第13話

 

【13】




 夢を見ていると、すぐに分かった。


 太陽の陽射しを遮る広葉樹の下。青く生え揃った芝生の上。そよぐ風が暖かく頬を擽った。


 視線は子どものように低く、見下ろした手のひらは木の葉のように小さい。生傷も肉刺も出来ていない手のひらに、柔らかいもう一つの手が重ねられる。


「どうしたの、テオドール」

「ううん、なんでもないよ。リリー」


 頭を振った自分の視界が揺れるのを、テオは他人事のように感じていた。幼い自分自身に投影される視界が呼吸とともに揺れ動くのを、夢と自覚するテオがぼんやりと受け止める。

 座り込んでいた幼い子どもであるテオドールは、自らに手を差し伸べてくれた少女を見上げた。


 細い白金の髪を背中まで伸ばした少女の名はリリアーナだ。テオドールが呼んだリリーというのは愛称である。

 髪と同じ色の色素の薄い瞳は、何時だって強く前を見つめているように思えた。そして時折、こうしてしゃがみ込むテオドールの手を取るために戻ってくるのだ。


 父親似の焦げ茶のくせっ毛のテオドールと、母親似の白に近い真っ直ぐな髪のリリー。似ても似つかない姿のたった一人の家族。テオドールの姉。それが彼女だった。

 その姿の懐かしさに、夢の中には存在しないテオの胸が痛む。


「また泣いてたのかよ。泣き虫テオドール」

「泣いてないもん」

「今泣きそうじゃないか」

「泣かないもん」


 ひょこりとリリーの後ろから顔を出した少年グレッグが、テオドールを揶揄う。

 その癖のない黒髪が陽の下で白く輝いた。自分の焦げたパン色の髪より、日に当たる彼の髪の方がずっとずっと姉に似ているように思えて、ひっそりと羨ましがっていたことをテオは今でも覚えていた。


「ちょっと、テオドールを虐めないでよ。泣いてないって言ってるんだから泣いてないの。それとも私があんたを泣かせて上げましょうか? グレッグ? ね? 良いと思わない?」

「怖えし。良くねえよ」


 握った手を寄せてテオドールを抱き寄せたリリーが、にこにこと笑っている。引き攣った顔のグレッグが猫でも払うように手を振っていた。

 そんな二人のやり取りを、リリーの華奢な腕に抱かれたままの幼いテオドールが眺めている。


「ねえ、テオドール。この間綺麗な花が咲いていたって話していたわよね。見に行きましょう、きっと楽しいわ」

「はん! 花とか! 何が楽しいんだよそんなの見て!」

「うるさいわね! 興味が無いなら来なくていいわよ! 誘ってないんだから!」

「行かねえとは言ってねーだろ!」

「来て欲しいとも言ってないのよ!」


 リリーとグレッグの目の回るようなやり取りを、テオドールはそれでも黙ったまま眺めていた。

 間に入ろうとするといつも二人から勢いのまま怒鳴られて、その剣幕に驚いた自分が泣く羽目になるのだ。黙って収まるのを待つ方が賢明だと、テオドールも理解出来るようになっていた。


 そして二人が怒鳴りあって息切れを起こした頃を見計らって、テオドールは初めて口を開くのだ。


「その花なら一昨日枯れちゃったよ」

「え、ええ? そう。なら、仕方ないわね?」

「早く言えよ、もう。テオドールお前よお。ほんとすっとろいんだからよ!」


 微笑むリリーの手のひらが、テオドールの癖毛を掻き回す。小さかったテオドールからすれば、その手はずっと大きく感じたものだった。


 大人になったテオが思う。

 今は、もう。

 柔らかすぎて、か細すぎて。彼女のこんなに小さな手は、きっと怖くて握れないだろう。けれどもし。もしもその手をまた握ることが出来たなら、次は寂しくて手放すことなどできやしない。


