第二百二十五話「悪魔の所業を狩る悪魔」
人間の反射神経の限界は、0.1秒だと言われている。
ならば0.1秒先の未来が
無論それは机上の空論であり、人間がその領域に達することは不可能である。
なぜならば人の目はたとえわずか0.1秒であったとしても、未来を見通すことなどできないからだ。
もしも未来が視えたなら、それは神の奇跡か。
あるいは悪魔の所業である。
…………。
見えない斬撃のトリックを見破った林太郎は、ワイヤーを掴んだまま“綱引き”の要領でたぐり寄せる。
いくらエース級のヒーローとはいえ、生身の朝霞とデスグリーンスーツをまとった林太郎では出せる力の差は明白だ。
「くッ!」
朝霞は引っぱられるように体勢を崩してつんのめる。
こうなってしまえば、もう回避もくそもない。
「これでも避けられるもんなら避けてみやがれってんだ!!」
林太郎はすかさず剣を構えると
もはやこの一撃にて、決着はついたかと思われた。
だが黒い剣が朝霞の急所を斬り裂く直前。
「調子に乗るなよ、
朝霞は倒れかけた姿勢のまま床を殴りつけ、無理やり己の身体を跳ね上げた。
刃は朝霞の脇腹の数センチ手前をかすめ、司令官用の白いコートの裾を引きちぎるにとどまる。
見て、避けた、あの体勢から。
その驚愕が、林太郎の判断をほんの一瞬鈍らせる。
互いに体を崩した中で、朝霞はわずかな隙を見逃さず先手を取った。
「
ドスのきいた声と共に、ブーツの底が林太郎の腹に突き刺さった。
体重を乗せた前蹴り、いわゆるケンカキックというやつだ。
「うげっふァ……!」
芯を外したとはいえ内臓を狙った一撃である。
身体を『くの字』に折った林太郎の目に、朝霞の
やばい、と感じるや否や、林太郎もすぐさま体を跳ね起こし体勢を整える。
が、しかし。
「そこッ!!」
直後、真横から放たれたブーツの一閃が林太郎の側頭部を襲った。
「んぎっ!!!」
脳みそを直接蹴り飛ばされたような衝撃に、視界が暗転する。
手にした“黒い剣”が、モニタールームの床をからんからんと転がった。
ローリングソバットと呼ばれる、初代タイガーマスクが得意とした高速後ろ回し蹴りであった。
敵に隙を見せることからあまり実戦向きではないが、その威力は建設重機の一撃に匹敵する。
アウトファイトを徹底していた鮫島朝霞が、まさかこれほどの体術を隠し持っていようとは。
いやそれ以上に驚愕すべきは、朝霞の
(回避したのに、直撃を食らった……!? んな馬鹿な……!?)
朝霞は林太郎が体を起こしたその先。
回避動作
それも視界に制限がかかる、後ろ回し蹴りでだ。
つまりこれは林太郎が避けることのみならず、避ける位置までを完璧に想定して放たれた大技なのである。
万が一にも読み
一瞬意識が飛びかけた林太郎であったが、なんとか膝をついて踏みとどまる。
だが
回って定まらない視界の中、朝霞がつかつかと歩み寄る。
「いまので首を落とすつもりだったのですが」
しゅるるるる、と。
まるで何事もなかったかのように、朝霞は林太郎の手からはなれたワイヤーを腕時計型のガジェットに収納した。
「
「楽な手段を取ったまでです」
林太郎の誤算はただひとつ。
朝霞の武器が“見えない斬撃”と“回避”のふたつだと見誤ったことだ。
だがしかしそれらはあくまでも結果に過ぎない。
彼女の本当の武器は、それら異次元レベルの戦いを可能にする下地にこそあった。
すなわち、人間離れした“反射神経”である。
驚異的な動体視力と、思考を介さないほど突き詰められた瞬間的な判断力は、もはや未来予知の域に達していた。
「なるほど……、あんたの武器はその目ってわけだ……」
ようやく定まりつつある林太郎の視界の中。
薄暗い部屋に浮かぶ
明らかに人間の放つ光ではない。
林太郎はいまの朝霞によく似た者を知っていた。
