七:ばいばい
すっかり回復し歩き回るのにも不自由はしなくなった。
これならばもう大丈夫だろう。
ある日の夜に自分の方からこの館のご主人である宗冬様のところへと顔を出す。
「宗冬様」
「ルスト殿か、いかがなされた?」
ルストは宗冬様の私室へと入り、正座をした上でこう切り出した。
「月詠様にお願いして元の世界へと帰ろうと思います」
その言葉に宗冬は深く思案していたが
「そうか」
と、静かに答える。そしてこう続ける。
「余も立ち会おう」
「よろしくお願いいたします」
そしてルストと宗冬は月詠のところへと向かったのだった。
月詠は朱鷺と一緒に居た。
ニコニコと笑いながらルストの着ていた着物を片付けている。
そんな折にルストが宗冬を伴いながら現れた。宗冬は朱鷺に言う。
「すまぬが少々席を外してくれ」
驚いたようだったが朱鷺は、
「承知しました」
とだけ言葉にして恭しく一礼して去っていく。あとにはルストと宗冬と月詠の3人だけ。
そして宗冬が先になりその後にルストがついて行く形で月詠に近づいて正座した。
まず言葉を出したのは宗冬だ。
「月詠殿、少々話がある」
「にいさま?」
「ルスト殿の事だ」
「るー?」
「そうだ」
宗冬の真剣な表情に何かを察したらしい。月詠も真剣な表情で二人の言葉を待った。
宗冬が言う。
「ルスト殿」
「はい」
促されるようにルストは前に出て月詠に向かい合って座る。そして、月詠の両手を自らの両手で優しく握りながら言葉を切り出した。
「つき」
「なに?」
なかなか言葉が出ない。泣かれる――と言うより悲しまれることの方が不安だった。でも乗り越えなければならない。ルストも勇気を出して告げた。
「お願いがあるの」
ほんの少しの沈黙。ルストが本題を告げようとする時に、月詠は自分から口を開いた。
「るー かえる?」
月詠は自らそう話した。
「るー おうち かえるの?」
月詠はわかっていたのだ。月詠の聡明さに驚きつつもルストの胸の中はすまなさでいっぱいだった。
「ごめんね。どうしても帰らないといけない理由があるの。そのためにはあなたの力を貸してもらわないといけないの」
月詠は黙ったままだった。悲しみを堪えるというより自分自身の気持ちに折り合いをつけるための沈黙だった。
そして寂しそうににこりと笑うと月詠はこう答えた。
「わかった」
「ありがとう」
「うん」
そして宗冬が言う。
「出立は明日の夜になる。よろしいかお二方」
月詠が頷く。
「あい」
ルストが答える。
「ありがとうございます」
そして月詠は小さな声でこう求めた。
「るー」
「なあに?」
「いっしょ ねんねする」
月詠はルストと一緒の寝床で寝たいと言う。これが最後の思い出になるだろう。
「いいわよ」
「あい」
そうして月詠はルストの求めを受け入れたのだった。
二人とも寝巻きに着替えてルストが使っている布団に入る。ルストが体を横にしてその胸元に抱かれるように月詠が体を預けてきた。
そうまるで――
〝親子のように〟
「るー」
「なあに?」
「ありがとう」
それは精一杯の笑顔。ルストを困らせまいとする月詠なりの精一杯の努力だった。
ルストは言う。
「お歌を歌ってあげるね」
「あい」
ルストは自分の故郷に伝わる子守歌を歌い始めた。自分が幼い頃に乳母に聞かせてもらった歌だった。
〜〜〜〜〜〜〜〜
眠れ我が子よ 何も怖いことはない
明るい月が見守る中で
話や歌にまどろみながら
そっと目を閉じお眠りなさい
さぁもうお眠りなさい
あしたはきっと 幸せがお前を待っている
〜〜〜〜〜〜〜〜
歌い終わる頃には月詠は寝息を立てていた。
一切の不安のない安らかな寝顔だった。
ルストは思う。このひと月は、この子にとって本当に正しいものだったのかと。自分がやってきたのは間違いだったのではないかと。
