第8話 父と雑な娘

「おい、ヘレナ……」


「はい、父上」


「お前、何をした……」


「いえ、鍛えて欲しいと陛下より要請がありましたので……」


 午後。

 午前の鍛錬を、ファルマスの望み通りに『全く手加減することなく』済ませたヘレナは、その結果として気を失ったファルマスを連れて宮廷まで来ていた。本来このように後宮にいるヘレナが表へ出ることはできないのだが、そのあたりを衛兵も咎めようと思わなかったらしい。

 そもそもファルマスが手加減をするな、と言ったのだ。いずれ行う新兵訓練ブートキャンプほどではないが、それなりに基礎体力も必要だと考えてちょっと激しめに行ったのが不味かったらしい。結果として、疲労困憊で気を失ったファルマスを抱えてここまで来る羽目になってしまった。

 そしてファルマスの私室であるという部屋の寝台に寝かせて、そこで何故か頭を抱えるアントンと対面している現状である。


「何をさせた」


「体力の基本は走ることからです。まずは走らせて、それから基礎訓練を行わせて、最後に再び走らせました」


「……どれほどだ」


「陛下が倒れるまで」


「何故そこまでさせる!?」


「己の限界をまず知ることで、これから行う鍛錬の指標になります。自信過剰であるよりは、限界を知った上での謙虚な姿勢を持つ方が伸びやすいので」


「お前は何を言っているのだ!?」


 ヘレナは至極真っ当なことしか言っていないはずなのに、何故かそのようにアントンは怒っていた。

 まぁ、さすがにやりすぎたかな、という感は否めない。倒れるまでやらせて限界を知らしめるつもりではあったけれど、せいぜい午後から歩くことも困難、くらいで済ませようと思っていたのだ。それがまさか、倒れると共に気を失うとは思わなかった。ファルマスの我慢強さが裏目に出たパターンである。

 うーん、とヘレナは顎に手をやる。


「まったく……これでは、午後から執務が進まぬではないか」


「陛下のお仕事は、それほどお忙しいので?」


「当然だ。この肩に、この国が全て支えられているのだ。儂も全力で補佐をするつもりではあるが、やはり陛下にしか判断のできぬこと、陛下にしか許可を与えることができぬことは数多くある。儂は、そもそも午前に体力作りのための訓練をしたい、という言葉すら反対していたのだ。陛下に必要なのは知と政治だ。体を鍛える必要などない」


「……なるほど」


「現在のところ国外関係は落ち着いているが、それでも内憂は少なからずある。リクハルドが攻め落としたエスティ領では抵抗勢力レジスタンスが集まっているという話もあるし、アルメダ皇国との国境は未だに復興できておらぬ。一年以上も続いた戦争のせいで、国の全てが痩せ細っているのだ。そのあたりの調整も終わっていない段階で、陛下が半日もおらぬなど……」


「……」


「おい、聞いているのか」


「健全な精神が健全な肉体に宿るということは分かりました」


「そんなことは一言も言っておらん!」


 ああ、もう、と頭を抱えるアントン。

 とりあえず、アントンの話の半分くらいからよく分からなくなったので、理解を放棄した。そして、他の面々とは異なり、血の繋がった父であるアントンに対しては割とぞんざいなヘレナである。


「で、だ……ヘレナ」


「はい?」


「お前から、文が届いた。昨晩、読んだが」


「ああ、届いたのですね」


 後宮から出る文は、基本的に検閲が入ると聞いた。そして、内容次第では破棄されたりファルマスに報告されたりということがある、という話を聞いたことがある。

 別段政治の話だとか、内密の話だとか、そんなことは書いていないはずだったのだが、ひとまず届いてくれていたことに安堵した。

 まぁ、だからこそ午後から話したいと言っていたのだろうけれど。


「お前を呼び出したのは、それが理由だ」


「ええ。どうにかなりそうですか?」


「どうにかなるか! 話を聞いていたのか!」


 ヘレナの要請は一つだ。

 ファルマスが執務を全く行わなくていい期間を、一月作ってほしいというだけのことだ。

 いくら多忙な皇帝であるとはいえ、一月の不在だけで全てが回らなくなるのであれば、それは国家としての欠陥である。最高峰に存在する者がいなければ回らない政治であるならば、ファルマスが急死した場合などどうしようもあるまい。実際に、前帝ディールの急死により国中が混乱したという前例があるくらいなのだから。


