第37話 閑話:後宮最強の女官
昼下がり。
アレクシア・ベルガルザードは一人、己の仕える主ある『陽天姫』ヘレナ・レイルノートの部屋で、ぼうっと外を眺めていた。
基本的に後宮における部屋付きの女官は、休日が与えられない。年越しに実家に顔を出すことくらいはできるけれど、後宮にいる側室の娘たちに対して身の回りの世話をしなければならない女官というのは、年中仕事なのだ。
宮廷では色々と大改革が起こり、月に一度は『何の仕事も作らない日』、とやらを設定したらしいけれど、その波は後宮に及んでくれていない。ゆえに、アレクシアは部屋の主人であるヘレナが留守にしている現在であっても、当然のように部屋にいるのだ。
「はぁ……」
暇である。
それが現在のアレクシアを示す一言だ。
部屋付きの女官の仕事は、主人の衣食住の世話をすることだ。基本的には朝起こすことから始まり、朝食の準備を行い、朝食を食べる主人に対してお茶を淹れ、部屋の掃除をしつつシーツを整えて洗濯物を回収し(ちなみに、洗濯は専門の洗濯係がいる)、昼食を用意したり午後の紅茶を用意したり、夕食を用意し湯浴みの世話をして寝台に入る主人を見送ってから、ようやく仕事が終わりだ。
もっとも、アレクシアの普段の仕事には、何故かその間に『腕立て伏せをする主人の背中に乗る』とか『中庭で鍛錬を行う令嬢たちのスケジュールを把握して伝える』とか謎の仕事が入っていたりするけれど。
「……」
アレクシアがこの後宮で働き始めたのは、実家を出てすぐのことだ。
前帝ディールの早逝から現帝ファルマスが帝位に就くと共に、『未婚の皇帝が即位した場合には伯爵位以上の家は未婚の娘を後宮に入れなければならない』という悪法により、後宮の女官が募集されたのである。アレクシア自身も子爵家の出自であり、身分と品格的には問題ないと判断されて雇用された。
もっとも、ヘレナという主人が後宮へ入ってくるまでは、全く何の仕事もなかったけれど。
当時は『星天姫』マリエル・リヴィエール、『月天姫』シャルロッテ・エインズワースの二人が派閥を組みながら睨み合い、その均衡を崩すという形で空位の『陽天姫』を待ちわびていた日々だった。
そもそもアレクシアも、最初の部屋選びの段階で『ヘレナ・レイルノート』の名を見つけると共に、昔会ったことがあるという理由で志願したのだけれど。
まさか、ヘレナが後宮にやってくるまで、一年弱もかかるとは思わなかった。その間、アレクシアは主人のいない部屋を時折掃除するくらいのもので、特に仕事がなかったのである。
そして、今のアレクシアはそんな、まだヘレナが後宮にいなかった頃を思い出すほどの暇さだ。
既に部屋の掃除は終わらせたし、シーツは誰も眠っていないのに毎日替えている。湯浴み場のカビとひたすらに戦ったのは初日くらいのもので、現在はぴかぴかに磨かれているそれだ。食事の用意もお茶の用意も必要なく、話し相手もいない日々は苦痛にしか感じない。
あまりにも暇すぎて、ちょっと主人と同じく腕立て伏せとかしちゃってるくらいに暇人である。決してヘレナが伝染しているわけではないと信じたいが。
そんなヘレナが後宮を出て、既に七日。
当初の予定では、七日間の訓練を行うとのことだった。ちなみに他にもフランソワの部屋付き女官クレアやクラリッサの侍女ボナンザなど、暇を持て余した者は多くいる。そういった面々は無駄に中庭で午前中行われる令嬢たちの訓練を眺めながら、一緒にお茶を飲むのが慣例になりつつあった。
例外は、何故か訓練についていったシャルロッテの侍女エステルだけである。
「あ……」
ふと、アレクシアは顔を上げる。
アレクシアが眺めていたのは、外だ。その遥か遠くに、一筋の赤い煙が揺蕩っているのが見える。
ようやく、見えた。あれが合図。
お帰りになられる前に、せめて何か合図のようなものをしてください、とアレクシアが頼んだのだ。それに対してヘレナは、色付きの狼煙を上げると言ってくれた。軍で使っている、合図になる代物らしい。ちなみに赤と青と緑が用意されているらしく、そちらで軍は遠く離れた部隊にも命令を送るのだとか。
よしっ、と気合いを入れる。
「ヘレナ様……ようやく戻られるのですね」
シーツは完璧に整えてある。
部屋の掃除も塵一つ残すことのない完璧だ。
あとは、ようやく戻ってくる主人をちゃんと迎えて、労いに温かいお茶を用意して、土産話でも聞けばいい。
七日間ほど一人きりだった部屋に、ようやく真の主人が戻ってくるのだ。
心弾ませながら、アレクシアはまず台所へ向かった。
ちゃんと、疲れているヘレナへと、癒しのお茶を用意するのだ。
「きっとまた、面白い話が聞けるのでしょうね」
常にヘレナのことをおかしい、変だ、常識がない、そう一蹴しているアレクシアである。
この後宮において、数少ない常識人だと言っていいだろう。宮廷にはもう少し多いかもしれないが。髪の薄くなった宰相とか。
だが少なくとも、ヘレナという常識外にして規格外の存在の最も近くにいながらにして、アレクシアの存在は限りなく貴重なのだ。
「さぁ、ヘレナ様」
ぐっ、とアレクシアは拳を握りしめ。
まだ遥かに遠く、戻る頃には日が暮れているかもしれない――そんな狼煙を見て、呟いた。
「お説教の準備は整っておりますよ」
ヘレナが何をしたのかは知らない。
ヘレナが何を考えているのかは分からない。
だが、少なくとも七日間という日々だ。七日間という長い時間、令嬢たちを連れて後宮の外に出ていたのだ。
アレクシアがお説教をする案件は、きっと無数に存在していることだろう――。
「……む?」
ぴくっ、とヘレナは帝都の方向を見ながら顔を上げた。
何故か、物凄く嫌な予感がしたのだ。戦場育ちのヘレナの勘は、割と鋭い。この勘に従ったおかげで命を失わずにすんだ、という事例も何度もある。
だが、何故それほど嫌な予感がするのだろう。もう帝都はすぐ近くにあり、このあたりには野盗が現れるわけでもないのに。というか、野盗が現れてもヘレナ一人で殲滅する自信がある。
だというのに、何故か嫌な予感がするのだ。このまま戻れば、何か致命的な目にあう、と。
「……何故だ? むぅ、しかし戻らないわけにはいかないし……これほどの圧迫感、ガゼット・ガリバルディにも及ぶぞ……」
ヘレナの勘は正しい。
彼女の向かう先――後宮の部屋においては。
きっと、どんな敵よりも逆らうことのできない女官が、待ち構えているのだから。
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