ビクトブラック、黛桐華。
林太郎の後輩にして、人の身でありながら怪人の能力を得るべく実験体となった少女だ。
すなわちシルバーゼロ、鮫島朝霞もまた、人外の力をその身に宿す戦士なのであった。
「それで、立てそうですか下衆野郎?」
「わかってて聞くんじゃねえよ。なあ引き分けってことにしない?」
「おまえの冗談に付き合う気はありません。私の
そう言って朝霞はコートの裾から銃を取り出した。
冷たい銃口が、林太郎の頭に突き付けられる。
「この距離であれば、怪人の装甲だろうがヒーロースーツだろうが貫く特別製です」
「まぁた似合わないもの出しちゃって」
「大人しく従ってくれていたら、命までは取らずに済んだものを」
最後の生命線である“黒い剣”を取り落とした時点で、林太郎の運命は決まったも同然であった。
冷たく光る目で林太郎を見下ろす朝霞が、銃の引き金に力をこめる。
今まさに銃弾が放たれようとした、その瞬間。
「アニキ今のうちに逃げるッスぅ!」
小さな青い影が、朝霞の脚にまとわりついた。
戦闘に巻き込まれないよう隠れていたサメっちは、林太郎のピンチに居ても立ってもいられず飛び出したのであった。
「邪魔をしないでください。これは人間と怪人の未来のために必要なことです」
「ダメッスゥゥゥーーーッ!! むぎぎぃぃぃぃぃぃーーーッス!!!」
もとより朝霞はサメっちを障害とすら認識していなかった。
だが子供とはいえ、体重をかけて脚をぐいぐい引っ張られては照準が定まらない。
「はなしなさい冴夜。このクズはあなたが
「やッス! 絶対はなさないッス!」
朝霞はなんとかサメっちを振りほどこうとする。
しかしサメっちは動物園のコアラのように、両手でしっかりとしがみついて離れない。
「お姉ちゃんのアホーーーッ!」
「あなたはマインドコントロールされているんです」
「やだやだやだッスぅ! アニキをいじめるなッスゥゥゥ!!」
「いい加減にしなさい、このっ!!」
いらだった朝霞は、まるでサッカーのように脚を強く振り抜く。
はずみでぽーんと放り出されたサメっちは、林太郎の胸元に頭から突っ込んだ。
「ふぎゃス!」
「ぐえっ!!」
ふたりもつれ合うように倒れこむ怪人たちに、朝霞は再び銃口を向ける。
サメっちは林太郎を、林太郎はサメっちを。
お互いを庇いあう姿はまるで本物の兄妹である。
「おいおいお姉ちゃんよ。あんた妹に銃向けるなんてみっともないぞ」
「うるさい黙れ! おまえが全部悪いんです!」
そう、悪いのはこの男だ。
栗山林太郎の存在が、姉妹の関係に決定的な亀裂を生じさせたのだ。
どうして私の理想を邪魔するんだ。
人と怪人の融和を目指すことがそれほどいけないことなのか。
朝霞は自分にそう言い聞かせる。
「その男から離れなさい、冴夜」
「やあッス!」
妹はなぜこんな下劣な男を兄と呼び慕い、庇うのか。
いったい私とこの男の、なにがそんなに違うというのか。
どうしてなにもかも上手くいかないのか。
それはこの男が私に意地悪をするからだ。
極悪怪人デスグリーンがいけないんだ。
お前さえいなければ。
朝霞は改めて林太郎の頭に照準を合わせると、トリガーにかけた指に力を入れた。
「……………………?」
力を込めて引き金を絞った朝霞であったが。
弾はいっこうに発射されなかった。
細工をされるような隙は与えていないはずだ。
銃におかしなところはない。
おかしいのは、指だ。
「効いてきたみてえだな」
「…………おまえ!」
極悪怪人デスグリーン、憎むべき宿敵がほくそ笑むように呟く。
まだ脳へのダメージは残っているはずであった。
だが林太郎の声は、あの
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