第78話 アレクシアの今後
ファルマスがヘレナの部屋を出てから暫くして、アレクシアが戻ってきた。
勿論、その理由はヘレナが今夜行われる宴とやらに出席するにあたっての、湯浴みと着替えのためである。もう後宮に入ってから随分経つというのに、まだ自分で自分の身嗜みを整えることができないのは、ヘレナの一つの不満点でもあった。
手早く湯浴みを済ませて、ファルマスの持ってきた服へと袖を通す。
「それでは、失礼いたします。ヘレナ様」
「ああ」
「……いつものことながら、ヘレナ様にぴったりのドレスを誂えてくださっていますね」
「そうだな」
ヘレナは、女にしては長身だ。並の男よりも背が高いヘレナは、少なくとも女物の服を扱う店で、自分に見合ったサイズのものを見たことがない。そのため、軍にいた頃はほとんど男物の服ばかりを着ていたのだ。
レイルノート侯爵家にはヘレナの身長に合わせたドレスも三着ほどあるが、それもほとんどオーダーメイドで作ったものばかりである。侯爵家の令嬢としては、これ以上ないほどに服を持っていないと言うべきだろう。本人が必要を感じなかったというのが、その最大の理由だが。
しかし、ファルマスの持ってくる服は、常にヘレナの体型に合わせた特注品である。
いつぞや、一周忌の夜会に出席したときには、皇后としての正式な衣装に身を包んだほどだ。その際に用意されたドレスも、また同じくヘレナの背丈に合わせたものだった。恐らく、ヘレナが今後着なければ確実に死蔵されるだろう代物である。
そして今日の衣装も、また同じく皇后としての衣装でありながら、先日の夜会と比べれば比較的落ち着いた色合いのものだった。
「……私などの衣装のために、どれほどの金が使われているのやら」
別段、ヘレナが
だが軍の高官として少なからず、軍の運営には関わっていたのだ。兵たちに装備一式を揃えるための金、出陣にあたっての糧食を用意する金、軍馬や輜重における荷車などの備品を揃えるための金――挙げれば、枚挙に暇がない。その金額を知っているがゆえに、このヘレナのために特注されたドレスの値段だけで、兵の装備がどれほど整うのかと思ってしまうだけだ。
もっとも、そう考えると無駄に何十人もの側室を揃えられた、この後宮という存在自体が害悪にすら思えてしまうが。
「少なくとも、ヘレナ様は正妃として扱われていますから。正式な衣装に身を包むことも、また社交の場におけるマナーの一つです」
「それが理解できないのだがな……」
「お立場のある方は、それに見合った衣装が必要となるのです。ヘレナ様が現在正妃という扱いである以上、その立場は皇帝陛下に次ぐものとなりますから。陛下の次に高級な衣装に身を包むことも、また必要なのです」
「正装をしろと言われれば、いつでも軍服を引っ張り出すぞ」
「おやめください」
むぅ、とアレクシアの言葉に唇を尖らせる。
大抵、そういう場に出る時のヘレナの衣装は、正式な軍服か鎧一式のどちらかだった。軍人としての正装は軍服であり、夜会の護衛などを行う際には鎧に身を包む必要があったからだ。
それが今となっては、夜会にドレスを着用して出席している――ヴィクトルなど、こんなヘレナの姿を見れば笑い転げるのではないかとさえ思えるほど、自分には似合わないと思ってしまう。
「まぁ、いいか……あと僅かな期間、耐えればいいのだ」
「……ヘレナ様?」
「ん……ああ、何でもない。気にするな」
「はぁ……」
着替えを終えて、ヘレナはソファへと座り込む。
小さな声だったからか、アレクシアには聞こえなかったらしい。だが、少しばかり口が滑ってしまったか。アレクシアには、まだ現実を突き付けるべきではないだろうし。
ファルマスは「今宵で最後」と言ったのだ。つまり、今後ヘレナは後宮を出て、新たな『紫蛇将』に就任する形となる。ファルマスは半年後だと言っていたが、それまでに新たな皇后が誰なのか発表されることだろう。
だが、気がかりなことはある。
それは、アレクシアの今後である。
いつだったか、アレクシアは「ヘレナ様が皇后になられた後も、わたしを侍女として雇っていただけると助かります」と言っていた。その理由として、ファルマスが皇后を選んだ場合、後宮が解体されるからだ。そして、後宮における側室を世話する女官という職であるアレクシアは、後宮が解体されれば宮廷に居場所がなくなってしまう。そうなれば、アレクシアは無職である。
妾腹の娘とはいえ、アレクシアは子爵令嬢だ。順当にいけばどこかの家にでも嫁ぐのかもしれないが、以前に聞いた話では随分とブラコンのようだし、それも見込めそうにない。ブラコンの相手があのバルトロメイ・ベルガルザードであり、そんなバルトロメイはフランソワとの婚約を既に内示されているからだ。
ちらりと、アレクシアを見る。
まだ宴の開催とやらまで、時間はあるだろう。
「アレクシア」
「はい?」
「少し……その、な」
「はい」
しかし、何と言い出したものか。
勿論、ヘレナにアレクシアを見捨てるつもりなどない。この後宮において、最も信頼できる女官だと言っていいだろう。
頭の回転も早く、ヘレナの知らない社交界の常識にも明るく、またヘレナに対して歯に衣を着せない物言いをしてくれる、稀有な人材なのだ。ここで手放す理由はどこにもない。
「――っ!」
そこで、天啓が走った。
ヘレナは今後、『紫蛇将』に就任する。そして将軍というのは、その軍における人事権も持つのだ。具体的に言うなら、副官を自由に決める程度の権限は持っているのである。
そして軍の副官というのは、主な仕事が将軍の補佐であり事務仕事である。ヘレナは赤虎騎士団の副官時代、そのあたりを当時補佐官だったリチャードに全力で丸投げしてきたが、本来副官の仕事というのは裏方のことが多いのだ。
そう考えれば、アレクシアはその立場にぴったりである。
「うん」
「……あの、ヘレナ様? 先程からどうなされたのですか?」
「ああ、うん」
完璧ではないか。
アレクシアにも次の職を与えることができ、今後のヘレナの仕事もやりやすくなる。懸念があるとすれば、元々の紫蛇騎士団の副官を降格させなければならないということだが、新たな将軍の人事において副官が変わることも珍しくはない。
うん、とヘレナはもう一度頷いて。
「アレクシア、私は決めたぞ」
「はい?」
「今後どうあれ、アレクシアには私の側で働いてもらう」
「……どのような思考の果てにそうなったのかは存じませんが、ありがとうございます」
アレクシアは気付いていなかった。
ヘレナのいつも通りの残念な思考の果てに、自分が軍に入ることを決定されたことに。
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