第51話 昔日を語る1
【51】昔日を語る1
宿のベッドの上、シーツの上に菫色の髪を散りばめて寝転ぶ少女は、眠た気な眼を瞬かせて大きく腕を広げた。少女の白い顔の横に、菫の髪の絨毯に乗せられた花の縦笛が持ち主と同じく堂々とした姿で寝かせられている。
対照的に、その少女に選ばれることのなかった馬と鳥の笛は、古いテーブルの上に放り投げられるように寝かされていた。窓から差し込む赤味がかった夕日の明かりが横たわる二つの笛の表面に、濃淡の影を作っている。
「約束でしょう。抱っこして」
手首を前に後ろにと倒すようにして、はたはたと手を振った少女ニーナは言った。未だ扉の前に立ち尽くしていたテオは、促されるままに少女の横たわるベッドへと近づく。
部屋に戻るなり我が物顔で自分の寝床を占領した少女に、テオは苦く口角を引き攣らせたものの、ニーナは特段気にする様子がなかった。
テオは菫色の細い髪を踏まないよう注意して、ベッドの隅に恐る恐る腰を落とす。テオの体重を受けてわずかに沈み込んだマットレスの上を這ったニーナは、浅く腰かけたテオの膝へと絡みついた。
テオの薄汚れたズボンの生地に頬を擦りつける度に、長い菫色の髪がテオの手をくすぐる。やがてテオの筋肉質な太ももの上でベストポジションを見つけたらしいニーナは、大きくあくびを漏らした。
そのまま眠り込むのかと毛布に手を伸ばしたテオの予想と反して、ニーナの淡い色の瞳はとろけるように細められているものの、完全に閉じられることはなかった。
少女の鼠色のケープの上に手繰り寄せた毛布をかぶせたテオは、夕日の色を映して赤く染まった少女の頬を眺めながら口を開く。
「眠たいんじゃないか?」
「眠たいわ。でも、今はいいの」
アーニー曰く、“お寝坊さん”らしいニーナは花の笛を胸に抱きながらテオの問いに答えた。
膝の上からテオを見上げる瞳は、夕焼けの色と混ざり合い、どこかアーニーの持つ橙ような丸い柔らかさを思わせた。
「なにかお話が聞きたいの。ねえ、話してちょうだい」
そう言って、ニーナはテオの膝に目尻を寄せた。もぞもぞと薄い体を動かしてベストポジションを見つけたらしい少女は、居心地悪く固まるテオの膝頭を叩いて話を促す。
テオは困ったように首をさすり、窓の向こうの夕日に助けを求めるように視線を寄せた。
しかし、我が物顔で膝の上に陣取った少女はその猶予すら許したくはないらしく、リズミカルに膝を叩く力が段々と強くなる。
ニーナの無言の催促に負けたテオは、子どもに聞かせる御伽噺のストックの少ない自らの貧相なボキャブラリーを恨んだ。
もごもごと口角を下げたテオは、どうにも薄い記憶を手繰り寄せる。
やがて、まだ自分が兄弟子よりも背丈の小さかった頃に、野宿をした焚火の前で師匠から聞かされた話を思い出した。あれであれば知名度もあるのだし、きっと子どもの寝かしつけにも悪くはないはずだ。
「ええ、と。むかしむかし、ある所に、お腹を空かせて荒野を歩く、一人の女がおりました。その女は生まれた時から……」
「待って。違うの」
不慣れな語り口で始めたテオの言葉を、しかしニーナはシーツの上に寝ころんだまま遮った。自らの膝の上に溶けたままの少女を見下ろして首を傾げたテオへと、ニーナは寝ぼけ眼を擦りながら口を開く。
「そう言う“おとぎ話”ならアーニーが勝手に調べるわ。私、そういうのじゃなくて、あなたの“お話”が聞きたいの」
「俺の話?」
呟いて、テオは焦げ茶色の後ろ髪をかき上げた。ベッドの上に散る少女の柔らかな髪と比べ、幾分も堅い感触が厚くなった皮を伝って指の腹をくすぐる。
「生きてきたのだもの、色んな事があったでしょう。色んな人に出会ったでしょう。色んな事を考えたでしょう。ねえ、あなた。どんなことを思って生きてきたの? どんな人と出会って、どんな話をしてきたの? ねえ、今この時に何を考えているのかしら」
「そんなことを聞いて楽しいかい」
「それは、わからないわ。けれど眠たいときに眠りたいように、今あなたのことを知りたいから聞きたいと思ったの。楽しめなければ話してくれない?」
「……そんなことないよ。そんなことは、ない」
テオの返答を受けたニーナが、細い腕を持ち上げた。
死体のごとく冷たい少女の指先が俯いたテオの頬をなぞる。血の通わない指先の貝のような小さな爪が、日に焼けて健康的な色味を帯びたテオの目じりの皮膚を軽い力で掻いた。
「でも、何を話そうか」
「じゃあ、今日会ったジルって人とはどうやって知り合ったの? 随分と仲良しに見えたわ」
「ああ、あの人。仲良しか。きっと本人に聞かれたら怒られる」
そう言ってテオはふすふすと笑った。膝に懐くニーナの体を持ち上げて、ベッドの中心に戻す。その隣に横たわったテオは、ゆっくりとその口を開いた。
語り出す話はおよそ四年前の出来事だった。ポーロウニアに来て初めの一年。三つのパーティに入っては抜けたその期間の話だ。
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