第二百二十六話「氷の下に閉ざした言葉」

 憎き宿敵が呟く。



「効いてきたみてえだな」

「…………おまえ!」



 朝霞は何度も指先に力を込めるが、指はまるで石像のように固まったまま動かなかった。


 毒物によるものだと、朝霞は直感的に判断する。

 しかし、だとしたらいったい、いつ盛られたのか。


 デスグリーンは朝霞に、指一本触れることはできなかったというのに。


 可能性があるとすれば。



「こっちもようやく視界が定まってきたところだ。とはいえ、いってえなあチクショウ。思いっきり蹴り飛ばしやがって」

「アニキだいじょぶッスか? 頭すごい音してたッスよ」

「このぐらい平気さ。それよりサメっち、お手柄だったね」


 悠々と立ち上がる宿敵の隣に、ちょこんと立つ小さな影。

 サメっちの手には、小さな針が握られていた。


「ふふふッス、いい女には棘があるッス」

「……冴夜……?」



 朝霞の脳裏に先ほどまでの光景がよみがえる。



 あのときだ。


 脚にすがりついてデスグリーンの助命を嘆願していた冴夜。

 あの瞬間に刺されていたのだ。



「作戦成功ッスよアニキ!」

「作戦……いつから……?」


 もはや全身に毒が回り、銃を構えた腕をおろすことすらままならない。

 そんな朝霞に、林太郎が答える。


「しいて言うなら最初から・・・・だ。サメっちにはここに上陸する前から毒針を持たせてある。じゃあサメっち、そろそろ。……サメっち? 毒針もういらないでしょ?」

「やッス。これ今度キリカに使うッス」

「味を占めちゃあいけないよ。さあ返しなさいッ!」

「やあああッスぅ! サメっちもっと味占めたいッスぅ!」


 サメっちの姿は、まるで新しいおもちゃを手放したくなくてだだをこねる子供だ。


 いや、まるでもなにもわがままな子供がきんちょそのものだと。

 少なくとも朝霞はそう判断していたのだ、つい先ほどまでは。


 脅威ではない子供だと、戦うべき相手ではないと眼中に入れなかった敵。

 なにもできやしない無力な、およそ戦力にはなりえない空白地帯。


 そんなサメっちに、林太郎は毒針を、本物の逆転の一手・・・・・・・・を託していたのだ。

 朝霞自身が侮ったサメっちに、最初から全幅の信頼を寄せていたのである。



 林太郎は動けない朝霞に歩み寄ると、その手から銃をもぎ取って床に捨てた。


「あんたの視野の狭さには助けられたよ」

「ひ、人質作戦は……?」

「は? 人質作戦? なに言ってんの? あんな小学校の文化祭みてえな人質ごっこが作戦なわけねえだろ。馬鹿じゃないの。馬鹿だねえ。馬鹿でございましたか」


 朝霞が動けないのをいいことに、林太郎は小学生レベルの罵詈雑言を浴びせかける。


「まあでもピンチのふり・・はなかなか真に迫ってたろ? 俺こう見えて演技派なんだよね」

「サメっちも頑張ったッス!」

「ああすごかったぞサメっち、アカデミー賞はもらったも同然だ。できればアニキがズタボロになる前に仕留めてほしかったよ」

「だってアニキ『ここぞっていうとき以外使っちゃダメ』って言ってたッスもん!」



 本物の兄妹のようだと、朝霞は思う。

 そして同時に、実の姉である自分がなぜ、妹の隣に立つことさえ許されないのかと。


 どうしてこうなった。

 どこでなにを間違えた。



 一転して追い詰められた朝霞に向かって、林太郎が問う。


「お姉ちゃん。いや、鮫島朝霞。あんた本当にこのヴィレッジ計画が。人と怪人が手を取り合って仲良く暮らす楽園計画が成功すると思ってんのか?」

「……計画を邪魔したおまえがそれを言うのですか」

「いいや違うね。あんたは賢い。ここの現状を見て上手くいかねえことなんか、すぐにわかったはずだ。ここは楽園にはなりえねえ。煮ても焼いても食えねえ地獄の釜の底にへばりついた炭カスだってな」


