第80話 夜会の始まり、忌まわしい記憶
「何を惚けておる。行くぞ」
「え、えっと……!」
ファルマスに手を引かれて、控え室の幕を越える。
その向こうでまず見えたのは、にこにこと微笑むルクレツィアとアンジェリカ、どこか複雑な顔をしているアントン、笑みを浮かべながらヘレナを見るアーサーとラッシュ。そして、大広間を埋め尽くすかのように広がっている列席した貴族たちの姿だった。
このように貴族たちの前に出るのは、これで二度目だ。戦場においては万の兵の前で鼓舞することすら何の緊張も抱かないヘレナだが、こと夜会などという慣れない場所では緊張してしまうものだ。
どのような立ち振る舞い方が適切であるか分からず、思わず硬直してしまう。
「む……」
突然止まってしまったヘレナに戸惑うように、ファルマスが微笑み。
そして、小さく息を吐いてから列席する貴族へと手を挙げた。それだけで、わぁっ、と貴族たちの間から声が上がる。
これぞ、皇帝の風格。
貴族たちの上に立ち、この国の秩序を守る頂点に座する男。
「貴族たちなど、芋だとでも思えば良い」
「えっ……」
「そなたは、戦場において無双の傑物であろう。ここは戦場でない。どのような好奇の視線に晒されようと、命まで奪われることはないのだ。堂々としていれば、それで良い」
「……」
ふぅっ、とヘレナも自分自身に気合いを入れる。
確かに、ファルマスの言う通りだ。批判や嘲笑の矢弾で、命が奪われることなど絶対にないのだから。
そして何より、ヘレナの隣には皇帝であるファルマスがいてくれる。
多少ヘレナが失敗したとしても、ファルマスがすぐにフォローを入れてくれるだろう。
「失礼しました、ファルマス様」
「落ち着いたか?」
「はい、問題ありません」
皇后陛下、などと呼ばれてしまったから少し意識してしまったが、ヘレナはあくまで今宵で最後の皇后代理だ。
ファルマスの心象を良くするために失敗してはならない――そんな目に見えない糸に雁字搦めにされていた自分を解き放ち、落ち着いて周囲を睥睨する。
自分はあくまで、ファルマスの近衛としてここにいるようなものだ。そう考えると、気が楽になってきた。
「諸君、今宵はこのように集まってくれたこと、感謝する」
ファルマスがそのように、低く落ち着いた声でまず貴族たちを労う。
今日の夜会の開催は、極めて突発的なものだった。ダインスレフ王国第一王子アーサー、ガルランド王国第二王子ラッシュという他国の要人二人が非公式に訪れたために、急遽開かれたものである。
だというのに、これだけの貴族が集まっているのは、それだけファルマスの信が高いのだろう。
「今宵はダインスレフのアーサー王子、ならびにガルランド王国のラッシュ王子両名がこの宴に参加してくれている。我が国とガルランドは、同盟国としてより深い結びを得ることになるだろう。そして我が国とダインスレフは、この宴を通じて今後、友好的な関係を築くことができるであろう」
アーサー、ラッシュの二人が頷く。
次代の両国を担う立場である二人が、ガングレイヴとの友好的な関係を望んでいるのだ。今後、ガングレイヴを中心として三国は国交を増してゆくことになるだろう。
もっとも、この二人来た理由――『ヘレナが武闘会を開くから参加するために来た』という謎のそれを、知っている貴族はどれほどいるのだろうか。
「うむ……このような宴において、長い挨拶はそれだけで迷惑であろう。余からは以上だ」
ははっ、と軽い笑いが起きる。
こういった場において、偉い人というのは挨拶が長くなりがちなものだが、ファルマスはそういった人の機微にも鋭敏だ。既に酒を飲んでいる貴族もいることだし、長い挨拶をすればそれだけで場の雰囲気が重くなる。
上役としても、やはり優れた人物なのだ。ファルマスという男は。
「今宵は、楽しんでほしい。乾杯!」
「乾杯っ!!」
貴族たちがグラスを掲げ、ファルマスの挨拶はそれで終わった。
これで、あとは各々宴を楽しむことだろう。もっとも、『夜会は貴族の戦場』という言葉もあるように、そう何もかも忘れて楽しむことができる者というのも少ないだろうけれど。
ふぅ、と小さくヘレナは息を吐く。
今日のヘレナは皇后代理だが、少しやりたいことがある。ファルマスに反対された場合は仕方ないにしても、軍人として通すべき筋は通しておかねばなるまい。
「ファルマス様」
「む……どうした?」
「申し訳ありません。少し、挨拶をしたい者がいるのですが」
「……誰だ?」
ファルマスが、ヘレナの言葉に眉根を寄せる。
本来、夜会において皇帝と皇后は、開始位置から動かない。貴族の元へ皇族から向かうというのは、本来ありえないことなのである。
そもそも貴族は、皇族とパイプを繋ぎたいと考えている者が多いため、夜会の開始から終了まで貴族からの挨拶だけで終るということもある。そんな中で、ヘレナが自ら挨拶をしたい相手がいるというのは、ファルマスにしてみれば意外だろう。
その貴族家は『皇族が自ら挨拶をするほどに期待されている』と勘違いするかもしれないし、他の貴族から『皇族からの覚えが良い家である』と思われる可能性が高い。そして何より、他の貴族家からは『皇族に自ら挨拶に赴かせた無礼な家』と思われるのだ。重大なマナー違反である。
「控え室の中で、名前を聞いただけですが……レーヴン伯爵家、アーネマン伯爵家、リヴィエール男爵家、ランバート伯爵家、シュヴァリエ男爵家、スネイク伯爵家、セルエット伯爵家、ランドワース伯爵家、ネードラント伯爵家です」
「……ふむ、なるほど」
「よろしいでしょうか?」
「あまり推奨はできぬが、まぁ良いだろう。まだ正式に皇后であると発表したわけではない。それに、確かにその家の者たちには、挨拶が必要だな」
「ありがとうございます」
今はもう存在しないエインズワース伯爵家とハイネス公爵家を除く、ヘレナの弟子たちの生家である。
アンジェリカはルクレツィアの希望があって鍛えたが、他の者は生家に対して何の報告もしていない。恐らく、現在も後宮で安穏な日々を送っていると思っているだろう。
だからせめて、軍人であるヘレナが少し鍛えてしまったことを、報告しておいた方が良いはずだ。
「だが、少し待て。そなたには、まだやるべきことがある」
「え……?」
「うむ。まぁ、これも悪しき慣例だな。今後改革してゆく必要があろうが……」
ファルマスの独白と共に、宮廷楽団が演奏を始める。
それはヘレナにとって、忌まわしい記憶の一つ。
「ま、まさか……!」
「ああ。さぁヘレナ、手を」
大広間の中央がぽっかりと空いて、貴族たちが眺めるそれは、夜会の始まりを示すものーー皇帝のダンスである。
一周忌の式典の際には、ルクレツィアの指導の元で体に叩き込んだ。
だがその後は、
ダンスなど忘れた。
そう言い出せないまま舞台は整えられ、ヘレナは目の前が真っ暗になるようだった。
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