第7話 日常風景(鍛練)
朝餉を終えての午前。
いつも通りにヘレナは中庭に向かい、そこで既に整列をしている面々の前へと顔を出した。既に一期生には教えることもなく、指導に回ってくれているのだが、毎朝こうしてヘレナがやってくるまできっちり整列しているのである。
そして、当然のようにその列に並んでいるファルマス。そんなファルマスを横目でちらちらと見ながら、緊張を隠せていないのは三期生の面々か。フランソワにマリエル、シャルロッテといった既にどこか突き抜けている者については、全く緊張の色が見られない。それでいいのだろうか。
「諸君、おはよう」
「おはようございます! ヘレナ様!」
「本日もローテーション通りに訓練を行ってくれ。三期生の担当はシャルロッテだ」
「承知いたしましたの」
にやり、と笑みを浮かべるシャルロッテに対して、三期生たちがやや震えるのが分かった。
やはり担当する者によって、その厳しさはまちまちであるらしい。見たところシャルロッテが最も厳しく、クラリッサが最も優しいだろう。マリエルがその中間で、フランソワとアンジェリカはマイペースにやっている。
シャルロッテの場合、厳しくするのはその根底にある嗜虐趣味もあるのだろうが、彼女は
その代わりに、自分ができることを他人に対しても求めるという悪癖を持っている。天才肌であるがゆえに、才のない者の気持ちを理解できないのだ。シャルロッテが鍛えたカトレアは、その反骨心からついてくることができたが、特に反骨心らしいものも持っていない三期生はどうなるだろうか、というのは若干の不安点である。
「では、訓練を始めますの。まずは柔軟体操をいたしますの」
「は、はいっ!」
「よろしくお願いします……!」
「びしびしいきますの!」
「ひぃっ!」
「ひ、ひぃ……!」
シャルロッテの言葉と共に、震える三期生の三人――ウルリカ、タニア、ケイティ。
最も元気で、令嬢らしくない短い金髪の少女がウルリカ・セルエット。逆に伸ばした漆黒の髪で、目元まで隠れてしまっている気弱な少女がタニア・ランドワースだ。そんな二人よりも頭一つは背の高い、この中では最もヘレナに年齢が近い赤髪がケイティ・ネードラントであり、二十一歳である。
全員が伯爵家の令嬢だとのことだが、詳しくはヘレナには分からない。そもそも貴族社会に明るくないヘレナにしてみれば、まぁ、全員夜会とかにいそうな令嬢だなくらいの印象である。
「ウルリカ、タニア、ケイティ」
「は、はいっ!」
「シャルロッテは厳しいが、お前たちを憎んでのことではない。むしろ、お前たちにより強くなってほしいからこそ、厳しく接するのだ。シャルロッテ程度の厳しさで音を上げていれば、私の
「はいっ! わたくし、死ぬ気で乗り越えてみせますっ!」
「わ、わわ、わた、私も、頑張り、ますっ!」
「あたしも、乗り越えてみせますわ。シャルロッテさん、よろしくお願いします」
ウルリカ、タニア、ケイティがそれぞれに決意を示す。
三期生が鍛錬を始めるようになってまだ十日ほどだが、始めた頃に比べれば、良い顔になってきただろう。彼女らにどのような才があるのか、これから楽しみである。
そのためには、きっちりと体力を作ってから、ヘレナによる一月の
三期生たちがそのようにシャルロッテと共に行き、残る面々はそれぞれローテーション通りに訓練を始める。そのあたりには口を出さないのが、いつものヘレナだ。
「さて、ヘレナ」
「お待たせいたしました、ファルマス様」
「いいや、構わぬ。元より、余の我儘だ。そなたの都合には合わせるとも」
「はい。では、お言葉の通り手を抜くことなく、ご指導させていただきます」
手を抜くな――そう、ファルマスは言った。
そして、三期生たちと共に
「まずは、柔軟体操から行いましょう。よく身体を解しておかねば、良い筋肉となりません」
