第179話 出立の見送り
その夜は、ファルマスの訪れはなかった。
それも当然だろう。事態が唐突に動いたのだから、ファルマスにもやることが多くなる。国内ですら憂慮することが多いというのに、そこに国外まで絡んで来られては忙殺されるのも当然だ。
ヘレナはティファニーから聞いた事情をきっちりとクラリッサに説明し、そしてトールの関で防衛する以上、そう簡単に突破されることはないだろう、ということも伝えておいた。
少しだけほっとしていた様子ではあったが、それだけである。
依然、兄リクハルドの生死については分かっていないのだ。ヘレナに出来ることは、クラリッサに対するメニューを増やして、鍛錬に熱中させてリクハルドのことを考えないようにさせることだけだった。
そして、朝。
あっさりとヘレナは後宮から出て、そして宮廷すら抜け、帝都の門――禁軍五千の兵と共に出立する、ティファニーを見送っていた。
朝一番という言葉は本当だったらしく、まだ朝餉の時間ですらない。アレクシアの訪室を待たずに、ヘレナ一人でここまで来ていた。
「ティファニー」
「はい、ヘレナ様」
「武運を祈る。だが、無理はするな。陛下も他の膠着している戦況を動かし、援軍を与えてくれる。それまで耐えろ」
「トールの関で守る限り、十倍の敵兵であっても守る自信があります。ご安心ください」
くくっ、と自信満々に、不敵にそうティファニーが笑う。
元より、『紫蛇将』アレクサンデル・ロイエンタールと並んで防衛戦の名手とされるティファニーだ。戦況の全体を読み、その上で的確な指示を出して弱い場所を補強し、常に立ちはだかる城塞が如く守るティファニーの戦術は、まさに守ることに特化している、とさえ言っていい。
そんなティファニーが自信満々に告げるほどに、トールの関は頑強なのだ。
「北からは、敵軍の侵入を許しはしません。しかし……」
「東は任せろ。リファールの弱卒など、私が首を狩ってくれよう」
「何より心強いお言葉です」
まだ日が昇って僅かであり、西側はまだ微かに暗い。
だからこそ本来、これほどの兵が出立する際には見送りを行う民が多いというのに、その姿は全くないのだ。
下手に民衆に見送りをさせると、禁軍を引っ張り出して向かわせる、ということに疑問を抱く者がいるかもしれない、という懸念ゆえだろう。敵軍が迫っている、と民に思わせて不安を煽るわけにもいかないのだ。
ゆえに見送りは、ヘレナ。
そして。
「苦労をかける、リード将軍」
「いえ。これも我が故郷を守るためです。帝都には、必ずや敵を近付かせはしない、と誓いましょう」
「うむ……必ずや、援軍を送る。それまで待ってくれ。武運を祈る」
「ありがたき幸せ」
ファルマスと、その護衛であるグレーディア。
本来ならば、皇帝であるファルマスがこのような出立の場に居合わせることはないだろう。だが、今回の戦はただでさえ敵兵よりも寡兵であり、帝都に近付かれている、という点から最悪の士気なのだ。
そんな中で、士気を上げるために皇帝が見送る、というのも大事なのである。
だからこそ、ファルマスはティファニーへとそう声をかけてから、そこに集う禁軍五千の兵へ向けて。
「ガングレイヴ帝国の、勇気ある兵(つわもの)たちよ!」
「はっ!」
「お前たちは、この帝国の誇るべき勇者だ! 今、この帝都を狙う敵軍など、ただの侵略者に過ぎぬ! そして帝国の誇りある勇者たるお前たちが、そのような卑劣な輩に負けるなどと余は全く思っておらぬ!」
「ははっ!」
「絶対に、敵を帝都へと一歩も入れるな! 帝都には誰がいる! お前たちの父がいる! お前たちの母がいる! お前たちの大切な人々がそこにいる! そのような人々を、我らが守るべき民を、薄汚い侵略者の凶刃になどかけてはならぬ!」
「ははっ!」
「征け、ガングレイヴの勇者よ! 必ずや、我らが旗に勝利を!」
「我らが旗に勝利を!」
五千の兵が、一斉に咆哮する。
それはまるで波のように振動し、そして大気を震わせるほどの暴風となる。
やはり皇帝がこのように演説を行うのは、兵の士気を上げる何よりの行動だ。そうヘレナは頷き、格段に士気の上がった面々を睥睨して頷いた。
これで見送りは終わりか――そう、ヘレナが考えたところで。
「ヘレナ様」
「む?」
唐突に、そうティファニーから声をかけられる。
ひとまず出征は見送った。そしてヘレナは、リファールからの進軍があったときに備えなければならないだろう。
そのためにも、禁軍をすぐに動かせるように準備をしておかねば――そう思っていたそこで、水を差された。
これ以上何か言うべきなのだろうか。
「どうか、兵の皆にヘレナ様からもお言葉を賜りたいと思います」
「……私が、か?」
「はい。ヘレナ様からのお言葉もあれば、それだけで士気が上がりましょう」
「ふむ……」
既にこの国を治める皇帝が激励の言葉を発したというのに、これ以上何を言えというのか。
だが、ティファニーがそう望むのならば、別段構わない。
ヘレナとて軍を率いた指揮官としての経験があるのだ。そんなヘレナからの言葉が、士気を上げる一助になるならばそれが一番である。
だからこそヘレナは、五千の兵を睥睨して。
「諸君っ!」
「うぉぉぉぉぉぉぉっ! ヘレナ様っ!」
空気が――震えた。
暴風が如き勢いで、五千の兵がそのように呼応するのが分かる。
先程、ファルマスの声に応えていた勢いの、倍ほどもある威力――その勢いに、思わず気圧されるのが分かった。
だが、ヘレナは動揺を表に出すことなく全軍を見て。
「お前たちが守るのは、帝都の民である!」
「おぉぉぉぉぉぉぉっ!」
「卑劣なる侵略者に鉄槌を! 勇者たるガングレイヴの兵(つわもの)に、負けはないと知れ!」
「うおおおおおおおおおおおおっ!」
「敵兵は自軍よりも多い! だがそれがどうした! 寄せ集めの烏合の衆など、統率されし勇者たるお前たちの刃の前に転がるだけの木偶人形に過ぎん! ただの的だ!」
「はぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
何故これほど勢いが強いのだろう。
戸惑いながらも、しかしこの良い空気を、良い波長を妨げるわけにはいかず、ヘレナは鼓舞を続ける。
「だがっ!」
「はいっ!」
「生きて帰れ! 勇者たる者、たかが薄汚い蛮族を前に死ぬことなど許さん! 全員がここを、戦勝の報告と共に凱旋することこそ誉と知れ!」
「おぉぉぉぉぉぉぉっ!」
「全軍! 出発! 征け! ガングレイヴの兵(つわもの)よ!」
「ヘレナ様ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
雄叫びと共に、全員が槍を振り上げる。
まさに心の底から、彼らがこの瞬間から戦士になったかのように。
戦場に向かうというのに、その心に強い誇りと、大いなる志を持つ戦士に。
ヘレナとファルマスは、そんな士気旺盛な禁軍と、それを率いるティファニーを見送る。
今にも戦いたい、とばかりに雄叫びを上げる、禁軍の面々を見ながら。
「……何故、それほど慕われているのだ、ヘレナ」
「さぁ……?」
皇帝であるファルマスの演説よりも、遥かに彼らの士気を上げたヘレナ。
その事実に、ヘレナはただ首を傾げることしかできなかった。
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