第30話 新しい役職
「が、学院……ですか?」
「そうだ」
ええと、とヘレナは目を泳がせる。
そういえば、言われた気がする。いつだったかは全く覚えていないが、いずれそうしたい、みたいな話を。
フランソワの弓術やシャルロッテの徒手格闘、マリエルの棒術を見ていたファルマスが、この国にはもっと才ある若者が大勢いるのではないかと、そう考えていたのだ。そして、そんな才を見出すために新たに学院を作りたいと。
だが、ヘレナの本音は。
そんなこと。
将軍になれた喜びで、すっかり忘れていた――。
「名は、帝立リヴィエール軍学校だ」
「リヴィエールというと……」
「そなたの弟子、マリエルの生家の名だな。アン・マロウ商会が建設費の七割を負担する代わりに、リヴィエールの名を冠することとなった。だが実際、アン・マロウ商会ならびにリヴィエール家は、学院の運営に何一つ携わらん」
「はぁ……」
建設費の七割を負担してまで、名前をつけたというのは非常に不思議だ。
それだけ金持ちなのだろうが、やはりヘレナに金持ちの考えは分からない。
「教材などを仕入れる門戸は、マリエルが任されているというアン・マロウ商会の支店に頼む予定ではあるが、それくらいだ。あとは学院周辺で開発が始まっているそうだが、そのあたりは奴らが勝手にやっていることだな」
「……ええと?」
「学院の上層部は、これから余が決める。少なくとも学院長はそなたであり、学院の幹部となる者はそなたに近しい者となるだろう」
「し、しかし……私が学院長など……」
「ただの学院ならば難しいだろうが、軍学校だ。将来的には軍人として、それぞれの騎士団に配属される者を育てるための場所となる。今まで新兵たちを育成してきたそなたならば、より良い学院とすることができるだろう」
「……」
確かに話を聞いたときには、面白そうだと思った。
フランソワの弓の腕を見出したときのように、シャルロッテの徒手格闘術が極みに達したときのように、マリエルが棒術に途轍もない才を示したときのように、アンジェリカが石を投げることにかけては、右に出る者がいないことが分かったときのように。
彼女らのように、秘めた才能を持つ若者――彼らを育てることの喜びを、味わうことができるかもしれないと。
「とはいえ、まだ来年の話だ。早くとも来年の春になる。無論、そのためにやらねばならぬ準備も多くなるが……そのあたりは、事務官とそなたとで連携してくれ。余としては、来年の四月に開校といきたいところだ」
「……」
現在は、六月だ。
これから夏がやってきて、秋が過ぎ、冬が訪れ、そして春になる。
来年の四月に開校――十ヶ月という期間は、決して長いものではないだろう。様々な準備もあるし、ヘレナ自身も考えねばならぬことが多々ある。
「ありがとうございます、ファルマス様」
「うむ……そなたに将軍職を与えながら、このように奪うのは申し訳なく思うが……」
「いえ……将軍になれないのは残念ですが、未来ある若者を育てる学院で指導を行うのも、また軍人としての喜びです。ファルマス様に期待に応えられるよう、精一杯頑張ります」
「うむ、頼んだ。では明日にでも、宮廷で事務官と引き合わせよう」
うん、とファルマスが頷く。
そして立ち上がり、部屋の端から酒瓶を持ってきて、再びソファへと腰掛けた。
「さて、飲むとするか。そなたはどうする?」
「……私は、酒があまり強くないので」
「そうだな……だが、時々ならば良いのではないか? あまり量を飲まず、適度に気持ちよくなる程度に飲む酒は、体にも良いぞ」
「はぁ……」
ファルマスがグラスを一つ、ヘレナの方に差し出してくる。
だがヘレナは、いつぞややってしまった自分の失態を思い出すと、なかなか手を出せなかった。
何せ今まで、ヘレナはファルマスの前で全く酒を飲んでいない。
ただ一度――ファルマスが初めて後宮にいるヘレナの部屋を訪れ、その心の内を教えてくれたとき。
あのときヘレナは、あろうことかファルマスに絡んだのだ。酒を呑み、酒に呑まれ、ひたすら愚痴を言っていた覚えがある。
あんな失態を、二度と見せるわけにはいかない。
だが勧められた酒を断るというのも、また失礼な話である。
ファルマスも時には、誰かと一緒に酒を飲む席が欲しいのだろう。酒の席でしか出来ない話もあるし、酔うことで互いにさらけ出せることもある。
それに何より、ヘレナにはまださほど自覚がないが、一応ファルマスの妻――皇后なのだ。夫婦が夜に同じ部屋で酒を飲むことは、極めて自然なことである。
結果的に、ヘレナの決断は――。
「そうですね……では、一杯だけ」
「なんだ、一杯だけか?」
「はい。あまり酔って、前後不覚になるわけにもいきませんので」
「ふむ……まぁ良い。では、一杯だけな」
とくとく、とファルマスがグラスへと琥珀色の液体を満たす。
同時に、ごくり、と喉が鳴った。
ヘレナは後宮に入ってきた折、割と多めの酒を持って入ってきた。そしてその酒を、既に飲み尽くしている。
特に三日目だか四日目だかの、一人で悪酔いしたとき――朝方に桶へとヘレナの(自主規制)を満たしたときなど、あの一晩で何本空けたかといったくらいだ。
その後、
そう――酒を、ヘレナは今まで断っていたのだ。
酒がないから飲まないだけではあったが、一切飲んでいない。それから酒を買い足すこともなく、今に至っている。
だから何かというと。
久しぶりに飲む酒――それが、途轍もなく魅力的に思えたのだ。
「では、いただきます」
「ああ。別段、おかわりが欲しければ言うといい」
「いえ、一杯だけですから……」
グラスを傾け、噎せるような酒精が口の中に広がる。
それが喉を焼くように流れ、そして次にやってくるのは熱さだ。久々に飲む酒――それが、これほどの天上の美味とは。
ほぅ、とヘレナは息を吐き。
そしてぐいっ、と一気にグラスの中身を飲み干してから。
「……やはり、もう一杯ください」
「うむ。良いぞ。飲むといい」
「なぁんでわたしがぁ、しょーぐんじゃなくなるんだぁ! うわぁぁん!」
「相変わらず弱いな」
「きいているのですかぁ、ふぁるますさまぁ!」
「それは柱だ」
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