 触れ合った頬の柔らかさも。鼻にかかる吐息の温度も。鼓膜を揺らす楽しげな少女のさえずりも。

 手を伸ばせば届くもので、離れていくことなど想像もしていなかった。いや。考えたくなかったのかもしれない。


 気分が悪くなるほど正確に全てが再現されている。

 夢だ。夢だ。夢だ。夢だ。

 理解している。理解出来ている。


 十数年前に過ぎ去った景色。

 例えどれだけ手放したくなくとも。この景色が続けばいいと願っていても。これは夢でしかない。

 今のテオにとっては、悪夢に成り果てた記憶だった。


 息を吸って、目を閉じる。

 幼いテオドールがそうしていることを、成熟したテオは無理やり体感させられる。

 瞼が降りた暗がりは雑多な色が混ざり合い、鉱山のそれよりずっと濁って感じた。


 場面が変わる。


 教会の孤児院、その裏の木陰。必死に声を上げて歌を歌うリリーがいた。

 飛び跳ねて、裏返って、肩の力が抜ける。パートがどうの、息継ぎがどうの、強弱がどうのというレベルにすら達していない、あんまりな歌声。


「下っ手くそ」

「邪魔するなら来なくていい!」


 いつものように言い合いをするリリーとグレッグの二人。

 テオドールはそのすぐ傍で、リリーのカーディガンの裾を掴んで、怒鳴り合う二人の様子を見詰めていた。


「僕ね。リリーの歌、嫌いじゃないよ」


 怒って毛を逆立てたリリーの背中を擦りながら、テオドールが口を開いた。

 テオドールがこう言うと、音痴を笑われて怒ったリリーは機嫌が良くなると知っていたからだった。


「ほら、聞いた? テオドールは私の歌が好きだって」


 案の定、リリーは得意げな顔をグレッグに向ける。テオドールには向けない、口角をぴんと上げた勝気な笑顔がそこにはあった。


「嫌いじゃないって言っただけだろ、好きとは言ってねえ」

「いちいち細かい男ね! どっちも同じよ!」

「お前ががさつなんだよ! さっきのも聖歌のつもりか!? 邪神でも呼び出すんじゃねーの!」

「なんですって!? あんただって大差ないじゃないの!」


 ああ、こうなると駄目だ。リリーのカーディガンから手を離し、その背後に回る。

 掴みっぱなしだと巻き込まれて引き倒されるかもしれないからだ。実際何度か転んで泣いている。


 テオドールからすればどっちの歌も酷いものだったが、好きな人たちの声を聞いている時間は好きだった。それでも怒鳴り合う声は怖いから、今も涙腺が緩んでいる。


「ふ、ふえ」

「ああ、テオドール。ごめんね、びっくりしたね」


 涙をこぼすテオドールの目元を、カーディガンの袖を伸ばしたリリーががしがしと拭った。

 いつもこの後テオドールは目元が腫れて痛くなるが、泣いている間はその事すら忘れて姉に抱きついてしまう。


「お前いい加減その泣き虫治せよ。もうすぐ七つになるんだろ」

「いいのよ、テオドールは。泣いてもすぐ落ち着くもんね」

「たくよお。いつもめそめそめそめそして姉ちゃんに泣きついて、恥ずかしくねえのかお前は」

「テオドールのこと虐めるならあっちいっててよ、グレッグ! 馬鹿! とんかんちき!」


 再開する口喧嘩に合わせて、リリーがテオドールの頭を抱く腕の力が強くなる。

 ぎりぎりと締められる腕から抜け出しそびれたテオドールは、縋り着いた姉の腕による頭痛に苛まれて更に激しく泣き出した。


「ああ、テオドール。どうしたの。ごめんね、怖いよねコイツ。ほら、ちょっとでいいからどっか行ってよ。家帰って、むしろ」


 流石のグレッグも、怖いとまで言われれば思うところがあったのだろう。

 ぐぎぎ、と歯とも喉とも付かない場所から悔しげな音を立てて、恨めしそうに立ち去って行った。

 孤児院に身を置くテオドールとリリーとは異なり、グレッグには帰る家も家族もある。


「ほら、グレッグはお家に帰ったよ。私達も戻ろうか。そろそろお祈りの時間だから、遅れるとシスターに怒られちゃう」

「……うん」


 ぐすぐすと鼻をすすりながら、リリーに差し出された手をテオドールが握る。

 二人は並んで、孤児院と繋がる教会の古びた扉を潜って行った。その奥から微かな祝詞が聞こえる。


 手を合わせて。指を絡めて。目を閉じて。

 テオは今でもきっと、シスターやリリーと唱えたあの“お祈り”の言葉を諳んじることが出来るだろう。

 それだけ精神の深く、腹の底に、心臓の裏に、その言葉は刷り込まれている。


 主の愛に感謝を捧げます。この身の全ては主の恩寵。来るべき時、欠ける事なくお返しします。貴方の愛に報いる魂であることを誓います。


 実際のところ。

 神様の愛は偏りがあったし、欲しかった才能には恵まれなかった。欠けたものはあっさりと打ち捨てられ、その愛に愛されたまま報いる術など存在しなかった。


 そして何より彼ら聖教にとって“この身”とは返上するものではなく、収穫され利用されるものなのだと、今のテオは思う。

 なにせ、それを使っているのは神様ではなく他でもない人間だったのだから。


 二人の姿が遠くなり、テオは察する。

 幕が下りる。いや。目が覚める頃合だ。


 閉じた瞼が明るみに焼かれる。

 重いそれを持ち上げる度に、瞳孔の奥がつきつきと痛んだ。


「頭、いたい」


 ボロボロのベットの上、丸まった手足を伸ばしながら、テオが起き抜けに掠れた声で呟いた。

 肩まで覆って握りこんでいた掛け布団を肌蹴て、寝転んだまま起ききらない体と頭に朝日を浴びせる。


「くあ、ン、ん。痛っ」


 がつん、と踵に痛みが走る。どうやら足を伸ばした拍子にベットの縁を蹴ったらしい。

 窓から差し込む朝日が顔面に当たるのを避けて、ずりずりと足元に下がって行ったせいであった。


「まぶしい……」


 呟いて、テオは縁に足を上げたまま上体を起こす。朝日の差し込む窓には、酷く不服そうな顔をした焦げ茶髪の青年が映っていた。




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