第181話 クラリッサ覚醒

 二週間、ファルマスの訪れはなかった。

 もうそろそろティファニーはトールの関に到着しただろうか、と遠く戦場にいる彼女に想いを馳せる。具体的に覚えているわけではないが、トールの関はそれなりに遠いのだ。それだけ縦に長く領土を持つガングレイヴ帝国であるがゆえに、南北からの侵攻に対して後手に回っている、というのが真実でもある。

 また、その間に、アレクシアに手配を頼んだものも届いた。まだ渡すのは先になるだろうけれど。

 そして、ファルマスの訪れがあろうとなかろうと、ヘレナの毎日行うことは変わらない。

 午前はクラリッサの鍛錬を見てやりながら指導しつつ、自身も筋力を向上させるための鍛錬だ。


「はっ、はっ、はっ!」


「精が出るな、クラリッサ」


 今日も『百合の間』に向かい、最初に見たのはそのように、両手にダンベルを持って正拳突きをしている全身鎧(フルプレート)だった。

 既にフランソワくらいなら片手で持ち上げることができるのではないか、とさえ思えるほどに鍛えられたクラリッサは、ヘレナほどではないにしても、かなりの重量を上げることができるようになってきている。ヘレナの指示でずっと全身鎧(フルプレート)に身を包んではいるものの、その腕は今、かなり太いだろう。

 現在も、このようにただの重量上げでは不足している、という理由で、ダンベルを手に持っての正拳突きを行っているわけだし。


 中庭でフランソワたち一期生に鍛えられている、エカテリーナたち二期生もそれなりに鍛えられてきたと思える。

 ならば、そろそろ互いに手合わせを行わせるべきだろうか。

 少なくともクラリッサは現状で、相棒(バディ)として教官役に回っている面々を遥かに超える鍛錬を重ねている。今ならば、四人を相手に一人で戦えるのではないか、と思えるほどだ。


「あの、ヘレナ、様……」


「どうした」


 ダンベルを持ちながら、一切速度が落ちることなく正拳突きを繰り返すクラリッサ。

 既に三十回は行なっているだろうに、全く落ちていない。角度もしっかりと真っ直ぐ突き出されており、最初の頃に何も持たずに行っていた正拳突きに比べれば雲泥の差だ。

 そんなクラリッサが、正拳突きを止めることなく、ヘレナへ目線も送ることなく。


「リクハルド様は、どう、でしょうか」


「……」


 毎日、クラリッサはこうして、朝一番にヘレナへとそう質問する。

 だが、リクハルドの行方も、生死も、未だに分かっていないのだ。そもそも、行軍し向かうだけで一月はかかる北の国境から、そんなにも簡単に最新の情報が入るはずもない。

 だからこそ、ヘレナにできることは、首を振るだけだ。


「まだ、何の情報も届いていない」


「そう、ですか……」


「だが、戦死した、という報告もない。もう少し待て。必ずや、吉報が届くはずだ」


「……はい」


 ヘレナとて、リクハルドがそう簡単に戦死するとは思えない。

 大陸でも有数の弓の使い手であり、遠距離の戦いならばヘレナですら敗北するのだ。あの兄を倒すことのできる者が、エスティ王国などという小国にそもそも存在しうるのだろうか、とさえ思えるほどだ。

 ガルランドの勇将ゴトフリート・レオンハルトならばあるいは、とは思えるが、それを確認する手立ては今のところ存在しないのだ。

 ならば、あの兄が死ぬはずがない、と信じることこそが一番なのである。


「クラリッサ」


「は、はい……?」


「お前を鍛えると宣言してから、二週間だ」


「はい」


 将軍を目指せ、と宣言した。

 そしてヘレナは厳しい訓練を課し、クラリッサはそれに応えた。

 ならば、そろそろその成果を全員に認めさせてもいいだろう。


「エカテリーナたちも、それなりの腕になった。だが、まだまだだ」


「はぁ……」


「そして、二期生たちの訓練は、基本的にその相棒(バディ)に任せている。一部例外はあるが、ほとんどはぬるま湯だと言っていいだろう。私の行った一月の密度に比べれば、大分ぬるい」


