第63話 きっかけ
あれは、今から十五年前。
ヘレナは十三歳という、本来侯爵家の娘として社交界へのお披露目をされるべき年齢にありながらにして、それを全力で無視して軍へと入隊した。
幸いにして、ヘレナの母はかつて天下無双にして最強無敵と称された大将軍、元『銀狼将』レイラ・レイルノートである。そんな母より、幼い頃から叩き込まれた武芸の基礎、そしてヘレナ本人の武の素養もあったがために、入隊はあっさりと許可された。そして小競り合いながらも初陣を経て、敵の副将の首を奪うという手柄を上げたために、一足飛びに一兵卒から小隊長へと就任した頃合いでもあった。
軍に入隊した者は、最初の五年間は寮生活を強いられる。
その五年間を経た後も、寮生活を続けるかどうかは本人たちによって選べるのだが、最初の五年間だけは強制だ。そしてその五年間、自由時間であっても一切外部との接触を絶たれるというのが慣例となっている。外出はおろか、外部からの面会者すら会うことができないという徹底ぶりだ。
そして当然、入隊してまだ一年も経ていないヘレナが、寮から外に出ることは叶わない。とはいえ、基本的には自己鍛錬くらいしか余暇の趣味を持っていないヘレナは、それほど外に出ることを希うこともなく日々を過ごしていた。
だが、そんな寮生活においても、たった一つだけ外出を許される事態がある。
それは、自身の身内が死亡する――もしくは、それに準ずる状況であった場合だ。
「母さんっ!!」
「あー……随分とやかましいのが戻ってきたねぇ」
「母さんっ! お、遅くなった!」
ヘレナがレイルノート侯爵家の屋敷に入って、最初に向かったのは母――レイラの部屋だった。
軍の事務官より伝えられた、母レイラの危篤。それを聞いてすぐに、ヘレナは国境の山間に拠点を築いているという盗賊の討伐から、急いで戻って屋敷へとやってきたのだ。どうか間に合ってほしい、と。
その願いは、どうにか届いたのだけれど。
寝台の上で横になっているのは、母レイラ。
その枕元で椅子に座っているのは、父アントン。
母を囲むように立って沈痛な面持ちを浮かべているのは、兄リクハルドと妹であるアルベラとリリス。
「なんだいヘレナ。あんた、賊の討伐に向かってんじゃなかったのかい」
「母さんが倒れたと聞いて、賊の討伐になど向かえるものか!」
「別に倒れたわけじゃないよ。ちょっと体調が悪いだけさ」
「……っ!」
そんな風に、ニヒルな笑みを浮べるレイラ。
だけれど、その姿は――その顔立ちは、ヘレナの覚えているそれとは大きく異なる。
「母、さん……!」
ぎりっ、と歯を噛みしめる。
そんなヘレナの想いを、そこにいた家族全員分かっているのだろう。それ以上、何も言ってこない。
ただレイラだけは、苦笑のように笑い声を漏らしていたけれど。
「なんだい、そんなに、あたしは死にそうになってんのかい」
「か、母さん……」
「ま、さすがにあたしも、分かるよ。今度はあたしが死ぬ番ってことか」
「そ、んな、こと……」
レイラの言葉に、否定を返せない。
母は、これほど細かっただろうか。
母は、これほど顔色が悪かっただろうか。
母は、これほど力無い笑みを浮かべていただろうか。
いつだってヘレナの目標としてそこにあった、最強無敵にして天下無双の『銀狼将』レイラ・レイルノートは。
こんなにも――弱々しかっただろうか。
「なんだいヘレナ、そんな風に泣くんじゃないよ」
「で、でもっ……! 母さんっ……!」
「大体、あたしが死にそうなくらいで戦争を丸投げしてくるんじゃないよ。ま、そりゃリクハルドにも言えることだけどな」
「……お袋。さすがにその冗談は笑えねぇよ」
「戦場であたしの訃報を聞くくらいに、育ててきたつもりなんだけどね」
ははっ、とレイラが笑う。
だけれど、その笑みにも全く力がない。
「レイラ……」
「ああ、アントン。ま、あたしは幸せだよ。こんな風に、子供たちに見送られるんだからね」
「……く、そっ、くそっ! 何故、レイラがこんなにも早く!」
「逆に、長生きしすぎたさ。死にたくないって思っちまうくらいにね。散々、敵兵をぶっ殺してきたってのにね」
「母上……」
「母さま……」
アルベラとリリスもまた、涙声で母へと声をかける。
ただ一人、明るく笑っているのはレイラだけ――そんな、異常な状況だ。
今にも死に瀕しているレイラだけが、笑っているのだから。
「ま、いいか。ヘレナ、よく間に合ってくれたね」
「……母、さん」
「あんたにも、伝えておかなきゃいけないことが、あってね……げほっ、ごほっ!」
「母さん!」
「いいんだ。どうせ、もう長くはないさ」
咳込むと共に喀血したレイラが、その口元を隠しながらヘレナを見る。
その顔色は蒼白。ヘレナが戦場で見てきた、その命を屠ってきた相手――それに、限りなく似ていた。
違いがあるとすれば、その命を奪う要因が、外側にあるのか内側にあるのかだけ。
「ヘレナ」
「う、うん! も、もういい! もう、喋らなくて……!」
「そういうわけには、ごほっ! ごほっ……! いか、ないんだよ……」
咳込むと共に喀血が、隠している掌から滴る。
指の間から流れるそれが、まるで母の残る命の数であるかのように。
ヘレナはそんな母の死を――見届けることこそが己の義務であると、歯を食いしばった。
「あんたは、軍人だ。一度、軍の門戸を叩いた……だったら、そこで、本懐を果たしてきな」
「母さんっ……!」
「ま、足抜けしたあたしが、言っちゃいけない言葉かもしれないがね……そうだね」
くくっ、と。
血の滴る口元で、尚も母は笑う。
「あんたは、将軍になれ。あたしの後を継ぐ、最強の将軍になってみせな」
「将軍、に……」
「んで、その将軍位を返上して、やめてやれ。そうでなけりゃ、足抜けは許さないよ。中途半端な位置で、軍を抜けるな。あんたが将軍になったときには、軍を抜けることを認めてやる。あたしと同じようにね」
「……」
「そうだね、そのときには……ごほっ……あんたの、結婚とかも、考えて……」
いいんだよね。
そう、最期の言葉は出ることなく。
ゆっくりと目を閉じた母は――それから、二度と目を開くことがなかった。
「母さぁぁぁぁぁぁぁんっ!!!」
「ようやく、か……」
「む、どうした。ヘレナ」
「いえ。何でもありません」
ヘレナは、将軍になりたかった。
後宮に入ってからもずっと、将軍を目指してきた。
それは八大将軍の一人としての威光が欲しいわけでなく。
ただ、今天国か地獄のどちらかにいるであろう母との約束を、果たすため。
「ファルマス様、少し、失礼いたします」
「む? どこかに行くのか?」
「はい。少しばかり、席を外させていただきます。所用を済ませて、すぐに戻りますので」
「そうか、分かった」
立ち上がり、ファルマスの隣を辞する。
そこでわいわいと騒ぐ八大将軍たちの横を抜けて、ただ、己の心の中に気合を入れながら。
所用を終えて、すぐにファルマスの側へ戻ろう。
何、簡単なことだ。
将軍になるために、己の弟子を五人薙ぎ倒すだけなのだから。
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