第9話 特異な『紫蛇将』
「基本的には軍人だ。アレクサンデル自身に、政務の経験はない。そのあたりも考慮して、今後の教育を頼む」
「アレクサンデルが抜けた後の、『紫蛇将』の後任はいかがいたしましょう?」
「ひとまずは、アレクサンデルがアントンから教育を受けながら、週に二度は紫蛇騎士団の方で仕事をすることになっておる。そのあたりの調整も面倒だろうが、頼んだ。今後、アントンの引退後に宰相を任せることのできる器だと思っておる」
「承知いたしました」
ファルマスの言葉に、アントンが頷く。
ヘレナも話だけは聞いていたけれど、アレクサンデルにそれほどの才能があるとは知らなかった。確かに知将として名高く、防衛戦に強いという噂も聞いている。だが、その才能は果たして宮廷で通じるものなのだろうか。
そのあたりの話はヘレナには分からないものだけれど、ファルマスにはどうやら確信があるらしい。アレクサンデルこそ、今後のガングレイヴ帝国を支える才能を持ち得る、と。
「しかし、この男がそれほど……俄かには信じがたいのですが……」
「……言うな。余も、よもやこのような趣味があるとは知らなかったのだ」
「個人の趣味嗜好は、人それぞれではありますが……」
「うむ……まぁ、仕事に影響のある趣味というわけではない。これがこの男に必要だと言うならば、別段構わんだろう」
「……ありがとうございます、陛下」
ファルマスの言葉に、そう感謝を呟くアレクサンデル。
その声は小さく、そして限りなく下から聞こえるものだ。
それも当然。
現在――アレクサンデルは、ヘレナの足の下にいるのだから。
踏んでください。
その言葉を、これまで何度言われてきたか分からない。そもそもアレクサンデルとヘレナが初めて出会ったのは、今から五年ほど前のことだ。
当時、紫蛇騎士団と赤虎騎士団で共同で行う作戦があった。その際に軍議が開かれ、そこにいたのがアレクサンデルだったのだ。当時はまだ補佐官という立場だったけれど、それでも主な作戦立案はアレクサンデルが行っていた。当時の『紫蛇将』が高齢ということもあり、後を継ぐのはアレクサンデルしかいないだろう、という噂もあったくらいだ。現実、その後すぐに歴代三位の若さで将軍職となったのだが。
そして、そんな軍議が行われた、その後。
陣を去ろうとしたヘレナを呼び止め、アレクサンデルは何故か唐突に頭を下げ、いきなり言ったのだ。踏んでください、と。
今思えば、何故あのとき踏んだのだろう。あのとき断っておけば、今こんな趣味になっていなかったかもしれない。
「その……ヘレナ、今の気分はどうだ?」
「……とても複雑です」
「で、あろうな……」
ファルマスの言葉にそう答える。
実際のところ、複雑である。今ここにいるのは、ガングレイヴ帝国を統べる皇帝であるファルマス、ヘレナの父であるアントンの二人だ。少なからずヘレナと関わりのある二人の前で、何故こんな風にアレクサンデルを踏んでいるのだろう。
そして、足元からは恍惚の声が時折聞こえてくるし。見下ろしても踏んでいるのは頭であるため、その表情が見えないというのが救いだろうか。
「……ファルマス陛下に、ご真意を伺いたく」
「む?」
そこで、唐突にそうアレクサンデルが言葉を発する。
絵面としては、女に頭を踏まれながらの図だ。あまりにもシュールである。皇帝という天上人に対しての態度として適切なのだろうかと疑問に思うが、多分適切ではないことくらいヘレナにだって分かる。
だがファルマスは、そんなアレクサンデルを真剣な眼差しで見据え。
「言うてみよ」
「……陛下は、ヘレナ様を皇后となさるおつもりでしょうか」
「勿論だ。余を支えてくれる皇后となる者として、ヘレナ以外に選択肢はない。どのような美姫を寄越されようと、余の腹積もりは変わらぬ」
「……ありがとうございます」
元々ファルマスから言われていたことではあるけれど、なんとなく照れる。
自分が皇后に相応しいとは思えないし。まぁ、とりあえず面倒なことは皇后になってみてから考えよう。
割と行き当たりばったりなヘレナである。
「……陛下に、ご迷惑はおかけしないと誓いますゆえ、お願いがございます」
「ほう?」
「……どうか今後とも、ヘレナ様に踏んでいただく機会を作ってくだされば」
「……」
「……」
ファルマス、ヘレナ共に沈黙する。
踏まれたいという気持ちはさっぱり分からない。何故それが必要なのかも全く分からない。
そんな戸惑いを隠そうともせずに、ファルマスはそのままアレクサンデルを見て。
「一応、聞こう。何故、それが必要なのだ」
「……僕の精神の安定のために」
「ふむ……余には分からぬが、お前にとっては大切なことだということか」
「……はい」
踏まれながら話すアレクサンデルと、踏まれている相手に話すファルマス。
この絵面は一体何なのだろう。もう本当に、今心から後宮に戻りたい。
「アレクサンデル」
「……は」
「それは……その、ヘレナでなければならぬのか? 他の者であれば……」
「……」
すっ、とアレクサンデルが動く。それと共に、ヘレナも踏むのをやめた。ようやく終わってくれたらしい。
そしてアレクサンデルは立ち上がり、ぎっ、と真剣な眼差しでファルマスを睨みつける。皇帝に対して行う態度として、これはどうなのだろう。まぁ、現状で皇帝に対して行う態度とは思えないが。
「……逆に問いましょう。ヘレナ様以外に踏まれることに、どのような意味が?」
「は……?」
「お美しいヘレナ様の、最もお美しいのはその筋肉です。鍛え上げられた二の腕、引き締まった首元、鬼が浮かんでいるとさえ思える背中――されど、その中でも最もお美しいのはそのおみ足。ヘレナ様のおみ足に踏んでいただくことは、何よりも僕の幸せにして喜び。たかが市井の女のろくに鍛えられてもいない足で踏まれたところで、そんなもの何の意味もありません」
「……」
「何よりもヘレナ様の、おみ足で僕を踏むときの表情。これが最高なのです。本当に踏んでいいのだろうかと悩まれながらも、しかし素直に僕を踏んでくださるお優しさ。そこに僅かに伴う羞恥心と戸惑いこそが僕の原動力となるのです。ただ人を痛めつけることが好きな
「……ふむ」
ファルマスの戸惑いが分かる。というか、ヘレナも戸惑っている。
実際のところそういう趣味で、ヘレナ以外からも踏まれているものだとばかり思っていた。だが、実際のところヘレナ以外から踏まれるのは嫌だとか、軽く愛の告白である。
もっとも、既にファルマスとの婚姻が決まっている立場のヘレナにしてみれば、愛の告白を受けたところで断るしかないのだが。
だが、どうやらアレクサンデルの真剣な言葉は、少なからずファルマスに響いたようだ。
どこに響く要素があったのか分からないが。
「アレクサンデル」
「……は」
「今後、忠勤に励むと誓うのであれば……月に一度はヘレナに踏まれる機会を作ろう。余の期待を裏切るでないぞ」
「……お任せください、陛下」
アレクサンデルが、その表情を輝かせながらファルマスにひれ伏す。
そして同時に。
「……帰ろ」
もう関係ない、とばかりに。
なんだか妙なことになって疲れたヘレナは宮廷を後にして、後宮へと戻ることにした。
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