この子に癒しようのない傷を残すだけではないかと。色々なことを考えながらまんじりともせずにその夜は更けていったのだった。
そして明くる日、最後の日、
月詠は素直だった。必要以上にルストにまとわりつかずルストの帰り支度を見守っていた。
こちらの世界に入ってくる時に着ていた着物や持ち物や道具など用意する様をじっと見守っている。
準備が終われば、最後の表歩きだ。
浅草の仲見世を宗冬とともにめぐり歩き、ルストの見立てで菓子やおもちゃを買い与える。
昼過ぎには屋敷に戻り、別れの最後の宴。
普段は質素な食事の宗冬の屋敷だったが、この時ばかりは豪勢な料理が皆の目を楽しませた。
そして日が沈み夕暮れとなる。
満月が上り始めいよいよ刻限となった。
別室で小袖を脱ぎ、愛用していた傭兵装束に着替える。装備を身につけ準備を終え庭に臨む縁側に出ると、そこでブーツを履く。
手にしているのは愛用の武器の戦杖、全ての準備は終わり後は月詠に送ってもらうだけだ。
宗冬をはじめとして皆が見守っていた。
誰も余計な言葉は発しない。事の成り行きを不安げに見守っている。
庭の真っ只中でじっと立つルストに、着物姿の月詠がすました顔で歩み寄ってきた。
頭上には丸い満月。その輝く光が二人を照らしていた。
二人も向かい合う。ルストが片膝を折ってしゃがんで目線を下ろす。ルストと月詠はお互いに見つめ合った。
先に言葉を出したのは月詠だった。
「るー」
「なあに?」
「ありがとう とても たのしかった」
そしてこうも続けた。
「るー げんきでね」
「つきもみんなと仲良くね」
ルストの言葉に月詠はにこりと笑ってうなずいた。
「あい!」
そして笑顔のままで月詠はルストの頬に両手で触れる。
月詠の口から最後の言葉が告げられた。
「るー ばいばい」
「さよなら つき」
別れの言葉とともにルストは月詠を抱きしめる。
その瞬間、ルストは光に包まれた。
ルストのすべてが光の粒子に変わる。そしてそれは頭上の満月に吸い込まれるように霧散していく。
こうしてエルスト・ターナーは元の世界へと帰還して行ったのだ。
光の粒子が天へと登っていくその様を月詠はじっと見上げていた。
言葉は無い。泣き声もない。後ろ姿は落ち着き払っているようにも見えた。
だがそんな月詠に宗冬は静かに歩み寄ると、脇から回り込み様子をうかがう。宗冬の目に見えたのは、ぐっと唇をかみしめ泣くのを堪えていた月詠の姿だった。
彼女のその白い頬を大粒の涙が溢れるように流れていた。
宗冬は月詠を抱きしめてやる。その精一杯の努力を労うかのように。宗冬が月詠に告げる。
「月詠殿、ご立派です。よう堪えました。ご立派です。ルスト殿も安心してお帰りになられました」
「うん」
「でも、もう我慢しなくて良いのですよ」
「うん……」
それが我慢の限界だった。堰を切ったように月詠は泣き声をあげた。一人の子供として、母親の面影を重ねた人と別れざるを得なかった小さな子として。
失うことを何よりも怖がるはずの月詠は、精一杯の努力をして笑顔でルストを見送ったのだ。
月詠は泣いていた。泣き声をあげて泣いていた。
「今は気持ちの許すだけお泣きなさい。我々があなたをお守りします」
四神たちは天を見上げていた。
それは夢。
切ない夢。
満月が月詠にもたらしたひと月の夢。
それが月詠にとって幸せだったのか不幸だったのか誰にも分からない。
それ以後、月詠はルストの事は一言も口にしなかったということである。
──────────────────────────────────
次話公開は3月28日夕方5時公開です
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます