第200話 殿
「さて、問題はここからですね」
「ええ」
すっ、と目を細めて、ヘレナは笑みを浮かべる。
敵の本陣を蹂躙し、実感は全くなかったが敵将も討ち取った。結局殲滅し終えてから、リファールの総大将がガゼット・ガルバルディの息子だと知ったのだ。
あの程度で総大将か、と落胆を抱かずにはいられなかったが、余程人材に不足していたのだろう。
そして、問題はここから。
敵の本陣は落ちたといえど、敵は未だに二万を超える大軍なのだ。そして、総大将を失ったからといって、そう簡単に彼らが撤退するとも思えない。
つまり。
ヘレナもヴィルヘルムも、従って山越えをした百の兵も。
今まさに、本陣が落ちたことを知った兵たちを抜けて、戻らねばならないということだ。
「撤退っ! 殿は私が務めるっ!」
「応っ!」
本陣は落ち、司令官は潰した。そうなれば、あとは瓦解してゆくのが軍の常である。
つまるところ、指示をする者がいなくなれば、軍とは何をしていいかわからず混乱するのである。そうなれば、指示を求めるようになる。そして、そんな指示を出せる者がいる場所まで向かおう、という心理が働くのだ。
つまり、敵は逃げ出す。戦いの責任を取るべき司令官が死ぬというのは、そういうことだ。
「逃がすなぁ!」
「うぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
だが、敵軍もそう簡単に撤退はしない。
分かりやすい目標が目の前にあるならば、まずはそちらを潰そうとするのだ。この場合は、背後から少数で奇襲をしかけたヘレナたちである。
ゆえに、まずはこちらが身を隠し、そのまま砦まで戻る。
そのまま、変わらぬ砦の防衛をすれば、自然と撤退してゆくだろう。
「はぁっ!」
「ぐあっ!」
斬りかかってきた兵の首を、斧槍の一振りで叩き潰す。
それと共に、衝撃で数人の体勢を崩し、そのまま、まずヘレナは揺るがぬ城塞としてそこに立った。
まずは味方の安全を確保する。そして、自分が撤退できる状況を作る。それが、殿という仕事だ。
「ぬんっ!」
「ヴィルヘルム殿!」
「水臭いぞ、ヘレナ殿……死地に、付き合うと言ったであろうよ……!」
「頼もしい!」
万の援軍を得たような気持ちで、ヘレナはヴィルヘルムと共に、襲いかかってくる敵軍を屠る。
殺しても殺しても減らない、まるで無限に湧き出てくるかのような敵軍の威容には、さすがのヘレナにも冷や汗が流れた。だが、的確にヘレナの仕留め損なった兵をヴィルヘルムが処理してくれる形で、問題なく殿という務めを果たせている。
そして周囲――恐らく、自軍が全体的に撤退が完了した、というあたりで。
「ヴィルヘルム殿! 撤退する!」
「承知!」
そして馬の腹を蹴り、ヘレナはヴィルヘルムと共に駆け出す。
そんなヘレナの撤退に対して、その先に回り込もうとする敵軍をさらに抑えながら、必死に。
まずは森まで抜けて、それから身を隠す。そして、夜になると共に砦に戻る、という形にすればいいだろう。
そのためには、馬を捨てなければならない。愛馬――ファルコを捨てるのは惜しいが、しかし己の命に替えるわけにもいかないのだ。
「うぉぉぉぉぉぉぉ!」
「しゃらくさいわっ!」
ぶんっ、とヴィルヘルムの振るう薙刀が、一度に五人の兵を切り裂く。
齢六十を越えながらにして、その膂力。まさに、フレアキスタ王国の誇る最強の武人、という言葉に偽りないものだ。
そんなヴィルヘルムの戦いぶりに触発されて、ヘレナもまた笑う。
笑いながら、斧槍を振るい、敵兵の首を斬る。
「やるではないか、ヴィルヘルム殿!」
「そちらこそな! ヘレナ殿! 女にしておくには惜しい人物だ!」
「そちらこそ! 年寄りの割にはやってくれる!」
かははっ、と二人の笑い声が重なる。
まるで演舞を踊っているかのように、連携した二人の動きは、そのまま敵軍の首を刈り続けた。
一体、どれほどの兵を殺しただろう。そう、数えることすら面倒になる。
森が迫り、そのままヘレナもヴィルヘルムも馬を降りて、徒歩で撤退を行う。
そして、少しでも敵の妨害になるように、とファルコの尻を思い切り蹴り上げ、敵軍へ向けて放つ。暴れ馬を放つ、というだけでも敵兵は少し止まるのだ。
すまない、ファルコ――そう心の中で謝罪をしながら、しかし斧槍を振るう手は止めない。
「さぁ、生きて戻りましょうぞ、ヴィルヘルム殿」
「ええ、ヘレナ殿」
「私はどうやら、この戦争から戻ったら結婚をするらしいのですよ」
「ははっ、それは奇遇だ!」
「おや?」
「儂も同じでね。この戦いを終えて国に戻ったら、結婚することになっております」
「なんと! 偶然にも程があるな!」
奇妙な共通点に、ヘレナは笑う。
まさか、もう老人と呼んでも差し支えないヴィルヘルムに、そのような話があるとは驚きだ。
ぶんっ、と斧槍を振るい、目の前の敵兵を真っ二つに切り裂いて。
「これが、聞いたら正気を疑うかもしれませんがな!」
「ほう!」
「十六の娘なのですよ! 親友の孫でしてな!」
「なんと! ヴィルヘルム殿にはそのような趣味があったのか!」
「ははっ! 既に絆されておる以上、否定できませんな!」
ヴィルヘルムと共に、そのように暴れながらも、じわじわと後退する。
あとは攻撃が僅かにでも止んでくれれば、隙をついて二手に分かれて撤退だ。それで、全てが終わる。
身一つで森をゆけば、それだけで追っ手を撒くことができるのだ。
そのためにも、この敵軍の勢いを、屍を積み重ねることで止めなければ――。
「死ねぇっ!」
「死ぬかぁっ!」
敵兵がまた一人、ヴィルヘルムの薙刀の前に落ちる。
ヘレナもヴィルヘルムも、また必死。どれほど無尽蔵の体力を持っていても、無限に湧き出てくるような敵軍を相手にしては尽きる、というものだ。
ぜぇ、ぜぇ、と肩で息をしながらも、しかし止まらない。止まることなどできない。
だが。
「うぉぉぉぉぉぉ!!」
その叫び声は、ヴィルヘルムの背後から。
それは先程ヴィルヘルムの一撃で、片腕を飛ばされた敵兵。それが、残ったもう片方の腕だけで槍を持ち。
雄叫びと共に、その先端が。
ヴィルヘルムの背中に、突き刺さる。
「ご、ふ……!」
ヴィルヘルムの胸から、槍の穂先が生える。
それと共に、血の混じった咳と一緒に、その唇の端から漆黒の血が流れる。
それは。
その一撃は。
「ヴィルヘルム殿ぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!」
ヴィルヘルムという、この戦いにおいて最もヘレナの信用した、戦友の。
その命の灯火を、容易く奪い取った。
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