大河内先生の休息

マフユフミ

第1話

「先生、いかがですか?」

いつもながらの白いコートを翻しながら部屋に入ってきたのは、私の読者だという佐伯だった。


佐伯はあるとき急に私の別荘に現れた。

「私、先生のファンなんです」

そういう佐伯は確かに私の書いたものをすべて読破しているようで、しかもその解釈も深く読み込んでいることがわかるもので、その熱に絆されるかのように私は佐伯が私の部屋へ出入りすることを許したのであった。


「なかなか進んでいるよ。今日は調子がいいようだ」

私は飲みかけのコーヒーをサイドテーブルへと置き、佐伯のほうへ向き直った。

昨日まで降り続いていた雨も上がり、窓辺のベッドにも明るい日が差し込んでいる。

うっすら空いた窓からは柔らかな風が吹いていて、春の訪れを感じさせる。

こんなに穏やかな陽気の時は、私の気持ちも軽やかになるためか、筆が進むのだ。


「それは良かったです」

佐伯は目だけで微笑むと、私のそばのソファへと腰を下ろした。

「今日は、先生に少しお願いがありまして」

この男が自らの要望を伝えようとするのは珍しい。

いつもは私の体調を気にかけ、作品の進捗状況を気にかけ、こちらが申し訳なくなるほど気遣ってくれるような男なのだ。

そんな男からのお願いならば、私にできることならば叶えてやりたいという気にもなる。

「そんなかしこまらなくてもいいさ。何でも言ってみればいい。できることなら叶えさせてもらうよ」

「ありがとうございます」

丁寧に頭を下げる佐伯に、あくまで礼儀正しい男だとうれしくなる。

こういう弁えている人間の力にはなりたいと思うのが人というものだろう。


「実は、私の知人にも先生のファンのものが何人もいるんです。そして、その中でも熱烈な者が今日先生にどうしてもお会いしたい、と申しておりまして」

そういうことか。

佐伯は私があまり人と会いたいタイプではないことを知っている。

それゆえこの一室に引きこもり、執筆活動をしていることもよく理解している。

しかし、佐伯と私との出会いを考えてみると、むしろ今までそういったことにならなかったのが不思議なのかもしれない。

「もちろん、先生のお気持ちに添うことが私たちの本望ですので……」

言い連ねようとする佐伯を制する。

「いや、大丈夫だ。今日は気分がいいからね」

このうららかな春の日も、思いのほか進んだ筆も、私の気持ちを軽くするには十分だった。

それに、いつも私に良くしてくれる佐伯に報いたい、その思いが強かったのだ。

「ありがとうございます。では早速呼んできてもいいでしょうか」

「ああ、呼んできたまえ」


佐伯が席を外した間に、コーヒーを飲む。少し冷めてしまったそれはほんの少し苦い。

ああ、来客があるのか。それならばコーヒーを新しく淹れなおさなければ。

部屋の隅に置かれているケトルに水を注ぐ。

しばらくすると、すぐシュンシュンと音を立ててお湯が沸く。素早くコーヒーをつくれるそれには毎日のように世話になっている。


「先生」

佐伯の声がした。振り返って見た佐伯の後ろに、同じような白のコートを羽織った男が二人立っている。

「そちらがお客様かい」

「初めまして、先生」

二人の男は深々と頭を下げる。佐伯の知り合いというだけあって、礼儀もきちんとしていそうだ。

「どうぞ、お入りなさい」

3人の男たちをソファに招き、私はまたベッドへと腰かけた。

ポットに入れたコーヒーをふるまわなければ、と再度立ち上がりかけた私を制し、勝手を知った佐伯が用意をする。


「休暇中に申し訳ございません。どうしても先生とお会いしたく、佐伯に無理を言ってこの機会をいただきました」

「私たちも先生のファンとして、作品についてお話を伺いたいと考えております」

男たちの言葉にうなずき、佐伯が言う。

「先生、ぜひわたくしともどもお見知りおきください」


自分の作品の熱心な読者と語らう午後は、とても有意義なものとなった。

熱い議論、熱いコーヒー、春の心地よい日差し。

ああ、今日はなんていい日なんだろう。

気持ちよくなった私は、客人の前ということも忘れ、そのままベッドで眠りに落ちた。







「寝たか?」

「ああ。今日は早かったな」

眠りについた大河内氏の脈を取り、様子をうかがう。

芥川賞を2回受賞した有名作家。

大河内氏は、そういう妄想に囚われた患者だった。

他人への猜疑心が強くて病室に入ることさえままならず、なかなかその心を読み解くことが難しいケースだったのだが、自分が熱心なファンであるという設定でなんとか心を開いてくれつつある。

「おまえたちのことも受け入れてくれてよかったよ」

「ああ。でも、ここからだな」

難しいケースゆえ自分ひとりでは解決の糸口をつかみきれず、読者仲間という設定で同僚の増田と高橋の協力を得たのだ。


増田の言う通り、大河内氏の治療はここからだ。

心の病は、想像以上に長きにわたり付き合っていかなければならないものだ。

これから私たちは、大河内氏と深く関わっていくだろう。

その心の読者と、その仲間として。



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