第19話 訓練は続く

 禁軍に対しての新兵訓練ブートキャンプは、既に五日目を迎えていた。


 とはいえ、やっていること自体はそれほど変わっていない。ただひたすらに基礎体力訓練を繰り返し、上官であるヘレナの言葉に絶対服従させ、怠けている者がいれば容赦の無い折檻を加える――その繰り返しだ。

 だが人間というのは五日も過ごし、状況に全く変化がなければ、そこに走るのは諦めの気持ちである。

 彼らもその例に漏れず、ただヘレナの言葉に対して機械的に従う、従順な兵士になりつつあった。


「では、1班から4班までは外周を走れ! 5班から8班までは腕立て伏せに入る! 9班から先は集団行動訓練だ!」


「はっ!」


 二千五百人の禁軍を、ヘレナは十二の班に分けた。

 その内訳は適当だ。別段仲の良い人間で合わせたわけでも、背格好が似ている者で分けたわけでもない。

 そもそも軍における集団行動は、誰と組んでも十全に行うことのできる必要があるのだ。そこに、兵士の個人的な感情など必要ないのである。

 そして現在、その十二班でそれぞれ別の行動をさせている。


「マリエルは腕立て伏せ組の監視、シャルロッテは走り込みの監視を行え」


「承知いたしました」


「分かりましたの」


「少しでも怠けている者がいれば、私に言え。すぐに私が折檻を与えてやろう」


 ぱしんっ、と笞杖を響かせるヘレナ。

 禁軍の兵士たちが浮かべるのは一瞬だけ走った恐怖と、しかしそれを押さえ込んだ無表情――大分兵士らしい顔になってきた、とヘレナは満足げに頷いた。

 だが、この程度ではまだ足りない。

 彼らは特殊な状況下に置かれ、その上でヘレナに逆らってはいけないと叩き込まれている。つまり現状、彼らに与えているのは恐怖による統治だ。上官が怖いから逆らわず、従順な兵士を演じているだけである。

 ヘレナがこれから行うべきは、彼らを心の底から真の兵士に育て上げること。


「では、9班から12班まで行軍訓練を開始する! 9班より点呼っ!」


「はっ!」


「1!」


「2!」


「3!」


 兵士たちの、腹の底から響かせる声。

 少しでも声を出すことを怠れば、即座にヘレナの笞杖が飛んでくる――その事実を知っているがゆえに、全員が自分の持てる全力の声を出している。

 声とは、鼓舞だ。

 戦場において響き渡る味方の声は、自軍においてこれ以上ない鼓舞となる。目の前のことだけで必死になってしまう戦いの場において、味方の声というのは支えになるのだ。戦っているのが自分だけでなく、戦友たちが近くにいる――それだけで、心の底から力が湧き上がってくるのだ。

 ゆえに兵士は、声を出す。ひたすらに。

 こうして全力の声を出させるというのも、必要な訓練なのだ。


「だが……」


 響き渡る点呼の声に耳を傾けつつ、ヘレナは心の中だけで笑みを浮かべる。

 表情は決して揺るがさない。新兵訓練ブートキャンプにおいて教官は、決して甘い顔を見せてはならないのだ。

 しかし、教官にとって何よりの喜びは、兵士たちの成長だ。


「……まさか、一人の脱走者も自殺者も現れないとは、少しばかり見くびっていたな」


 ヘレナにとって、一つの嬉しい誤算。

 それはここに至るまで、禁軍兵二千五百人――たった一人も欠けることなく、ついてきているということだ。












 元々禁軍は、貴族家の子息ばかりを集めた寄せ集めの軍だった。

 貴族家の次男以下は、あくまで長男に何かあったときの代わりでしかない。そして長男が壮健であり、貴族家の当主として問題のない人物であった場合、次男以下の役割は何もないのだ。

 だが、かといって貴族家の息子が市井で働くというのも、一つの求心力低下に繋がる。勿論全くゼロというわけではないが、例えば貴族家の次男が街の食堂で働いている姿などは、なかなか見られないものだ。

 禁軍とは、そんな彼らの受け皿でもある。

 名前だけは貴族家の子だが、実質的に持っている権力は何もない――そんな彼らを、実家が持て余しただけのことだ。


 ゆえに――彼らには、帰る家がない。

 禁軍を逃げ出したところで、実家は長男が壮健なのだから、受け入れてくれない。そして名前だけは貴族という立場であるため、市井に職も見つからない。

 ヘレナの想像以上に、彼らは追い込まれている存在なのである。


「はぁ、はぁ……」


「ぜぇ……ひぃ……」


 現在、ひたすら走り込みをしている兵士たちは、息も絶え絶えの状態であっても、逃げるという選択肢はなかった。

 逃げたところで未来はないし、家も受け入れてくれない――それを分かっているからこそ、どれほどの拷問にでも耐える。こうして、まるで永遠に続くかのような走り込みであったとしても。

 夕刻になるまで訓練は続き、足腰が立たなくなってきた頃合いで、ようやく終わる。


「よぉし! 本日の訓練はこれで終了とする!」


「ありがとうございましたっ!!」


「では全員、テントに戻って休め! 明日も同じ時刻から訓練を始める!」


「はっ!」


 ヘレナの宣言と共に、新兵たちはそれぞれ、その場に倒れ込んだり腰を下ろしたり、各々で体を休める。

 朝食、訓練、昼食、訓練、夕食、就寝――これが、彼らの基本的なスケジュールだ。

 初日は全員が気を失うように眠り、二日目からは痛む体を押さえながら訓練を行い、そして夜には泥のように眠る――その繰り返しだった。

 だが、既に五日目。

 厳しい訓練であっても、体というのは次第に慣れてくるものだ。


「なぁ、おい……」


「何だよ」


「やっと……名前が、分かったぜ」


「何だと? マジか?」


 新兵の一人の言葉に、周りの兵士たちも食いつく。

 既に教官であるヘレナはテントに戻っているし、他の教官たちも監視こそしているが、私語を咎めることはない。

 そして何より、教官たちも理解しているのだ。

 今この場における、彼らの唯一の癒しを。


「ああ。天使は……あのツインテの子は、ロッテちゃんだ」


「天使はロッテちゃんか……! なんて可愛い名前なんだ!」


「女神は、マリーちゃんだ。二人が、そう呼び合ってたぜ。ちょっとだけ聞こえた……」


「女神はマリーちゃんっていうのか! おぉぉ!」


 シャルロッテとマリエル。

 ヘレナが監視役として連れてきた二人は、基本的に女性の姿がない禁軍において、これ以上無い癒しなのである。


「天使、めちゃめちゃ可愛いよなぁ……ロッテちゃんかぁ……」


「俺、女神様の方が……マリーちゃんの方が好みだな」


「どっちもめちゃくちゃ可愛いもんなぁ。女神と天使だもんよぉ」


「はー……」


「ロッテちゃん、明日も俺らの監視してくれるかなぁ」


「鬼じゃなきゃいいなぁ」


「だなぁ」


 だが。

 天使、女神、鬼――そう兵士たちに渾名されていることを、彼女らは知らない。

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