第180話 戦の気配

 出征してゆくティファニーの率いる軍を見送り、ヘレナは小さく溜息を吐いた。

 トールの関は頑強であり、そう簡単に落ちることはない。そしてティファニーは防衛戦の名手であるため、トールの関で守らせる限りは問題なく守ってくれるだろう。

 だが、どことなく心がざわめくのだ。本当に、このようにティファニーを見送って良かったのだろうか、と。

 ただの勘に過ぎないが、このように出征を見送ることが、致命的な間違いではなかったのか、と。


 とはいえ、既に兵は発せられた。

 今更戻れとは言えないし、戻らせる理由もない。既に国境が突破されたとなれば、迅速に関に向かうことこそが最上なのだから。

 それを、たかがヘレナの勘だけ、という曖昧すぎる理由で留めるわけにはいかない。


「さて……我らも戻るか」


「出仕されますか、陛下?」


「いや……まだ少し早い。ヘレナよ、時間があるならば、少し茶でも飲まぬか?」


「え……」


 さぁ、帰って鍛錬でもしよう、と背を向けようとしたヘレナが、ファルマスのそんな一言と共に止まる。

 確かにまだ日が昇って僅かであるし、ファルマスが出仕をするには少し早いだろう。少し一緒にお茶を飲むくらいはいいかもしれない。

 どちらにせよ、部屋に戻ったところで落ち着けるわけがないのだし。


「まぁ、はい。大丈夫です」


「ではそうだな……余の私室に向かおうではないか。そちらで茶を淹れよう」


「はい。ありがとうございます」


 ファルマスの言葉と共に、その背について行く。

 ヘレナよりも僅かに小さな背丈。その小さな背中に、どれほど大きなものを背負っているのだろうか。

 どことなく疲れている様子が見られるのは、恐らく昨日のうちから、今日の出征に向けての手回しなどを行っていたからだろう。

 後宮に戻らなくてもいいのかな、と思いつつファルマスの後ろを追随し、そのまま宮廷――その三階にある部屋に向かう。

 どうやら、ファルマスの部屋はこのフロアにあるらしい。


「さ、入ってくれ」


「では、失礼します」


 掃除の行き届いた、それほど広くはない部屋である。

 だが部屋の中央にある事務机の上には、まさに山積みと呼んでいいほどの書類があった。恐らく、日夜ここで様々な書類とにらめっこをしているのだろう。

 そんな部屋に置かれた、対面した一人掛けのソファへと腰掛ける。

 なんとなく落ち着かない。


「さて、では少し待っていろ。ヘレナ」


「あ、お茶でしたら私が……」


「よい。今日は、珍しくそなたを余の部屋に招いたのだ。ならば、余が歓待するのが礼儀であろうよ」


「うっ……」


 そう言いながら、手慣れた様子で小さな台所で湯を沸かすファルマス。

 身の回りの世話を行うような侍女などいないのだろうか。

 暫くして、ファルマスが一対のカップとお茶を入れたポットを乗せたトレーを持ち、ヘレナと対面するソファへと座った。

 こぽこぽ、とカップの中に、琥珀色の液体が満たされる。


「飲んでくれ」


「では、いただきます」


 カップを受け取り、一口飲む。沸かせたばかりの茶だが、それでもやはり高い茶葉を使っているのだろう。芳醇な香りが漂うのが分かる。決してお茶の良し悪しが分かる、とはとても言えないヘレナであっても、だ。

