第94話 訓練終了-ラッシュの場合-
ラッシュ・アール・ガルランドは、獣のように研ぎ澄まされてゆく己を感じていた。
ヘレナに何度となく殴り飛ばされ、蹴り飛ばされ、鏡のないこの空間では分からないが、もしかすると顔の形が変わっているのではないかと思えてきた。腕も足も以前より細くなった気がするし、王族ゆえの不摂生と美食ゆえに少し出てしまった腹の肉も、綺麗に取り払われて筋肉が浮かび上がっている。
それと共に言いようのない体の軽さと、自分の体が自分の意のままに動く――その感覚も、同時に身につけていた。
ヘレナによって調整された毎日の質素な食事、強いられた激しい運動、酒や甘味といったものの強制的な断絶――それが、ラッシュの体の中に溜まった毒を、全て取り除いてくれたと言っていいだろう。
「……」
「……」
暗闇の中で、ヘレナと睨み合う。
窓のないこの空間で、このようにヘレナと対峙し続けて、どれほどの期間が経ったのか全く分からない。昼夜の感覚もないし、腹時計に頼ろうにも常に空腹状態だ。睡魔は常に襲いかかってくるし、ラッシュにとって時間を測る全ての術が絶たれていると言っていいだろう。
そんなヘレナは、僅かに目を伏せている気がする。暗闇の中であれ、ずっとこの闇が続いているのだ。その視力は、闇の中でもヘレナの顔立ちを認識できる程度には保てている。
ゆっくりと、音もなく木剣の柄を握る。
いくらヘレナが卓越した武人であるといえ、眠らずに平気というわけではない。それはラッシュも同じことだが、そもそもの条件が違うのだ。
既に何度、ヘレナによって石の床に転がされたか分からない。
だが、ヘレナの条件はただ一つ――『私に一撃でも当てることができれば、この部屋から出してやる』である。
つまり、ラッシュの前で僅かにでも油断をすることができないのだ。
「……」
音もなく立ち上がり、無言でゆっくりと近付く。
僅かな足の音さえも響かせず、動きによる空気の流れも全力で抑える。一歩、二歩とその距離が少しずつ近付くが、ヘレナの瞳が開く様子はない。
焦るな――そう言い聞かせながら、さらに一歩。
もう一歩踏み込めれば、木剣の届く距離――。
「……」
「……」
ヘレナの目は、まだ開かない。
ゆっくりと踏みしめたその一歩は、ようやくヘレナに木剣の届く。
ラッシュの射程――。
「――っ!」
しかし、そんな必殺の絵図をもって振り下ろされたラッシュの木剣は。
そのしなやかな指先によって、止められていた。
音もなく近付き、殺気も出すことなく、限りなく無に近い動きで振り下ろしたというのに。
「狙いは良いが、甘いな。多少目を瞑っていても、私には『領域』がある」
「くっ……!」
「『領域』とは、武人が持ち得る絶対の距離のことだ。この距離の中に誰かが入れば、目を閉じていようと眠っていようと気がつく。微細な空気の動き、衣擦れの音、心音――人間には、絶対に消すことのできない音があるのだからな」
ヘレナが、目を開く。
どれほどまでの、化け物だというのか。
そして木剣を掴んだその手は、ラッシュの全力でも振りほどけないほどの膂力。
「さて――数えるのが面倒になってきたが、これで何度目だろうな」
「あああああああっ!!!」
「ふんっ!!」
木剣を掴まれたままで、形振り構わず拳で攻撃しようとした、その瞬間に。
ヘレナの足が、ラッシュの鳩尾に突き刺さる。
鋭い爪先が間違いなく捉えたその一撃に、嘔吐感と共にラッシュが吹き飛ぶ。その手に握っていたはずの木剣を、ヘレナの手の中に置き去りにして。
「げほっ……ごほっ……ぐ、は……」
「それ、受け取れ。まだ終わっていないのだろう」
からんっ、と木剣の転がる音。
それが再び、倒れたラッシュの手元へ戻ってくる。これで、もう何度石の床に転がされただろうか。
屈辱に涙すら浮かんでくるが、そう簡単に泣くわけにいかない。
泣いて喚いたところで、何も変わらないのだから。
「は、ぁ……ぜぇ……」
「どれ、少し腹が減ったか。少し待て」
「……」
腹が減ったどころか、嘔気が激しい。
だが、恐らくヘレナも空腹だったのだろう。さすがに食料はこの中に置いていないらしく、ヘレナが扉を僅かに開いて出ていく。扉を開いた瞬間に差し込んだ光に、思わず目を細めた。
どうやら、外はまだ昼間であるらしい。
「……」
ラッシュがヘレナに勝てる要素は、どこにもない。
そもそもヘレナは鍛え抜かれた武人。どこに攻撃しようとも、反撃されて転がされる結果になるだろう。膂力の面でも、男であるラッシュよりもヘレナの方が遥かに強い。
寝込みを襲うこともできず、隙を作ることもできない――こんな相手に一撃を入れる方法など、あるのだろうか。
「……」
だが、ラッシュは目を見開く。
視力の上で、条件は同じであるはずだ。先程ヘレナは、外に出ていった。つまり、ヘレナは昼の光の中で干し肉を取りに向かったのである。
そして、明るい状態に慣れた目が闇に馴染むまでは、時間がかかる。それこそ、この空間においてラッシュの姿を認識できなくなる程度には。
近付けば『領域』とやらで察知されるかもしれないが、方法は一つではない。
ぎぃっ、と扉が開くと共に。
ラッシュは、目を閉じた。
少しでもヘレナの姿を捉えるためにも、今は目に光を入れるわけにいかない。
「それ、食事だ。ついでに水もやろう」
「……」
「それと、良い報告があるぞ。ようやく、これで終わりだ」
ぎぃっ、と扉が閉まる。そして再び、ラッシュは目を開いた。
暗闇の中であれ、捉えることのできているヘレナの姿。
そして部屋の端に移動したラッシュの姿を、恐らくヘレナは捉えられていないだろう。
無音で木剣を拾い上げ、その剣先が確実にヘレナを捉えられるように。
投擲した。
「ああ、そうだ。言い忘れていたが」
だが、そんな必殺の一撃に成り得るであろう、ラッシュの木剣が。
あっさりと、ヘレナの右手で叩き落される。
からんっ、と乾いた音と共に、木剣が転がった。
「私の『領域』は、この部屋全域だ。残念だが、この部屋にどこに潜んでいるのか、何をしているのか、視力がなくとも分かる」
「……」
全身から、力が抜ける。
考えても、考えても、ヘレナはその先を行く。どれほど努力すれば、そのような域に至れるのか。
「さて。先も言ったが、これで終わりだ」
「……終わ、り?」
「ああ。一月に及ぶ
「……」
ようやく終わった。
だけれど、ラッシュの心の中にあったのは、そんな安堵よりも。
結局、最後まで一撃も当てることができなかった――そんな、屈辱が占めていた。
「……ヘレナ、殿」
「うむ」
「僕は……僕が、第二王子で、本当に良かったと、思っていますよ……」
「ほう」
ガルランド王国は、ガングレイヴ帝国の友好国である。
だけれど、もしも第一王子である兄に不幸があったとしたなら、その王位はラッシュが継ぐことになる。
そのとき、この屈辱を思い出したら、ラッシュは止まることができないかもしれない。
「もしも僕が王なら……あなたと、戦争をしたいと思うかもしれない」
「それは実に楽しそうだな」
だけれど、そんなラッシュの宣戦布告にも似た言葉に。
ヘレナは、ただ笑って返すだけだった。
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