第79話 夜会への入場

「こ、こちらにございます!」


「うむ、ご苦労」


 宮廷。

 以前に、一周忌の夜会に参加した時以来、ほとんど訪れたことのない大広間――その控え室へと、ヘレナは到着した。

 勿論、後宮を出たヘレナが一人で行動することなどは許されず、五人の騎士によって護衛をされながらである。纏っているのは皇后としての正規のドレスであり、今日の昼にファルマスが持ってきたものだ。ヘレナの男よりも高い背丈に合わせてオーダーメイドされたのであろうそれは、勿論素材そのものも高級品であり、非常に着心地の良いものだった。

 震える手で扉を示す騎士の一人に、ヘレナは労いの言葉をかける。

 騎士たちは緊張しているようで、中には右手と右足が一緒に出ていた者もいた。恐らく、それは『将来の皇后陛下だから』という理由での緊張ではなく、同じ軍における元上官を案内することに緊張していたのだろう。そもそも案内してくれた騎士たちも、かつてリファール王国が攻めて来た際に、ヘレナが率いた記憶のある男たちだったのだ。


 一応、ファルマスは護衛という形でこの五人に案内されたのだろうけれど、実質的には全く無駄な人員だと言っていいだろう。この身が徒手空拳であろうとも、五人の騎士程度に遅れをとるようなヘレナではない。

 だが、皇后候補としての体裁もあるのだろう。そのあたりの面倒くささに軽く溜息を吐いて、ヘレナは部屋の扉を開く。


「失礼します……」


「おお、ヘレナ。来たか」


「あ、ヘレナ様!」


 大広間に続く控え室であるそこは、皇族にのみ立ち入りを許されている場所だ。

 大貴族や他国の重鎮など、控え室が個別で用意されている者は他にもいるが、皇族が控えるのはこの部屋と決まっている。かつて軍人として夜会に参加したときには、控え室すら与えられなかったヘレナだというのに、人間というのは変わるものだ。

 そして、皇族のみが控える場所であるのならば、そこにいるのは皇族だけである。


 皇帝であるファルマス、皇妹であるアンジェリカ、そして皇太后ルクレツィアの三名だ。


「あら、ヘレナちゃん。よく似合っているわね。凛々しいわ」


「ありがとうございます、ルクレツィア様」


「そんな風に堅苦しくなくても、もうわたくしのことを母上と呼んでくれてもいいのよ」


「い、いえ、さすがに……」


 ルクレツィアのフレンドリーすぎる言葉を相手に、苦笑を浮かべる。

 さすがにこの場で言うことではないにせよ、ヘレナが皇后扱いとされるのは今日で最後だ。そうなれば、この気安すぎる皇太后とも距離を置くことになるだろう。

 ファルマスからは『今宵で最後』と言われたのだ。もう今後ヘレナがルクレツィアのことを母と呼ぶ日は、来ることがない。


「丁度良い時間だ。既に貴族たちの入場は始まっているぞ」


「あ……そうでしたか。それは、失礼しました」


「なに、どうせ余とそなたの入場は最後だ。ゆるりと待とうではないか」


「そうなのですか?」


「ああ。前回も、夜会の際には最後に入場しただろう」


「……」


 そういえば、そうだった気がする。

 確か、式典の際には「まずは、両陛下、御成り!」と言われた気がする。だけれど、その後の夜会においては貴族たちが呼ばれる最後に、『ファルマス・ディール=ルクレツィア・ガングレイヴ皇帝陛下、ならびに寵姫ヘレナ・レイルノート、ご入場!』とか言われた気がする。アントンがすごく言いにくそうにしていたのも記憶に新しい。

 やりたくもないダンスを二度もやったり、思い出したくないことだらけだから、できれば記憶から消し去りたいものだが。


「しかし、誰が考えたのか分からぬが、一組ずつ呼ばれて入場するこの体制は、待ちくたびれてかなわぬ。こういった体制も、抜本的に変えてゆく必要があろうな」


「はぁ……」


 確かに、控え室から幕を隔てた向こうでは、「レーヴン伯爵家ウィリアム・レーヴン伯爵、ならびにフローラ・レーヴン伯爵夫人、ご入場!」とアントンの声が聞こえる。今日もアントンは、宴の司会を任されているらしい。

 この入場合図をガングレイヴ全ての貴族に対して行うとなれば、さすがに時間がかかりすぎるか。少なくとも伯爵家以上の爵位だったとしても、ガングレイヴ全体では百以上の家があるのだから。

 それだけの時間を、ただ無為に過ごすというのも、ヘレナにしてみれば苦痛だ。腕立て伏せでもしていようか、と一瞬思ったけれど、現在の衣装を考えてやめた。さすがに、皇后の衣装を汗で濡らすわけにはいくまい。


「わたくしが最初に呼ばれるのよね、兄様!」


「ああ、まずはアンジェリカが呼ばれて、次に母上だ。最後に余とヘレナという形になる」


「わたくし、ちゃんと気品を持って入場するわよ! そう、わたくし、優勝者ですもの!」


「……うむ、そうだな」


 ふふんっ、と随分気合いの入っているアンジェリカに対して、ファルマスが溜息を一つ。

 優勝者とはいえ、あくまで『ヘレナの弟子たちによる武闘会』という極めて狭い範囲なのだが。それでも、満員の観衆の中で戦った結果の優勝は、アンジェリカも嬉しいのだろう。

 そんなアンジェリカに溜息を吐いているのは、ルクレツィアも同じだったが。


「はぁ……どうしてアンジェリカ、こうなっちゃったのかしら……」


「どうしたの、母上!」


「いいえ……母として、わたくし喜ぶべきなのかどうか分からなくなってきたのよ……」


「……」


 ちくりと、胸に棘が刺さるような感覚。

 確かに世の母たちで、娘が戦闘脳になって喜ぶ者は少数だろう。アンジェリカをそうしてしまった責任の一端はヘレナにもあるため、少しばかりむず痒くなってくる。

 ちょっと育て方間違えたかな、とは思わないでもない。後悔はしていないけれど。

 そんな風に考えながら、暫し待っていると。


「おっと……もうそろそろだな。先程、レイランド公爵家が呼ばれた」


「あら……じゃあ、そろそろね。アンジェリカ、準備をなさい」


「はぁーい」


 鏡の前で、アンジェリカが髪型を直し、ドレスの裾を見るためにくるりと回転する。

 そんな仕草もまた、年相応で可愛らしいものだ。そのドレスの裾に、ちらりと銀食器シルバーが見えなければ。


「アンジェリカ・ディール=ルクレツィア・ガングレイヴ皇女殿下、ご入場!」


「それじゃ、先に行くわね!」


「転ばないようにね、アンジェリカ」


「ええ!」


 快活にそう笑って、幕の向こうへと消えてゆくアンジェリカ。

 あとはアンジェリカが会場の階段を降りてから、横に捌ければ終了である。


「ルクレツィア・ハインリヒ=アルベルティーナ・ガングレイヴ皇太后陛下、ご入場!」


「先に行くわね、ファルマス、ヘレナちゃん」


「ええ、母上」


「はい、ルクレツィア様」


 ルクレツィアが一つも躊躇することなく、幕の向こうへ消えてゆく。

 そして部屋に残るのは、ファルマスとヘレナの二人だけだ。


 そこで、ふと疑問に思った。

 今日、ヘレナは何と呼ばれるのだろう。

 以前の夜会の際には、『寵姫ヘレナ・レイルノート』と呼ばれた。しかし今日は、一応皇后代理だ。ヘレナ・レイルノート皇后代理、とか呼ばれるのだろうか。


「では、最後に! ファルマス・ディール=ルクレツィア・ガングレイヴ皇帝陛下、ならびに……」


「よし、行くぞ。ヘレナ」


「は、はぁ……」


 何故かアントンの声が一瞬止まり。

 そして全てを諦めたように、続きを発した。


「ヘレナ・アントン=レイラ・ガングレイヴ皇后陛下、ご入場!」


「…………………………え?」


 その宣言は、まさしく。

 ヘレナを皇后にするのが決定したと、貴族たちに告げることと同じだった。

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