第16話 キャンプ初日終了
禁軍への
「では、これにて訓練を終える」
「……」
既に日は沈み、夜と言っていい時間。
ヘレナの言葉に対して、禁軍二千五百名は一人も声を出すことなく、ただ無言のイエスを答えた。
朝一から始めた、無限走り込み。
それを夕刻まで続け、その後は時間無制限起立姿勢継続――つまるところヘレナが良いと言うまで「気をつけ」の姿勢を保持するという拷問を経た彼らは、今すぐにでも倒れたい気持ちだろう。
今までは家格の問題もあって、ぬるい訓練しか受けていなかった彼らの表情は、一様にしてヘトヘトだ。数人吐いた者もいるが、吐いた者には容赦なく笞杖を叩き込んだため、残りは戻しそうになったものをそのまま飲み込んだことだろう。
これこそが、軍の訓練。
今までそれを知らなかった彼らには、その身でしっかり味わってもらうこととしよう。
「明日も同じく、ここに全軍で集合するように。起床ラッパで起きない者がいれば、中隊で連帯責任を取らせる。私としては、わざわざ訓練を行う前に体力を失うことはおすすめしない。以上だ」
「……」
「では、解散。各自、自分に割り当てられたテントで休むように」
「……」
返事をする気力も、反抗する気力もなく、兵士の大半がその場で腰を下ろした。
恐らく、足腰は既に感覚もないだろう。足が棒のようになる、とはよく言ったものだが、まさしくそんな気持ちだと思う。
だが、この程度は出来て当然のことだ。
軍に所属しているということは、戦争にかり出されて当然の立場である。そして戦争においては、全く予想外のことが起こるのも少なくない。それこそ敵軍の駐屯地まで丸一日走れ、走りきった後は駐屯地で死力を賭して戦え、などと命令されることだってある。
そのために軍人は訓練を積み、鍛練を重ねているのだ。
今日の訓練は、あくまで彼らの体力の程を測るためのもの。
そしてヘレナを相手に決して逆らってはならないと、彼らに印象づけるための初日だ。
「ふぅ……」
禁軍の兵士たちを尻目に、ヘレナは教官用のテントへと入る。
兵士たちのテントからは、少し離れた位置に設置されているテントだ。だが、これは「休むときくらいは上官の目がない方がいいよね」なんて優しさではない。
兵士たちの休むテントの全域を確認でき、かつ帝都へ繋がる街道をしっかり見張ることのできる場所――決して、脱走者を出さないための処置だ。
もっとも、今日に限っては脱走するほどの体力もないだろうが。
「お疲れ様ですの、ヘレナ様」
「お姉様、お久しぶりですわ」
「ああ、シャルロッテにマリエル。先に戻っていたのか」
「ええ。なかなかお話できませんでしたの」
テントの中に、先に入っていた二人に向けて、ヘレナは笑顔を浮かべた。
シャルロッテもマリエルも、ヘレナの送った使者から要請を受けてやってきた。そのため、今日ここに至るまでまともに会話も出来なかったほどだ。
何せヘレナは鬼教官――禁軍に恐怖を与えるための役割だ。彼女らとの和やかな会話を、兵士たちの目の前で行うわけにもいかない。
「聞いたぞ、シャルロッテ。随分と闘技場で大暴れしているとか」
「あら、何のことですの?」
「謎の仮面拳闘士ロッテ、とやらが連戦連勝らしいな」
「謎の仮面拳闘士のお話なら、わたくし存じ上げませんの。何せ謎の仮面拳闘士ですし」
うふふ、と妖艶に笑うシャルロッテ。
実際のところ、いつぞやの試合で思い切り「謎の仮面拳闘士ロッテですの!」とか自己紹介していた気がするけれど、気にしないでおくとしよう。
「それとマリエルは、まだ後宮にいるとか」
「ええ、お姉様。あたくし、お姉様の和子を乳母として必ず育ててみせます」
「……乳母は、母乳が出なければ無理だと思うが」
「問題ありませんわ。アン・マロウ商会では新生児から乳児まで幅広く、ミルクを取り扱っております。勿論、料金はあたくしが持ちますわ」
「……」
そういう問題ではない――そう言いたいところだが、堪える。
だが、後宮が解体されたにもかかわらず居座っているマリエルには、ファルマスも頭を抱えている現状だ。先日、禁軍に対する
この
「ですが久しぶりに訓練を見て、あたくしもなんだか滾ってきましたわ」
「マリーと同じ意見というのは癪ですが、わたくしもですの」
「ふっ。お前たちに施した訓練より厳しいだろう?」
「ええ。あたくし正直、初日からあの訓練だったら逃げ出してますわ」
マリエルが、苦笑と共にそう告げる。
シャルロッテも同じ感想であるらしく、うんうんと頷いていた。
「それで、明日からはどうなさるんですの?」
「明日からも、変わらず基礎体力訓練だ。走り込み、筋力作り、それに集団行動をひたすらに学ばせる。吐き、倒れ、そして立ち上がることで体力はついてくるものだ」
「……ああ、想像もしたくないですわ」
「お前たちも、明日からはしっかり働いてもらうぞ。さぼっている者がいれば、容赦なく声を出せ。厳しく言葉で罵れ。ただし、お前たちは兵士に手を上げないように」
「あら、そうですの?」
「ああ」
マリエルとシャルロッテは、あくまで兵士たちの監視役としてここに来てもらっている。
勿論、訓練教官も赤虎騎士団、青熊騎士団から派遣してもらっているが、その数は決して潤沢というわけでないのだ。さらに訓練教官にもヘレナから指導を行う必要があるし、手が足りないというのが本音である。
だが訓練における鉄拳制裁、笞杖による鞭打ち――これは、割と技術が必要なのだ。
何も考えずに本気で殴れば、骨や歯を傷つけることにもなり得る。笞杖による鞭打ちも、慣れない者がやれば肉を裂く。
そのあたり、割と慣れと技術が必要なものなのだ。
「だからまぁ、お前たちは奴らの自尊心を刺激するために、罵るのが仕事だ。お前たちのような若い女から罵られたら、奴らも悔しいだろうよ」
「はぁ……」
「……」
しかし、そんなヘレナの言葉に対して、マリエルもシャルロッテも首を傾げた。
「ですが、お姉様……それは、逆効果ではありませんか?」
「中には、そういうのが好きという男もいますの」
「ははは。クリスティーヌではあるまいし、そんな軟弱な男がいるものか」
ヘレナは知らない。
若い女子から罵られることに対して、快感を覚える男性というのが割と多いことを。
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