4:湯船の中で

 風呂場は地下にあった。

 こういう安宿では風呂場の窯と食道の釜は兼用になっている。朝夕の食事支度の時に一緒にお風呂用のお湯を沸かしてしまうのだ。

 どのみちお風呂に入るのは、朝風呂か、夕方から夜にかけてと相場が決まってる。同じ宿の建物で食堂や居酒屋をやってることも多い。燃料の節約と建物の効率をよく考えた作りになっていた。

 階段を降りて行き地下へと行けば、そこにお風呂がある。二人ぐらいで一緒に入れるお風呂が衝立で仕切られて六つほど揃っている。湯船は大きな円形でおわん型をしている。

 開いているそのうちの一つを選ぶと、私たちはその中へと入った。


 衣類を脱いで裸になり湯船へと入っていく。

 さりげなく視界の片隅に彼女の体を捉えれば、色白な素肌が目に入った。服を着ている時は一見華奢に見えたが、運動でもしているのか貧弱そうには見えなかった。むしろ体の何箇所かにしっかりと治療された後の傷跡のようなものが見える。

 私は内心驚いたがそのことについて尋ねる気にはなれなかった。

 私もジンも体に疲れが溜まっていたせいかお湯の温かさが体に染みていく。


「ふぅ」


 軽くため息をついた時だった、彼女が私に問いかけてきた。


「ねえ」

「うん」


 私が返事をすれば彼女は言葉を切り出す。


「どうして私を助けたの?」


 とてもシンプル、かつもっともな理由だった。でも答え方によっては彼女は私の前からどこかへと行ってしまいそうな気がした。

 どう答えるべきか逡巡した後で私は答えた。


「昔の自分を思い出したから」


 その答えに対して彼女は返事をしなかった。ただ私をじっと見つめている。言葉の先を待っているのだ。


「私ね、自分の家族の元から逃げ出してきたの」

「なぜ?」

「虐待、って言ってしまっていいかな。父親にとって自分の子供は便利なコマ、親の意のままに振る舞うのが当然と思ってる。でも、私のお兄さんはそれに耐えきれず絶望して死んでしまった。後に残された私はひたすら我慢してたけどある事件がきっかけで心が折れて逃げてきたの」

「事件って?」


 お湯の中の温かさとお互い裸で向かい合っているという事実が心の鍵を緩めていたのかもしれない。私は言う。


「結婚。それも私の知らないところで全部決まってた」


 そんな時彼女は言う。ちょっと辛辣に。


「すればいいじゃん。何の不自由もないだろうし」

「うん。不自由はないだろうね。でも〝自由〟も無い」

「自由」

「うん」


 私は思い切って話せるだけ話すことにした。それが彼女と気持ちが通じ合うことになるのならと思って。


「実はね結構いい身分だったのよ。私の実家って。でもそういう人たちの結婚って結婚した後にどうなるかも全部決まってるの。例えば、子供が生まれたとするわよね」

「うん」

「でも私は自分の子供を自分で抱きしめることも育てることもできない。自分の知らないところで乳母が用意されその人に預けられる。子育てに関わりたいと思っても、私の結婚を掌握しようとする父親が許さない」


 その時、彼女が言った。


「それじゃニワトリじゃん」

「ニワトリ?」

「うん。卵を産むニワトリ。産んだ卵を自分で温めることもできず知らない人間に取り上げられて料理されちゃう」


 辛辣で鋭い言葉だったが的を得ていた。


「そうだね。本当にその通り」


 私の言葉を彼女は真剣な表情で見ていた。茶化すことなく皮肉なことなく。


「卵を産むだけのニワトリ、そんな境遇の自分が怖くて仕方なかった。だから一人で生きるため、自由を勝ち取るため家を出て旅に出た。でも」

「失敗したんでしょ?」


 鋭い指摘だった。


「うん。ものの見事に。夜の街の人買いに騙されて危うく騙されるとこだった。でも追い詰められた私をある人が助けてくれた。いろんな苦労もあったけどなんとか今は一人でやっていけてるの」

「そうなんだ」


 私は彼女への答えの核心を口にした。


「あの時、救いの手が差し伸べられなかったら私は今どうなっただろうか? いまだに何度も考えるの。そのまま路上で野垂れ死ぬか、莫大な借金を被せられて夜の街で働かされるか、暴君のような父親に連れ戻されてひどい目に遭わされるか、そのどれかだった」


 私は彼女の目をじっと見つめながら答えた。


「昨日、道端で倒れていたあなたを見つけた時、見過ごすことができなかった。1年前の自分を見たような気がしたから。もちろん私があなたの全てを救えるなんて思い上がったことは考えてない。でも、あなたがこれから生きていく上で何かの支えになればと思ったの」


 私の言葉を耳にして彼女は少し沈黙していた。でも彼女は少し困ったような表情を浮かべながら明るく答えてくれた。


「ありがとう」


 でも彼女は言葉を続けた。


「面倒かけるかもしれないけど」

「そんなことないよ」


 私は彼女のこの言葉をある種の謙遜と受け取った。でものちのち、それが過ちであることを痛感させられることになったのだ。

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