第72話 決着

 背後に迫る、アンジェリカの投擲した石。

 ヘレナもその実力を一流と評価するアンジェリカの投擲は、鋭く速い。少なくとも、これが音一つなくされた奇襲であったならば、ヘレナは反応することすらできなかっただろう。

 だが、その背後に襲いかかってくるアンジェリカの投擲――それを、ヘレナは見ることができた。


 視認できたのならば、次に行うべきは対処である。

 背後に石が迫るその一瞬で、ヘレナの頭は全速力で回転する。

 叩き落とす――距離が足りない。

 弾き返す――間に合わない。

 両の腕をシャルロッテに向けている現在、その手を用いて石を対処することは不可能だ。

 ならば、端的に。

 避けることこそが、この場合の最善――。


「ふふ……」


「くっ……!」


 だが、そんな風にヘレナはアンジェリカの石に意識を向け。

 目の前にいたシャルロッテから、一瞬――ほんの一瞬だけ、意識を逸らした。

 そして、それほどの機が与えられていれば、その瞬間に全力を賭すのがヘレナの弟子。

 震える膝を押して、痛む腹を押して、シャルロッテは一気にヘレナへと詰め寄ってきた。

 本来、ヘレナの攻撃を受けて敗北しているはずの身でありながら。

 本来、ルール上はヘレナと戦いを続けてはならない身でありながら。

 しかしそれでも、貪欲に勝利を求めて。


 前と後ろ、両方からの同時攻撃。

 どちらかを対処すれば、どちらかは疎かになる。そうなれば、急所への一撃を喰らうのは、今度はヘレナの番となる。

 戦いにおいては天賦の才と絶対的な経験則を持つヘレナでも、その瞬間は、動くことができなかった。


「ふっ……」


 ヘレナは、小さく笑みを浮かべる。

 この窮地を乗り切る策が浮かんだのではなく、勝機を掴んだというわけではなく。

 ただ――己の弟子が成長してくれたこと、それを師として喜び。

 それが、自然と笑みとして口元に浮かんだ。


 ヘレナは動かずに、シャルロッテから視線を外さない。

 背後に迫る石の気配は察しているが、それでも動かない。

 シャルロッテに背を向けたその瞬間に、今度は背中からシャルロッテが襲いかかってくる――それに比べれば、石の方がましだ、と。

 背中の筋肉に全力を込めて、襲ってくる石に備える。鍛え抜いた鋼の筋肉――それは、そう簡単に破ることなどできない。


「ぐっ……!」


 石が、そんなヘレナの背を打ち。

 予期していたものとはいえど、その痛みに思わず顔をしかめる。これが気持ちいいとか言っているクリスティーヌは、どれほどの変態なのであろうか。


 五対一という状況で、初めて与えられた攻撃。

 予想することのできなかった、弟子たちが必死に考えて講じた策――それは間違いなく、ヘレナの背を打った。

 力を抜くと共に、溜息を一つ。


「……ヘレナ様」


「ああ……久しぶりだな、誰かに負けるというのは」


 無防備な背中を打たれる――それは、致命傷と判断していいだろう。

 そしてヘレナの定めたルールにおいて、致命傷ならば一度の攻撃、それ以外ならば三度の攻撃。それで勝敗は決定する。

 これで「私はちゃんと対処していたのだから、先ほどの攻撃は致命傷ではない」とごり押しすることはできるだろう。だけれど、それはヘレナの矜持が許さなかった。

 弟子にルールを課したのだから、己がそのルールをより厳しく守らねばならないのは絶対だ。


「シャルロッテ」


「……はい、ヘレナ様」


「形の上では、今回アンジェリカが勝者となる……だが、真に私に勝利したのは、お前だ」


「……」


 突然の裏切り宣言を行ったシャルロッテは、エカテリーナの助力があったとはいえ、ヘレナと五分に戦ってみせた。

 完全に奇襲が成功するように、自分に注意を向けさせ、アンジェリカが立ち上がる気配さえ伺わせないほどにヘレナと戦った。己が捨て石となる覚悟で挑んだその戦いは、評価するに十分である。

 そして、何より最後――石が投げられたその瞬間、ヘレナは動けなかった。

 ここで注意を逸らせば、その瞬間にシャルロッテが襲ってくる。それを危惧して、動けなかったのだ。

 そこまでヘレナを追い込んだシャルロッテの手腕は、見事と言うしかない。


「当たったわ! 当たったわよ! これでわたくしの勝利ね!」


「ああ……」


 そう、飛び上がって喜ぶアンジェリカへと視線を向ける。

 敗北はした。だけれど、どこか満足しているのは何故だろう。

 将軍という地位をファルマスが示し、それを渇望し、勝手にこの舞台に上がったというのに。

 それを得ることができなかったというのに、不満はどこにもなかった。


 ゆえ、ヘレナは宣言する。


「勝者、アンジェリカ・ディール=ルクレツィア・ガングレイヴ!」


「いやったぁぁぁぁぁぁっ!!」


「ふっ……私の負けだ。まさか、最初からお前たちが組んでいるとは思いもしなかったぞ」


 すっ、とヘレナはシャルロッテへと手を差し出し。

 シャルロッテは、そんなヘレナの手を握り、立ち上がる。


「さて……ということは、アンジェリカが禁軍の将軍になるということか。まぁ、まさに姫将軍といったところか」


「……ヘレナ様」


「む?」


「アンジェリカは、将軍にはならないと言っていましたの」


「ほう?」


「ガングレイヴの皇族は、将軍にはなれないと言っておりましたの。わたくしは、詳しいことなど分かりませんけど」


「……そうなのか?」


 皇族は将軍になれない――そんな話は、聞いたことがないのだが。

 だけれど確かに歴史を紐解いても、将軍となった皇族という話は聞いたことがない。


「ええ、ですので」


 その瞬間に、ヘレナの背筋に寒いものが走る。

 皇族というのは、皇后も含まれるものだ。ファルマスから内示とはいえ、一応皇后として迎える形で示されている現在、ヘレナは皇族になる未来が決まっているのである。

 つまり、ヘレナが皇后になった瞬間――将軍になることは、永久に不可能となるのだ。


「アンジェリカは――……――と、するのだと」


 なんと。

 それでは、何のために皇后になるのか全く分からない。

 アレクシアから「八大将軍を九大将軍にでもしてもらって自分がその地位につけばいいではありませんか」などと言われたから、皇后になろうと決意したのに。


 どうしよう。

 今からでも、「やっぱり皇后やめます」と宣言していいのだろうか。


「それでよろしいですか、ヘレナ様」


「……ん?」


 と、そう逡巡していたせいで、何も聞いていなかった。

 将軍となる未来が閉ざされたことを自覚してしまって、何も聞いていなかったのだが、何か確認を求めている。

 とりあえず、曖昧な返事を返しておけばいいか。


「え……あ、ああ、うん。いいんじゃないか」


「……承知いたしましたの。そう、伝えておきますの」


「いやっふぅぅぅぅぅ!!」


 どことなく嫌そうなシャルロッテと、無駄にはしゃいで喜ぶアンジェリカ。

 そんな二人を尻目に、ヘレナが考えていたのは。


 どうすれば皇后になることをやめられるか、ということだけだった。

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