「何故、無理なのですか?」


「一月だぞ!? 一月も皇帝陛下が不在で、この国がどうなると思っている!」


「以前に、一月ほど査察に出られていたときがあったと思いますけれど」


「あれは例外だ! 一月分の執務を、前倒しで陛下が全て行っていたからこそできたことに過ぎん! それでもご不在の間、他国からの書状への対応や三国連合との戦況の変化、村ぐるみで行われた反乱への対応など、予想だにしなかったことばかりで儂らはことごとく徹夜をしていたのだぞ!」


「……なるほど」


 とりあえず、アントンが徹夜をすればイケるということは分かった。

 あとは、ファルマスに一月の執務を前倒しに行ってもらえばいいということか。


「う、うん……」


「陛下っ!」


「む……ここは、俺の部屋、か……?」


 アントンが騒がしかったからか、ファルマスの目が薄く開く。

 そして、その寝台を挟んで向かい合うアントン、ヘレナへと目をやり、それからゆっくりと体を起こした。


「痛っ……むぅ」


「ファルマス様、本日は休まれていた方がよろしいかと」


「ヘレナ……いや、手加減をするなと言ったのは余だった、な。まさか、これほどとは……」


「これも、これからの鍛錬のためでございます。今は、痛む体を愛でるべきでしょう」


「ふっ……余は、随分と軟弱なことよ」


「陛下がヘレナに毒されている!」


 アントンが何故か叫ぶが、当然ながらヘレナの耳にもファルマスの耳にも届かない。


「くぁ……確かに、今日は休んだ方が良いかもしれんな」


「陛下! 本日の執務が!」


「ああ……安心せよ。今日については、問題ない。むしろ、今後の余の執務は減らしてゆくつもりだ。皇帝である余がいなくなれば機能しなくなる国ではならぬ。余が不在であれど、民の安寧は与えられる政治体制を作らねばならん」


 おお、とヘレナは僅かに驚嘆する。

 まさかファルマス自身も、そのように考えているとは思わなかった。アントンには激しく反対されたけれど、ファルマス自身がそのように仕事を減らしてくれるのであれば、今後の新兵訓練ブートキャンプも順調に行うことができるかもしれない。

 ふっ、とファルマスが微笑む。


「アントン、書面上は本日からのはずだ。能く教えてやってくれ。立場は宰相補佐としてある」


「は……はぁ?」


「なんだお前、辞令を読んでいないのか。先日アントンにと届けさせたはずだが」


「も、申し訳ありません。そ、そのような書類が……」


 こんこん、とそこでファルマスの私室――その扉が叩かれる。

 む、と三人揃ってそちらを見やり、それと共に扉がゆっくりと開いた。


「失礼いたします、陛下。む、ヘレナ……?」


「……ヘレナ様が、おられるのか?」


 そこから入ってきたのは、二人の男。

 一人は今日も老齢ながら筋骨隆々の男、元『赤虎将』グレーディア・ロムルス。政敵ノルドルンドにより毒を盛られ、そのために短期の入院をしていたらしいが、どうやら問題なく退院することができたらしい。

 そして、もう一人。それは、真っ黒な髪で片目を隠した、グレーディアよりも頭二つ分は低いであろう小男である。


「おお、来たか」


「これから、後任を決めねばなりませんがな。ひとまずは、引き継ぎが済んだとのことで連れて参りました」


「二人とも、紹介しよう」


「む、む……?」


 混乱しているのは、アントンだけである。

 何故ならば、ここにいる全員、その小男に見覚えがあるのだから。


 平民の出自でありながら、歴代三位の若さで八大将軍へと上り詰めた男。

 その知略は神算鬼謀とも千里を読むとも呼ばれる、八大将軍の中でも防衛戦に優れた名将。


「『紫蛇将しだしょう』アレクサンデル・ロイエンタールだ。今後は、宮廷で働いてもらうことになった」


「……よろしくお願いします。そして、ヘレナ様。お久しぶりです」


「あ、ああ……」


 そして。

 ヘレナは知っている。そして、知っているがゆえに若干苦手なのだ。

 その、理解に苦しむ性癖が。


 アレクサンデルは僅かに微笑みを浮かべて、そのままヘレナへと向けて膝をつき。

 感動するかのように、その視線をヘレナへと向けた。


「……では、ヘレナ様」


「む、む……?」


「……僕を、踏んでください」


 八大将軍が一人、『紫蛇将』アレクサンデル・ロイエンタール。

 彼は、何故かいつもヘレナへとそのように懇願する変人である。

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