第149話 『歌人』への道標
切りのいいところで鍛錬を切り上げ、夕刻に至る。
とはいえ、まだ夕餉にするには少々早い時間だ。本来ならば日が沈むまで鍛錬をするのがいいのだろうけれど、ヘレナがこのように部屋へ戻ってきたのには勿論理由がある。
アレクシアに先触れを出させ、クラリッサを待っているのだ。
「あの、ヘレナ様……」
「どうした?」
「もうそろそろ、いらっしゃると思うのですが……」
「ああ、大丈夫だ。このくらいならば問題はない」
当然、何もせずに待っているほどヘレナは大人しくない。
いつも通り、その背中にアレクシアを乗せて腕立て伏せをしながらだ。アレクシア一人では大した負荷にもならないため、敢えて片腕で行っているあたり、変わらぬ鍛錬の鬼である。
そして、そんな背中に乗りながらアレクシアが死んだ目をしているのも、いつも通りである。
適度にいい汗が額に浮かんでくるが、変わらず継続だ。鍛錬とは体をいじめていじめ抜いてこそ成果が出るのだから。
「よし」
「おやめになられますか?」
「次は左腕だ」
「……ええ。もう、諦めます」
アレクシアを乗せたままで、右腕一本で支えているその状態から、瞬間に左腕へと変える。
突然の負荷に左腕がみしみしっ、と痛むが、しかしその痛みすら心地良い。ヘレナは微笑み、そのまま左腕一本だけの片腕立て伏せを延々と続ける。
鍛錬はいい。
鍛錬こそが己の肉体をより強靭にし、そして頑強にしてくれるのだ。そして、それこそが幸せなのである。
鍛錬をすると、筋肉が強くなる。
筋肉が強くなれば、幸せになる。
幸せになれば、もっと鍛錬が楽しくなる。
もっと鍛錬が楽しくなれば、もっと筋肉が強くなる。
もっと筋肉が強くなれば、もっと幸せになる。
鍛錬を続ける限り、人はどれほど幸せになれるというのか。今日もヘレナの脳は平常通り、筋肉に支配されている。
左腕での片腕立て伏せの回数が二百を超えたあたりで、こんこん、と扉が叩かれた。
アレクシアが慌てて降りようとするのを制する。
「入ってくれ」
「は、はい。失礼します……」
「失礼します、『陽天姫』様」
予想通り、そこにいたのはクラリッサと、お付きの侍女ボナンザだった。
確か、クラリッサにだけ先触れを頼んだはずなのだが、侍女を伴うくらいはいいだろう。というより、侍女を伴わず入宮したヘレナやフランソワがおかしいのだ。
「もう少し待ってくれ。すぐに終わる」
「は、はい……。うわぁ……」
「どうかしたか?」
「いえ……私にはそんなこと、とてもできないなと思いまして……」
「よし、いいだろう」
最後はやや速度を早めて行い、アレクシアを下ろす。
両腕がいい感じに上がらない。このくらいの疲労感がなければいけないな、とまずヘレナは椅子に座る。
「まずは二人とも、座ってくれ」
「は、はい……」
「私はお嬢様の後ろに控えさせていただきます」
クラリッサが、ヘレナの前に座り、ボナンザが後ろで控える。
普段はファルマス一人にしか使われていないソファだが、本来二人がけであるために、二人でも座れると思うのだけれど。
もっとも、主人と同じ椅子に座ってはいけない、という侍女としての考えがあるのだろう。
「さて……私は、一人で来るように言ったはずだが」
「あ、あの、申し訳ありません。私が、一緒に来て欲しいと……」
「まぁ、別に構わない。侍女を伴うことまでは想定していなかったが、他言は無用で頼む、ボナンザ」
「承知いたしました」
「そして……クラリッサ。本題に入るが……少し、話がある」
「は、はい……」
随分と、クラリッサが青い顔をしているように思える。
何をそれほど怖がっているのだろうか。
「あ、あの……『陽天姫』様」
「どうした、ボナンザ」
「お嬢様は、頑張っておられます。唯一無二の才覚でもあります、馬術もあります。どうか、お見捨てになられるのは……」
「……む?」
ボナンザのそんな言葉に、ヘレナは眉を寄せる。
見捨てるとは一体どういうことなのだろうか。特に何を言った覚えもないのだが。
「どういうことだ?」
「ヘレナ様……あの、分かっています」
「む?」
「私は今……役立たず、です」
クラリッサが、そう目を伏せたままで呟く。
ボナンザがそんなクラリッサの態度におろおろとしながら、ヘレナへ視線を向けた。
