第95話 訓練終了-ファルマスの場合-

 しょりしょり。

 そう音を立てながら、リリスによる新兵訓練ブートキャンプ開催から三十日目。ファルマスはリリスに剃刀で髭を剃られていた。

 ファルマスは男だ。当然ながら髭も伸びる。そして一般的な男性というのは、一月も髭を剃らねば盗賊のような見た目になるものだ。

 だが、何故今ファルマスは髭を剃られているのだろうか。

 唐突にリリスが「ちょっと来なさい」と言って座り込み、その腿の上に後頭部を乗せられて。


「……」


「……」


 真剣な眼差しで、ファルマスの髭を剃るリリス。

 それほど毛深い方ではないが、ファルマスにも少なからず髭はあるのだ。将来的には威厳のある皇帝を装って伸ばすべきなのだろうか、と考えている程度には。

 全体を剃り、髭のなくなったファルマスの顎を軽く撫でてリリスはうん、と頷いた。


「はい、終わったわよ」


「何故俺は髭を剃られたのだ」


「ああ、うん。私はあんまり、毛深い男の人ってダメなのよね。胸毛とか腹毛とかもうダメ。脛毛もできればない方がいいわ」


「貴様の個人的な好みなど聞いておらん」


「お披露目ですもの。身綺麗にしておくのは当然でしょ」


 むぅ、とファルマスは眉を寄せる。

 それと共にリリスの腿から頭を上げて、自分でも顎を撫でた。見事なまでに、僅かな毛根も残すことなく綺麗に剃られている。

 剃刀を渡してくれれば、自分でやったものを。


「それじゃ、これで私の訓練は終わり。私も、満足のいく指導ができたと思っているわ」


「最初は、貴様を何度恨んだことか分からんがな」


「当然よ。教官なんて、嫌われて当然の仕事ですもの」


「今は、感謝している」


 ファルマスの言葉に、僅かに微笑みを浮かべるリリス。

 だが、それは事実だ。ファルマスが今まで、どれほどぬるま湯の訓練を受けていたのか痛感させられる事実だった。

 グレーディアを武術指南役として、槍の訓練は受けていた。毎日、午前中に後宮に顔を出して、ヘレナから指導を受けた。それで、ファルマス自身は満足していたのだ。

 だけれど、いざ本物の訓練を受けてみて思う。

 武の極みとは、どれほどの深淵に存在するものなのだ、と。


「確かに、あなたは強くなった。でも、まだまだ武の極みには程遠いわ」


「当然であろう。己が知れば知るほど、その頂が遥か遠ざかってゆく気がする」


「ま、私はもう本国に帰るから、今後の訓練の継続はできないわ。姉さんに相手してもらうなり、自分で研鑽するなり、それはあなたの自由になさい」


「……俺の全力をもって、そなたを我が国に招聘したいものだがな」


 ファルマスは肩をすくめて、そう呟く。

 だが、そんなこと不可能であることは分かっている。リリスはあくまでガルランド王国第二王子、ラッシュの妻だ。そんな相手を、皇帝の武術指南役として招聘することはできない。

 ただでさえ、かつて最強と呼ばれた将軍グレーディアを武術指南役としているのだ。その状態で他国の人間を、しかも女性を招聘するなど、グレーディアの面子を潰すようなものである。

 それをリリスも分かってか、軽く肩をすくめるだけで留めた。


「さ、そろそろ時間よ」


「……先も言っていた、お披露目とやらか?」


「ええ。多分、もう姉さんたちも待っているはずだわ」


 リリスが立ち上がり、部屋の扉――今まで頑なに開かれなかったそれが、ファルマスの前で開かれる。

 差し込んでくるのは、昼の眩い光。思わず目を細めて、それから扉から出ていくリリスの後を追った。

 そしていざ外に出てみれば、そこは後宮の一室。

 後宮全体の、半ばほどにあるだろうか――そんな、狭い一室にそのまま入っていたのと同じだったらしい。

 そして、リリスの向かう先は――中庭。


「ここからが、本番よ」


「……」


「見せてみなさい。私の伝えた技術の全てを。私が教えてきた訓練の成果を」


「ああ……」


 中庭は、既に先客で溢れていた。

 中央にいるのは、ヘレナと小男。そして見知らぬ女と共にいるのは、背格好からしてダインスレフの第一王子アーサーだろうか。そう考えると、恐らく小男はガルランドの第二王子ラッシュだろう。

 問題は、どちらもぼろぼろの服に身を包み、ラッシュに至っては盗賊の頭かと思われるような髭を伸ばしていることだろうか。アーサーの方も、全体的に無精に伸ばしている。


 そんな彼らを囲むのは、後宮の美姫たちだ。

 中庭を囲む廊下に、まるで全員集まっているのではないかと思えるほどに溢れ、わいわいと騒いでいる。

 これは、一体――。


「きゃあっ!」


 そして、そのうちの一人が、ファルマスに気付いた。


「陛下よ! ファルマス陛下がいらっしゃったわ!」


「まぁ! お噂は本当でしたのね!」


「陛下! 頑張ってくださいまし!」


「む、む……?」


 後宮の美姫たちに道を開けられ、まっすぐに中庭へと向かう。

 何故、こんなにも観衆が集まっているのだろう。まるで、これから催しでもあるかのように。

 物凄く嫌な予感が、背筋を過ぎる――できれば、杞憂であってほしいけれど。


「ようこそ、ファルマス様」


「……ヘレナ、そなたの企みか」


「私の妹が、無礼を働いたことを深くお詫び申し上げます」


「構わぬ。ふっ……余が、どれほど未熟であったか知らされた日々だった。無論そなたも、リリスも罰することはない」


「ありがとうございます」


 ヘレナの言葉に頷き、返す。

 ただ、そう謝罪をするためだけに、ここに呼ばれたのではないことは分かっている。

 観衆たちは、恐らく知っているのだろう。これから何が行われるのか。


「では、その訓練で得た成果を、ここで示してください。ファルマス様」


「ほう……」


「幸い、相手はここに。私自らが鍛えたガルランドの第二王子ラッシュ、そして私の妹アルベラが鍛えたダインスレフの第一王子アーサー……二人とも、私たちが鍛えた男どもにございます」


「……」


 ラッシュを見る。

 敵愾心に溢れる視線は、かつての柔和な彼とは程遠くすら思える威圧だ。

 アーサーを見る。

 こちらは自信に溢れた、以前よりも二割増しくらいに筋肉の膨張した姿。

 自分だけでなく、この二人も――この一月、濃密な訓練を受けてきたのだろう。


「お三方のやる気を満たすために、後宮の女たちをここに呼び寄せました。多少騒がしいやもしれませんが、観衆がいる方が戦意も上がりますからね」


「……」


 リリスの言っていた、お披露目。

 その意味が、ようやく分かった。

 この一月で得た、ファルマスの武――それを、この男たちと戦うことで示せと、そういうことだ。


「何より、ファルマス様」


「……」


「ご自身の後宮で囲う姫たちの前では……無様には負けられませんよ」


「ふん……」


 余計なことを、と言いたい気持ちはある。

 だけれど、それも含めての訓練なのだろう。これまで奸臣の下で無能な皇帝を演じ、後宮にすら悪い噂の届いていたファルマスだ。

 この機に、それを払拭する――。


 そんな、ヘレナの余計な気遣いのせいで。

 ファルマスにとって、これは――決して、負けることのできない戦いとなった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る