 以前から感じていたことだ。

 全員がきっちり、それぞれの考えがあって鍛えていることは分かる。だが、マンツーマンにしたことの弊害が出てきた部分は否めないのだ。

 ヘレナの行った新兵訓練(ブートキャンプ)においては、基本的に全員に競わせる形にした。他の者はできているのに自分はできていない、という明確な差を作ったのだ。そして競わせることで、互いに高め合ったというのも少なからずある。

 だがマンツーマンであると、競う相手がいないのだ。


「そこで、だ。少しばかり、彼女らに敗北を教えたい」


「敗北、ですか……?」


「ああ。模擬戦を行わせる。全員が、ちゃんと自分の弟子を鍛えているか、という確認だ。これに敗北すれば、それは師の責任となる」


「それは、分かりますが……」


 クラリッサが首を傾げる。

 疑問に思うのも当然だろう。クラリッサに相棒(バディ)はおらず、現在の新兵訓練(ブートキャンプ)からは一歩離れた位置にいる、とさえ言っていい。だからこそ、これはクラリッサには関係のない話であるのだ。

 だが、ヘレナは首を振る。


「言っただろう。全員がちゃんと自分の弟子を鍛えているかどうかの確認だ」


「はい……でも、私は」


「私が鍛えている相手がクラリッサ、お前だ」


「――っ!」


 クラリッサが、驚きに動きを止める。

 だが、考えてみればその通りだ。ヘレナが直々に、将軍となるための訓練を施している。つまり、クラリッサだけに与えられた第二次|新兵訓練(ブートキャンプ)なのだ。

 ならば、その成果を見せる、というのも当然である。


「この二週間、最も鍛えてきたのはクラリッサだ」


「で、ですが、私は……!」


「断言してもいい。クラリッサは今、この後宮において私の次に強い」


「そんなっ……!」


「クラリッサ、鎧を脱げ」


 それは。

 決してクラリッサに脱ぐな、と言った全身鎧(フルプレート)。その拘束を今、解くということ。

 ごくり、とクラリッサが唾を飲み込む音が聞こえる。

 それと共に、クラリッサは腕を下ろし。


「ボナンザ」


「はい、お嬢様」


「……取って」


「はい。少々お待ちください」


 クラリッサの後ろにボナンザが回り込み、全身鎧(フルプレート)の留め金を慣れた手つきで外してゆく。

 毎日湯浴みはしているそうだし、こうやって主に外しているのはボナンザだ。既に慣れたものなのだろう。

 ごとり、ごとり、と一つずつ、全身鎧のパーツが落ちて。

 汗だくで、頬を赤く染め上気したクラリッサが、顔を出した。


「うむ……!」


 予想通り――いや、予想以上。

 これだけ動けるようになったのだから、相当な体になっただろう、とは思っていた。だが、その姿はヘレナの予想以上である。

 クラリッサの、まだ幼さの残る顔立ち。そこから太い首に繋がり、はち切れんばかりの腕の筋肉。胸部だけ覆っている服の下に見えるのは、六つに割れた腹筋。そしてそこから、力強い太い腿から鍛え上げられた脹脛に続く――まさに、筋肉がそこにあった。

 二週間で、これほど見違えるものか――そう、戦慄を覚えずにはいられない。


「素晴らしい」


「そ、そう、でしょうか……?」


「ああ。理想的な肉体だ」


「り、リクハルド様に、喜んでいただける体でしょうか……!」


「勿論だ。その体を維持するために、これからも鍛錬を重ねるがいい」


「はいっ!」


 戦士として理想的な体つきになったクラリッサが、元気良くそう返事をする。

 ならば、戦士としての体を作った後に行うべきは、一つ。

 経験を重ねること――それだけだ。


「では、クラリッサ」


「はい、ヘレナ様」


「戦えるな」


「はい」


 これならば、十分すぎるほどに戦えるだろう。

 少なくとも、エカテリーナ、カトレア、レティシア、クリスティーヌの四人を相手にしても、一蹴することができる。

 もっと言うならば、フランソワ、シャルロッテ、マリエル、アンジェリカの四人を相手にしても、五分に持ち込むことができるだろう。

 そうでなくては困る。


「うむ……私の未来は明るいぞ」


「へ?」


「いや、何でもない」


 将来的に、ヘレナが皇后となり、そして将軍となったそのとき。

 できれば幹部として側に置いておきたいのは、気心の知れた相手なのだから。

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