なるほど――そこで、クラリッサが何を考えているのか理解できた。
「マリエルさんみたいに、棒術も上手くありません。シャルロッテさんみたいに、素手で戦うこともできません。アンジェリカ姫みたいに、物を投げる才能もありません。フランみたいに、百発百中の弓の腕もありません」
「……」
「後宮の中庭で訓練する以上、馬にどれだけ長けていても、意味がないことは分かっています……。馬上なら長槍だって使えますけど、駄目なんです、私では……」
「……ふむ」
ヘレナは腕を組み、クラリッサの言葉を噛み締める。
別段、クラリッサを役立たずだと、そう言いたいわけではない。だが、確かに現状の鍛錬において、クラリッサはその十全を発揮できないのだ。
馬を借りることができたのも、新兵訓練(ブートキャンプ)という機会があったからこそなのだから。
「ですから、私は……」
「安心しろ、クラリッサ」
「え……」
だからこそ、そんなクラリッサの肩を叩く。
そのように思わせているのは、全てヘレナの責任だ。
クラリッサの馬術は、普段の訓練においては生かせない。それを分かっていながらにして、得意分野を伸ばすことに専念したのだ。
結果として、現状の訓練では物足りない実力となってしまっているのだ。
「私は言った。クラリッサ、お前を一流の戦士にしてやる、と」
「へ、ヘレナ様……?」
「馬がなくては戦えない戦士などいない。馬とはあくまで、移動力や突破力の向上に使うべきものなのだ」
うん、とヘレナは頷く。
クラリッサもそのように、己の不足を感じているならば話は早い。
「戦場において、騎馬兵がどのような役割か知っているか」
「ええと……斥候でしょうか」
「それも一つだ。他には?」
「ううんと……後詰めでの掃討戦でしょうか」
「その役割もある。あとは?」
ヘレナの問いかけに、はっ、とクラリッサが目を見開く。
どうやら、結論に辿り着いたようだ。
「……先陣を切る、こと!」
「その通りだ。騎馬兵は強力であり、突破力は最大だ。だからこそ、戦いの最初において突撃を行い、敵陣を切り裂くことこそが誉れとなる」
騎馬と歩兵では、どうしてもその速度に違いが出る。
だからこそ、最初に用いるのが最も効率が良いのだ。敵の弓手が間に合わないうちに敵陣に迫り、そして蹂躙する。そして騎馬隊によって突破された敵陣を、歩兵により制圧してゆくのである。
つまり。
「騎馬兵とは、全ての兵種の中で、最も敵の攻撃を喰らうのだ」
「――っ!」
「先陣を切るとはそういうことだ。騎馬兵により蹂躙された敵陣は、落とすことなど容易い。だが騎馬兵は、戦闘開始と共に最も士気に溢れる敵陣へと切り込まねばならない。その意味が分かるか?」
「つまり……決死の覚悟を持て、ということでしょうか?」
恐る恐る、といった様子でクラリッサが聞いてくる。
そんなクラリッサの言葉に、ヘレナは首を振った。
騎馬兵の役割――そんなもの、一つしかないのだ。
「死なないことだ」
「え……」
「誰かの後にならば、ついていける。だが、先頭が死んでしまえば士気は下がる。ならば、死なないことこそが最も必要なことになるのだ」
「で、ですが……」
「先陣を切る者がいてこそ、その者に続くことができる。では……問題だ。部隊において先頭を駆け、敵陣に切り込むその第一矢となる者……それを、何と呼ぶか分かるか?」
「それは……っ!」
クラリッサの驚きが、よく分かる。
ヘレナの言葉を噛み締めながら、己の行うべき役割をしっかりと理解し、その上で結論を言えと、そう告げているのだから。
そんな、クラリッサの目指す道は――。
「将軍……!」
「そうだ。敵への先陣を切り、後ろを続かせる……これができる者は、そういない」
「私の、目指す道は……!」
「ああ」
先頭を走り、後続の士気を上げる。
決して倒れることなく、後ろを続かせて突破する。
それができる者。
それは――将軍と、そう呼ばれるのだ。
「なってみせろ、クラリッサ。将軍に」
「はいっ……!」
そう、ヘレナは道を示し。
クラリッサは、涙目でしかし嬉しそうに、そう頷いた。
そんな師弟の会話を聞きながら。
「……ヘレナ様は伝染するのですね」
そう、小さくアレクシアが失礼なことを呟いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます