第178話 情勢は混沌を増す

「では、ヘレナ様、失礼します! イアンナ! お前もさっさと集合するように!」


「……」


 慌ただしく、そうメリアナが『百合の間』から出てゆく。

 そして残されるのは言葉を失ったヘレナとクラリッサの二人だけだ。リクハルド・レイルノート――ヘレナの実の兄にして、クラリッサの想い人である『黒烏将』の敗戦と、その行方不明という現実を知ったがゆえの沈黙。

 まず、膝をついたのはクラリッサだった。

 がちゃん、と全身鎧の膝が、絨毯の敷かれた『百合の間』の床へとつく。


「あ、あああ……! ああああああっ!」


「……」


 悲しみに、そう声を上げるクラリッサに対し、ヘレナは何も言えない。

 生死、行方ともに不明――それはまだ、戦死をした、という報告ではない。生まれついての戦争馬鹿であるヘレナの兄が、そんなにも簡単に戦死などするはずがないのだ。

 そう信じたいが、しかし同時に途轍もない不安に襲われる。

 本当に、あの兄が、戦争に負けた――。


「リク、ハル、ド、様ぁ……!」


「……落ち着け、クラリッサ」


「しかしっ! ヘレナ様っ!」


「お前がどれほど叫んだところで、兄が死んだかどうかは分からん」


 ヘレナは軍人である。当然ながら、戦争に毎回勝利してきた、というわけではない。何度となく敗戦は経験している。

 そして戦争とは、敗けた方が全てを奪われるのだ。その拠点も、その土地も、その備蓄も、そしてその命も。

 だからこそ、知っている。戦争において敗けた側がどうなるのか。

 何度となく――ヘレナの目の前で斬られる部下を、見てきたのだから。


「クラリッサ、まずは、落ち着け」


「ですがっ!」


「あの生き汚い兄のことだ、そう簡単には死ぬまいよ。むしろ、死んだ振りをして後ろから奇襲をかけることすら画策するだろうな」


 くくっ、と無理してクラリッサに向けて笑う。

 ヘレナも、リクハルドの強さは知っている。八大将軍の中でも最も弓の腕に優れ、射撃を競わせれば帝国一とさえ言われる存在だ。少なくとも、ある程度の距離で戦うことになればあの『青熊将』バルトロメイですら勝利することができないだろう、と思える。しかも、それでいて近距離における戦いにも秀でており、弓手は接近されると弱い、という常識を覆すほどの強さを見せるのだ。

 そんなリクハルドが、簡単に戦死などするはずがない。むしろ、戦死をした、と相手を油断させているのだ、と説明された方が余程納得がいく。

 だが、確認はしておかねばなるまい。


「いいか、クラリッサ」


「は、はいっ……」


「お前は、決してこの事実を他者に漏らすな。ボナンザもだ」


「わ、分かりました……」


「承知、いたしました……」


「訓練を続けていろ。私が戻るまで、この部屋から出ないように。アレクシア、ついてこい」


「はい、ヘレナ様」


 まずは、状況の把握だ。

 国境が突破され、二万の軍勢がこちらへ向かってきている、という報告だ。そして、国境から帝都の間にある町や村を襲撃されるわけにはいかない。つまり、迅速に国境へ向けて防衛のための軍を発さなければならないということだ。

 そして、現在のところは膠着している他の国境から軍を動かすわけにはいかない。つまり、帝都の防衛部隊――禁軍を率いて向かわねばならない、ということになる。

 どうしてこうなった。

 このようにならないように、北の国境は余裕のある兵力で防衛していたはずだというのに。


 迅速に『百合の間』から、後宮から外へと続く門へと向かう。

 当然ながらそこには、四六時中衛兵が立っているはずだ。本来、側室であるヘレナはその外へ出ることなどできない。

 だが、この状況は話が別だ。


「へ、ヘレナ様!?」


「道を開けろ」


「で、ですが、ヘレナ様を後宮より出せ、という命令は……」


「私が命じる。全ての責任は私が取る。道を開けろ」


「ひっ……!」


 ぎろり、と衛兵を睨みつける。

 ヘレナの眼力は、時に一個大隊すらも退けさせるほどのものだ。帝都の防衛ということで、ろくな実戦経験もない禁軍の衛兵にしてみれば、万の軍勢を相手にしたほどの圧力を感じる代物だろう。

 それゆえに震えながら言葉を失った衛兵が、ゆっくりと道を開ける。

 そして、そこを当然のようにヘレナは通過した。


「へ、ヘレナ様……」


「どうした、アレクシア」


「さ、さすがに、陛下のお許しもなく、外に出るというのは……」


「ならば止めてみせろ」


 アレクシアに、そう冷たく告げる。

 それは、例え誰が止めようとも止まらない、という絶対的な意志表示。

 このように、決めたことは決して曲げない――それがヘレナの、美点であり欠点でもあり悪癖でもあるのだ。

 だからこそ、そこでアレクシアは言葉をかけることを諦める。

 こうなったヘレナを止めることのできる人間など、誰もいないのだ――と。


「……」


 ヘレナは無言で、そのまま歩き続ける。

 宮廷は報告などで何度か来たことがあり、また同じく、軍人がどこに集うか、ということは分かっている。

 メリアナが既に集合している、と言っていたことだし、ティファニーは既にそこにいるだろう。状況を聞き、そして確認し、その上でヘレナがどう動くべきなのかを判断しなければならない。

 宮廷から少し出た場所にある、やや広がった庭。

 一個中隊くらいならば余裕で入ることのできるそこが、有事の際に集合する場所だ。

 そこに、慌ただしく指示を出している、『銀狼将』ティファニー・リードがいた。


「兵站の準備を急がせろ! 糧秣はひとまず、集められるだけを運ぶ! 残りはその時に応じて兵を発して運ばせる!」


「はっ!」


「将軍! 一個連隊を動かすにあたり、今すぐに用意できるのは一週間分とのことです!」


「せめて二週分は集めろ! それで駄目ならば、一週分の糧秣で二週を持たせられるように調整しろ!」


「はいっ!」


 そんな指示を出すティファニーへ向けて、ゆっくりと近付く。

 ヘレナの姿を発見した銀狼騎士団の面々から、次々に驚きの声が挙げられるが、それだけだ。


「ティファニー」


「これは……ヘレナ様!」


「事情は、メリアナから聞いた」


「でしたら、話が早いです。少々お待ちください。いいか、急げ! 明日の朝一番には出立できるようにしろ!」


「はっ!」


 ティファニーがディアンナに対してそう指示を出し、それからヘレナへと頭を下げる。

 このように、突然の出兵ということで忙しいティファニーを、わざわざ呼び止めるというのも気が引けるけれど。


「ヘレナ様」


「ああ」


「陛下より、私に下知が与えられました。禁軍一個連隊を率いて、迫り来る敵軍から防衛するように、とのことです」


「……ふむ」


 一個連隊とは、即ち五個大隊――つまり、五千の兵ということだ。

 迫り来る敵軍は二万とのことだし、なかなか厳しい条件だ。

 だが、それを可能にする手段は、一つある。


「……トールの関か」


「さすがはヘレナ様。その通りでございます」


「どうせお前が言い出したのだろうけれどな」


 はぁ、とわざわざ持ち上げるティファニーに、そう溜息しか出てこない。

 トールの関は、ガングレイヴ帝国における帝都防衛の最後の砦だ。左右を山岳に囲まれ、狭くなっている峡谷に建てられた堅固な関所である。

 帝国の技術の粋を結集して作られたその関は高く、攻めるに難く守るに易い砦だ。少なくとも、五千の兵で二万の兵を止めるには、トールの関を利用する以外にあるまい。

 だからこそ、恐らくティファニーから言い出して、そちらで布陣するつもりなのだろう。


「帝都を守る兵、その半分を私が率いて、防衛に向かいます」


「……うむ、そうだろうな」


 恐らく今回、ヘレナが率いることはないだろう、と考えていた。

 それも当然で、ファルマスがヘレナを後宮に入れた最大の理由は、いざという時に禁軍を率いることのできる指揮官が必要だったからだ。八大将軍を動かせないという事情があったがゆえに、八将に次ぐ実力、とされたヘレナを後宮に入れたのだから。

 だが、ここにはティファニーが――『銀狼将』ティファニー・リードがいる。

 動かせる八将が存在する以上、先にそれを動かすのは自明の理である。


「ヘレナ様、いざという時には、残りの半分を――帝都を、よろしくお願いします」


「……恐らく、そうなるだろうな」


「この機を逃すとは思えませんので」


 まだ確実に、そうなるであろう、という想定があるわけではない。

 だが、間違いなく来るだろう。だからこそ今まで、沈黙を保ち続けているのだから。

 どのように他国と繋がっているのか――そこまでは理解できないが。


「リファールは、動くだろうよ……」


 三国連合、アルメダ皇国と共にガングレイヴ帝国と敵対する三つ目の敵――現在は、奇妙なまでの沈黙を保っている敵国。

 リファール王国がこの機に動かないなど、誰も考えないのだから。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る