 これほど美味しいお茶を飲んでいるのならば、ヘレナの部屋で飲んでいるものなどただの色付きの水ではなかろうか。

 ほぅ、と湯気の混じった溜息を吐く。


「美味しいですね」


「ならば良かった」


 ずずっ、とファルマスもまたカップを口に運び、熱々のそれを含む。

 そして――流れる、沈黙。

 お互いの茶を啜る音だけが響き、それ以外に言葉を発さない。


「……」


「……」


 ちらりと、ファルマスがグレーディアを見やる。

 だがグレーディアは気付かない振りをして、じっとファルマスの斜め後ろに控えるだけだ。後宮と異なり、その斜め後ろにじっと。

 だからこそヘレナも特に何も言えず、ただ沈黙だけが漂っているのだが。


「はぁ……もう少し、気が利かぬのか、グレーディア」


「ここが後宮でない限り、陛下の護衛たる者、お側を離れるわけにはいきませんな」


「……余とヘレナの語らいを聞きたい、とでも言うのか」


「それこそ、我が仕事ですので」


「……まったく、頑固な奴だ」


 さすがのファルマスも、グレーディアがじっと見ている横で甘い言葉を囁こう、という気にはならないのだろう。いつだったかの遠乗りではグレーディアに目を逸らせて言ってきたというのに、このように宮廷の私室では駄目、というのはよく分からないが。

 大きく溜息を吐いて、改めてヘレナを見据える。


「すまぬが、ヘレナよ。暫く後宮に、顔を出せそうにない」


「そう、ですか」


「ああ。現状は、ただ国境を突破されたということ……それに、ガルランドが裏切った、という報せしか入っておらぬ。詳しい情報が入り次第、別の国境から軍を動かさねばならぬ。そうなれば、その部分が手薄になるゆえに、そちらの調整など……面倒な案件が多いのだ。加えて、一度で終わってくれぬ」


「はい」


「加えて、民にはまだ箝口令を出しているが、宮廷に勤める者はガルランドが裏切り、国境が突破された、ということを知っておる。そのような状況で、余が後宮にばかり顔を出していれば、奴らにも良い顔はされぬ。状況が落ち着くまでは……まぁ、自粛という形だ」


「承知いたしました」


 ファルマスの言っていることはよく分からないが、とりあえず物凄く忙しいのだろう、ということだけは分かる。

 そして、そんな忙しい中で後宮に来い、というわけにもいかないし、別段ファルマスが来ようと来るまいとヘレナの生活は何一つ変わらないのである。

 だからこそそう頷く。

 だが同時に、そのようにあっさりと頷いたヘレナ――その姿はファルマスにとって、相変わらず何も言わずとも全てを理解してくれている、と映るのである。残念ながらファルマスはまだ気付いていないのだ。目の前の女の残念な本性に。


「すまぬな。そなたには、苦労をかける」


「いえ、そんな……」


「リファールは、恐らく動くだろう。早ければ数日中にでも、動いた、という報せが入るかもしれぬ。だが、かといって今、軍を動かすわけにはいかぬ。あくまでリファールを相手にしては、専守防衛に努めたい。下手にこちらからつついて、あちらに大義を与えるわけにはいかんのだ。リファールはあくまで、侵略者として存在していてほしい」


「……」


「それゆえに、こちらが後手に回るのは仕方がない。だが、下手な大義を向こうに与えて、敵対する国を増やすわけにもゆかぬのだ。ただでさえ緊迫した状況だが、そこは理解してほしい。そして、その上でいざというときには、そなたにも働いてもらう」


「承知いたしました」


 言っていることの半分も理解できないが、そう頷く。

 そしてヘレナが真剣な表情でそう頷く限り、ファルマスはヘレナを心から信頼するのである。


「このようなことになるならば、禁軍をもう少し増やしておくべきだったな……だが、それも今更だ。半分はリード将軍に与えた。ヘレナよ……リファールからの侵攻があった場合、残る半分はそなたの指揮下となる」


「はい」


 ぞくり、と背筋が震えてゆくのが分かる。

 それは――ようやく訪れてきた、戦争の気配。誰もが忌み、誰もが嫌う、戦争の空気。

 何ヶ月ぶりだろう。そのように戦場に戻ることのできることに、喜び以外の何もないのだ。

 いっそのこと、今すぐリファールが侵攻してくればいいのに、と思うほどに。


「いざというときには……禁軍を、そして、帝都を、頼む」


「ご安心ください、ファルマス様」


 ヘレナは頭を下げる。

 むしろそのように機会を与えてくれたファルマスに、心から感謝するように。

 再びその身を、戦場にその人ありと謳われた『殺戮姫』ヘレナ・レイルノートとするために。


「私は、そのためにここにおります」


 迫り来る戦争の気配に。

 襲い来る敵国の軍勢に。

 戦場にその身を置く武姫は、嗤う――。

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