大事なもの

お食事件

大事なもの

「あーあ。もういつ死んでもいいわ」


 平日の真昼間。

 だるそうにそんなことを口にしながら小銭だらけの財布を持った男がパチンコ店から出てきた。彼は数ヶ月前に正社員をクビになった男だ。そのあとバイトを始めるも長続きせず、せっかくの貯金も毎日のギャンブルに費やしていた。

 彼女や友人もおらず、さらには両親からも見放されていた男は生きる意味さえ失い、毎日を無駄に過ごしていた。


「どこに行こうか……。なんにもする気起きないけどな」


 気の抜けた声を漏らした男は行く当てもないまま歩き出す。

 大勢の人が行きかう繁華街を抜けようとしたとき、男はビルの間に立てられた、汚い看板が目に入った。


『大事なものと引き換えにお金差し上げます』


 いかにも胡散臭い文言。その隣には手書きの矢印が路地裏へと案内していた。

 新手の詐欺だろうか。そんなことを考えながらも金の文字につられた男は導かれるように奥へと進んだ。ゴミが散乱する暗く狭い路地を歩いていく。すると突き当たりに老婆が一人立っていた。


「あんたの大事なもんをくれんか? もしくれたら金をやる。それもたっぷりのな。等価交換じゃ」


 傷んだ真っ白な髪にボロボロの服。しわだらけの顔は笑っているのか、怒っているのかわからない。腰をくの字に曲げながら老婆は茶色に変色した特徴的な八重歯をのぞかせていた。


「大事なものって?」

「それはあんた自身で考えるんじゃ」


 唾液を飛ばしながら老婆は答えた。

 この老婆はボケている。そう直感した男は、暇つぶしを兼ねて話に付き合うことにした。


「ならあげるよ。俺の大事なもの全部。こんな人生さっさと終わらせたいし」


 何も失うものがない男は元気よく答えた。


「いくつくれるんじゃ?」

「そうだな100個ほどならいいよ」


 男はからかうように思いついた数字を適当に口にした。すると老婆は機嫌を損ねたのか、眉をひそめた。


「無理じゃ。おぬしはそんなに持っておらんじゃろ」


 どうやら数が決まっているらしいと男は理解した。


「なら60でどう。これくらいならあると思うけど」

「おー。そうかそうか。ほんとに60も貰っていいんじゃな?」

「もちろん」


 老婆はよほど嬉しかったのか、しわくちゃの手で男の手を包み込むように握る。そして変色した八重歯を再び見せて笑った。


「おー。ありがたや。ありがたや」

「で、お金はくれるんだよね」

「もちろんじゃ。1つにつき5000万。だから合計30億じゃ。既にあんたの口座に振り込んである。ありがたや。ありがたや」


 同じ言葉を何度も繰り返しながら、こねくり回すように腕を触られた男は気持ち悪さに顔をしかめた。今すぐにでも手を洗いに行きたいと思った。


「放してくれ」


 男は力強く手を引くと、急いで路地から飛び出した。近くにあった公衆トイレに駆け込むと、急いで手を洗う。そして老婆の言葉を反芻した。


『1つにつき5000万。だから合計30億じゃ。既にあんたの口座に振り込んである』


 あれはどういうことだったのか。また老婆に差し上げた大事なものとは何なのか。男は鏡に映る自分を見ながら考えた。

 30億なんて金が簡単に手に入るわけない。ボケた老人の戯言だ。それはわかっているけれど、どうも引っかかる。万が一にもそれが本当ならこんな生活から抜け出せるのだ。

 男は財布の中身を確認する。残りは300円しか入っていなかった。

 男は口座から金を下ろすついでに残高も確認することにした。


「おいおい。これほんとに俺の口座か?」


 ATMが並ぶ静かな場所。大きな声を出したたため、周囲の乗客が一斉に彼を見た。


「ははっ。ははははは」


 もう一度通帳を確認する。そして男は人目を気にせず、さらに大声で笑った。


「はははは。ははは」


 通帳には老婆の言う通り、30億もの大金が入っていたのだった。




 それから男の生活は一変した。ボロアパートから出ると、プールとジムがついた豪邸を購入。一緒に専属のシェフと家政婦を雇い、優雅な毎日を過ごした。

 人生何十回分のお金を手にした男はさらに、不動産経営者の肩書きを作るとこれまでの鬱憤を晴らすかのように毎晩町へと繰り出した。

 金をちらつかせバーやクラブで女に声をかける。そして最後はホテルへ誘うのが日課になった。


 毎日が人生のピークを迎えた男はこの日も、とあるパーティーに参加していた。男の参加者は金持ちばかり。女性は大学生からOLまでかなりの美人揃いだった。

 男は手慣れた様子で好みの女子大生を口説くと、そのままホテルへと直行。

 若く張りのある体を存分に堪能した。

 そして女を抱きながら、ぼんやりとホテルの天井を見つめていたとき、ある異変が男を襲った。

 感じたことのない胸の苦しさ。

 締め付けられるような痛みとともに突如として襲いかかってきた。

 息を吐くことも吸うこともできない。助けを求めようにも声を出すことさえできなかった。

 女は男に抱かれたまま静かに目を瞑り異変に気づく様子はない。

 そして数分間、静かにもがき苦しんだあと、ベッドのシーツを強く握りしめながら男はあっけなく死んだ。大金を手に入れて3年も経たない頃だった。

 男に抱かれていた女がゆっくりと体を動かした。男の手をのけると、ベッドから起き上がり何事もなかったかのように下着を身に着け始めた。


「ありがとね。今こうして2度目の人生を楽しめるのもあなたのおかげよ」


 綺麗な白い八重歯を見せて女は笑った。

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