第6話 ヘレナ様は悩まない
なんとなくファルマスと気まずい感じにはなってしまったが、翌朝はいつも通り口付けをして去っていった。
もっとも、とりあえず一旦宮廷に戻るだけであり、すぐにまたやって来ると言っていた。午前の鍛練には参加するとのことだから、ひとまず仕事の確認だけしてくるとのことだ。
ヘレナはなんとなく不味いことを言った気がしながら、しかし言ってしまったものはもう仕方ないなといつも通りの脳筋思考で忘れつつ、いつも通りに早朝の鍛練を行うことにした。頭の中だけで、これからどんな風にファルマスを鍛えるか考えながら。
「おはようございます、ヘレナ様」
「ん……ああ、おはよう。アレクシア」
「今日も精が出ますね」
うふふ、と微笑みながら、腕立て伏せをしているヘレナに安心している。
クリスティーヌに断罪を下したその日から、こんな風にちゃんと朝の鍛練をしているヘレナを見ると安心してくれるのだ。余程、あの朝のヘレナは恐ろしかったらしい。まぁ実際のところ完全に怒髪天を突いていたため、恐ろしくとも仕方ないのだが。
おっと、とそこで思い出す。
「そういえば、アレクシア」
「はい?」
「以前、リファールとの戦に出陣する前に……鍛えてほしいと言っていなかったか?」
あれは確か、ヘレナが禁軍と傭兵を率いてリファールとの戦に出陣した朝。
見送ってくれたアンジェリカと共にそこにいたアレクシアが、確かに言ったのだ。戻られたら、わたしも少々鍛えていただきたく思います、と。
だが現状、アレクシアは特に鍛練に参加しているわけではなく、基本的なサポートに回ってくれている。水分の摂取だとか、鍛練で怪我をした者に対しての宮医の手配など、様々ではあるけれど。
「そうですね。申し上げました」
「そうか! ならば……」
「ですが、もう結構です」
「何故だ!?」
「ヘレナ様、少々ご不快に思われることを申し上げますが、そちらは申し訳ございません」
「は……?」
意味の分からないアレクシアの言葉に、首を傾げる。
そもそもアレクシアはヘレナに随分と開き直って接しているのだ。今更不快に思うようなことはほとんどない。直接的に言われたことはないが、間接的には多分毎日くらい「ヘレナ様は馬鹿です」と言われている気がするし。
そんな中で、ヘレナが不快に思うようなこと――。
「わたしくらいは、まともでいようと思いまして」
「……?」
「いえ。ヘレナ様の伝染力は非常に高いので、いずれ後宮全域が筋肉に染まりそうです。そんな中で、わたしまでヘレナ様に伝染したら誰にも止めることができなくなりますから。せめて、わたしくらいは」
「いや……意味が分からないんだが……」
「ご理解せずとも結構です。わたしはちゃんと分かっていますから」
なんとなく馬鹿にされている気はするけれど、しかしヘレナよりアレクシアの方が頭がいいわけだし、特に考える必要もなさそうだ。
まぁ、実際にヘレナが妙なことをしでかして、それが問題になっても困る。そんなときに、アレクシアがティファニーのようなヘレナの信者になってしまっていては、「ヘレナ様のやるべきことは全てが正しい!」とか言い出しそうだ。そうなれば、間違ったことも教えてくれなくなる。
それは困るので、まぁアレクシアの言い分も分からないでもない。
「まぁ、いいか」
そして、いつも通りに残念な頭はそこで思考を停止し、今度は腹筋、と仰向けに寝転がる。
既に腕立て伏せと屈伸を終えて、あとは腹筋をこなせば朝のメニューは終わりだ。
ふん、ふん、と心の中だけで呟きながら腹筋をし、その間にアレクシアがお茶を用意する、というのがいつもの流れである。
「あ、そうだ。アレクシア」
「はい?」
「ちょっと、聞きたいんだが……」
ううん、と少しだけ悩む。
何気に昨夜のファルマスの発言は、ヘレナの心を抉っているのである。
――そなた、友達はおらぬのか?
そもそも軍人であり令嬢(笑)のヘレナにとって、友人の定義はよく分からないものだ。
ファルマスは否定しそうだけれど、もしかするとアレクシア側はそう思ってくれているのかもしれない。だが、表立ってそう聞くのもどこか憚られる。
ええと、と慎重に言葉を選びながら。
「アレクシアのことは、後宮で誰よりも信頼している。そもそも社交界に縁のなかった私に、色々と教えてくれたのはアレクシアだ。アレクシアがいなければ、私はただ鍛練をするばかりで何も変わらなかっただろう」
「……いえ、多分わたしが何もしなくても変わったと思いますが」
「い、いや、そんなことはないと思うぞ。実際に……ええと」
……。
ええと。
特に思い浮かばない。
よくよく考えれば、こんな風に後宮で鍛練が流行し始めた最大の理由は、フランソワが勝手に弟子入り志願をしてきたからである。そしてフランソワ、クラリッサ、マリエルへの鍛練を施すようになって、アンジェリカの更生を促すためにシャルロッテも交えて
特にアレクシアからの助言があったというわけではない。せいぜい、最初の方にあったマリエル主催の茶会でどのように振る舞えばいいか教えてくれたぐらいのものだ。
むしろ鍛練を施し始めた頃は、もう諦めの境地に立っていた気がするし。
「まぁ、ヘレナ様がそのように評価してくださることは嬉しいですよ。ありがとうございます」
「あ、ああ……い、いや、それでな」
「はい?」
「私は、将来的に皇后になると決めた。その上で、お付きの侍女はアレクシアにと思っているんだ。以前にも言われたことだからな」
「ありがとうございます。職を失わずに済みます」
「まぁ、それで、だ。その……アレクシアは」
「はい」
なんだか言い出しにくい。
親しい仲の者に、「私たちって友達だよね?」と聞くのはなかなか難しいものだ。特に、勇気を出して聞いて「違う」と言われることを想定してしまうと、さらに言い出しにくい。
「ううん……」
「……?」
そもそも、何故このようなことで悩まねばならないのだろう。
元よりヘレナは後宮になど入るつもりはなかったし、周囲の令嬢がヘレナよりも遥かに年下だということは事前に知っていた事実だ。そこに友人関係を求めたことは未だに一度もない。そりゃ、仲が悪いよりは良い方がいいのは確かだけれど、親しい誰かを作ろうなどと考えてはいなかったのだ。
それが、ファルマスにいきなり言われたことでなんとなく動揺してしまっていた。友人の一人もいない、いわゆる『ぼっち』であると明言されたみたいで。
「……なるほど」
「……ヘレナ様?」
そこで、ようやく自分の逡巡に答えが見えてきた。
友人はいないのか、そう問われ後宮に誰もいないと自覚して、少しだけ傷ついてしまっていたのだ。友人と呼べる者はいなくとも、アレクシアは信頼しているしフランソワもクラリッサもマリエルもシャルロッテもアンジェリカも可愛い弟子だ。少なくとも慕われているはずであるし、親しい仲だと言ってもいい。
そう。
ヘレナは、決して『ぼっち』などではない。
「よし」
「……?」
「鍛練をしよう」
「どうぞ、なさってください」
アレクシアは首を傾げながら。
やっぱり、いつも通りの結論に達するヘレナに対して溜息を吐いて、お茶を淹れる作業に戻った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます