたまらないらしく、遠巻きではあるものの、テオと話し込むエイダンの姿を見詰めては癒術師三人で顔を突合せてこそこそと話をしていた。
「そうだね。行ってくるよ。それじゃあ、下でまた会おう」
「ああ、下で」
軽く手を挙げて挨拶を交わしたエイダンは、腕に抱え込んだメイガンと共にその場を後にした。立ち去る大男の巨木のような背中を見送ったテオは、腕の中の長柄の獲物に巻かれた布に顔を擦り付ける。皮膚を掻くような手触りの悪い布の感触がテオの頬を撫でる。
「何ともない。何にもなかった。だから、だから、“昨日まで”を、続けるだけだ。大丈夫、大丈夫。大丈夫に、する、しかない」
独り言と共に吐き出した息は、どこか熱く感じた。
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