 朝霞は凍りついた己の心に、大きな杭を打ちつけられたような気分だった。


 そんなことは職員たちの対応や、ここで収集されたデータを見ればわかる。


 変えなければいけないと思った。

 人が怪人を利用する地獄を、人と怪人が共存できる楽園に。


 だが彼らの間にそびえ立つ現実の壁は、あまりにも高かった。


 だから同時にこうも思ったのだ。

 林太郎の言葉は正しかったのではないかと。


 人が怪人に利用価値を見出す限り、怪人が人の脅威となりうる限り。

 手を取り合う共存など、お互いを認め合える融和など、ありえないのではないかと。


「あんたの怒りは俺に向けられたもんじゃねえ。あんたが怒り散らしているのは、叶わないと知りつつも理想を捨てきれない自分自身に対してだ」

「馬鹿言わないでください。私はおまえが嫌いなだけです」

「そりゃあ憎いだろうぜ。ヒーローにしがみついてるあんたじゃ絶対に叶えられない夢を、ヒーローを捨てた俺が実現してるんだからよ」


 心の氷の奥底めがけて、杭がさらに深く突き刺さる。


 ヒーローという立場に固執し、それを利用して妹をこの手に取り戻そうとしたのは誰であったか。

 姉だからヒーローだからと正義の御旗みはたを掲げ、怪人という存在のアイデンティティーを踏みにじったのは誰であったか。


 かつて奪われたものを取り返すためと自分に言い聞かせ、奪い取ろうとしていたのだ。


 兄のもとから、妹を。

 それが正しいあるべき姿だと決めつけて。



「あんたは俺のことが嫌いなんじゃない。ただ妹が大好きなだけのお姉ちゃんだ」

「~~~~~~~~ッッッ!!!」



 言葉にならない悔しさが口からもれた。



 こんな男に。


 幼女に毒針を持たせるようなゲスに。

 自分でも気づいていなかった本心を言い当てられるなんて。



 悔しい、腹が立つ、屈辱的だ、いらいらする。



 だからだろうか。



 こうも涙があふれ出てくるのは。



「お姉ちゃん……」

「さ、冴夜……」

「お姉ちゃん、ごめんッス」



 石のように固まって動かない体に、細い腕が回される。


「毒針刺してごめんッス」


 抱きつかれるような、抱かれているような姿勢で。

 ずっとずっと求め続けた、妹のぬくもりを感じる。


「ひどいこと言ってごめんッス。お姉ちゃんの恥ずかしい秘密ばらしてごめんッス。お姉ちゃんのお気に入りのマグカップ割っちゃってごめんッス。トイレの電気消さなくてごめんッス。あと、あと……」


 高鳴る心臓の鼓動にまじって。

 ひっくひっくとしゃくりあげるような、あらい呼吸が伝わってくる。



「怪人になっちゃってごめんなさいッス」



 心の奥底に突き立った真っ黒な杭を中心に。

 けして溶けることのなかった氷の壁に亀裂が入る。



 怪人覚醒によってふたり分かたれたあの日以来。



 閉ざされ続けていた心の氷が砕け散る。



「ごめんなさい、冴夜。お姉ちゃんのほうこそ、ごめんなさい」



 氷の底から顔を出したのは、ただその一言だった。



「お姉ちゃん……」

「ごめんなさい……。ごめんなさい……ごめんなさい……」



 朝霞は何度も何度も同じ言葉を繰り返した。



 永久凍土の下で眠り続けていた、ずっと言えなかった言葉を。





 …………。




「まあ一件落着だな。俺の完全勝利ってわけだ」

「うるさい黙れ。もう一度サシで勝負しなさいロリコンゲス野郎」

「おおなんだ? いますぐ第2ラウンド始めてやろうかこの情緒不安定のサイボーグ野郎。言っとくがおまえさんを裸に剥いて恥ずかしいポーズで縛り上げねえのは、サメっちに免じた俺の優しさだぞ」

「け、喧嘩しちゃダメッスぅ!」



 サメっちに制止された林太郎は、渋々とばかりにモニタールームで唯一残ったデスクの上にどかっと腰をおろした。

 ボロボロになったスーツの変身を解き、相変わらず泥沼のような目を、まだ動けない朝霞に向ける。



「なあ鮫島朝霞。おまえさんもこっちにりゃあいいじゃねえか」

「なにを……馬鹿なことを」

「悪いがいまのは冗談じゃねえ。サメっちにとってもそのほうが良いって思っただけさ。それともまだ、ヒーロー本部に立てるべき義理が残っているとでも言うつもりか?」

「……………………」



 朝霞はすぐには答えなかった。

 妹と、サメっちとまた一緒に暮らすことが朝霞の唯一の望みであった。


 ならばこのままヒーロー本部参謀本部長の肩書きを捨て、栗山林太郎のように怪人として生きるのも、けして悪い選択肢ではない。


 だがいまの朝霞の立場を最大限に利用すれば、怪人を弾圧し利用しようとする内部の動きに楔を打ち込むことも可能だ。

 末端でさえこの腐敗だ、どれほどの反発があるか予想もつかないが。



 なによりいまの朝霞にはもうひとり、共にいたいと思う者がいた。


 まるで正義を絵に描いたような、真っ赤なマスクが脳裏をよぎる。

 自分のわがままな理想実現のため、さんざん利用した彼を、いまさら捨てることなんてできない。



「私は……」



 長い沈黙のあと、ようやく朝霞が口を開いた。


 そのとき。




 ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……。



 モニタールームが、いや。


 海上プラットフォーム“ヴィレッジ”全体が大きく揺れた。




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