「分かった」
ファルマスと共に、柔軟体操を始める。
既にヘレナは朝一番の鍛錬を終えているために、特にする必要があるわけでもないのだが。一応、ファルマスへの指導も兼ねてのことである。
そして思う。
ファルマスの体は、随分固い。
「う、ぐ、ぐ……!」
まず、足は直角くらいで開脚の限界を迎えている。そして伸ばした手は全くその足先に触れることなく、しかし苦悶の声が聞こえるのだ。
今まで、グレーディアからどのような指導を行われたのだろうか、と疑問に思う。柔軟性は全身の筋肉をつけるためにも、まず必要なことなのだから。
うん、とヘレナは頷く。
「まずはファルマス様、三軸の柔らかさから求めてゆきましょう」
「三軸……?」
「はい。前傾、後屈の柔軟、ならびに側方への柔軟です。まずは前に屈んで、掌を地面につけることから始めましょう」
「う、うむ。余は、指先すらつかぬが……」
「いいえ、問題はありません。少々厳しくはなりますが……まずは、足を伸ばして座ってくださいますか?」
「ああ……」
ファルマスが、足を閉じてまっすぐにした状態で座る。
ヘレナはそんなファルマスの正面に座り、その足裏に自分の足裏を重ねた。ちなみに訓練用にちゃんとズボンを履いているために、下着が見えることはない。
そして、ファルマスの伸ばした両手を、その両手で握り。
「はい、いきます」
「うがああああああああああああっ!!!???」
びきぃっ、と音が聞こえるほど。
ヘレナはファルマスの腕を引っ張り、その体を伸ばした。
苦痛の叫び声を上げるが、しかし止めない。きっちりと、骨には異常がないように角度を調整して行う。ヘレナは馬鹿力だが、その程度を気遣う程度の余裕はあるのだ。
くいっ、くいっ、と何度も引いては戻し、引いては戻し、都度ファルマスが激痛に喘ぐ。
「はい、終了です」
「ぐ、あ……こ、腰が……!」
「試しに、体を伸ばしてみてください」
「う、ぐぐ……」
はっ、とファルマスが目を見開く。
先程まで、全く足先につかなかった指先。それが――僅かに、足先に掛かっているのだ。
ほんの数回、ヘレナが伸ばしただけ――だというのに、柔軟性が遥かに上がっているのである。
「これは……!」
「一時的に、柔軟性を高めたに過ぎません。これから、これを毎日行います。そうしているうちに、ファルマス様の柔軟性も向上するでしょう」
「う、うむ……! すごいな!」
うわー、うわー、と嬉しそうにファルマスが笑う。
そんな様子は、普段から皇帝という権力をその背に負うものではなく、年相応のものだ。どことなく歳の離れた弟を見るような気持ちで、ヘレナも微笑んだ。
「では、次の訓練ですが……」
「ああ、そうだ……ヘレナよ、少しいいか?」
「はい?」
さて、何をさせようか――そう考えていたあたりで、ファルマスが口を挟む。
「そなた、今日の午後は忙しいか?」
「いえ……まぁ、鍛錬をするくらいですが」
いつも通りである。
そもそも後宮暮らしであるヘレナに、忙しいという概念はない。午後から誰かとお茶を飲む約束をしていたとしても、それを明日に回したところで何の問題もないのだから。
そんなヘレナの答えに、ファルマスは良かった、と頷いて。
「余にもよく分からんのだが、アントンがそなたに会いたいと言っていてな。まぁ、本来ならば許されぬが、身内と会うくらいならば良かろうと許可をした。本日の午後に、とのことだったが」
「ああ、なるほど」
「問題はないか?」
「はい、大丈夫です」
アントンからの、突然の呼び出し。
その内容は、大抵予想のつくものだ。ヘレナの送った文が、ちゃんと届いてくれたということだろう。
ちゃんと、アントンにも説明をしなければ。
ファルマスに、これから
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