第121話 ヘレナズブートキャンプ 5

 朝。

 日の昇る前に目を覚まし、ヘレナは体を起こす。

 起きた瞬間、普段と異なる景色に若干ながら混乱し、その後、入り口部分に寝台を移動させたのだ、と思い出した。そして、視線を向ける先では五人が、泥のように眠っているのが確認できる。

 最も寝相が悪いのはシャルロッテのようで、随分とあられもない姿をしていた。逆に最も動いていないのはクラリッサか。寝顔を見ながら微笑ましいな、と僅かに頬を緩ませ、しかしいかんいかん、と首を振る。

 ヘレナは教官だ。

 この五人に対して、ヘレナは常に厳しくあらねばならないのだから。


「よし」


 とはいえ、まだ朝は早い。

 五人の休むのに合わせてヘレナも休んだため、もう眠気は全くない。そのため、昨日は五人への指導を主にやっていたために、できなかった自分の訓練を行うことにする。

 ヘレナもまず動きやすい服に着替えて、ふん、ふん、と腕立て伏せ、腹筋、屈伸と重ねて行い、額に汗が浮かぶ。このくらいでいいかな、と軽く額を拭った頃に、ようやく外が白じんできた。

 地獄の新兵訓練(ブートキャンプ)――二日目の開幕である。


 すぅっ、とヘレナは大きく息を吸う。

 そんなヘレナの前にいるのは五人――泥のように眠り、寝息を立てている令嬢たち。

 兵士の朝は早い。新兵の朝はもっと早いのだ。


「総員、起床ぉっ!」


「はうっ!?」


「ひぃっ!?」


「えぇっ!?」


「ふわっ!?」


「ひゃっ!?」


 ヘレナの声は大きい。そもそも軍を率いる者は、声が大きくなければいけないのだ。そうでなければ兵を鼓舞することもできないのだから。

 そして、そんなヘレナの声は、泥のように眠っていた彼女たちを、一瞬で覚醒させるほどのもの。


「な、何ですの……?」


「ねむひ……」


「起床! 全員、訓練着に着替えろ!」


「えぇぇ……」


 寝間着姿のまま、眠そうな素振りを見せている。

 だが、そのように眠らせ続けることはしない。

 ぱぁんっ、とハリセンでソファを打ち、威嚇する。


「さっさと着替えろ!」


「ひぃっ! はいっ!」


「もう、やだ……」


「うぅ……」


「着替え終わり次第、整列!」


 のろのろと全員が起き上がり、着替え始める。

 アンジェリカが最も遅く、不満そうな顔だ。皇族の一員として何不自由なく育ってきたからこそだろう。

 無言でハリセンを叩いて、更に恫喝の意味を込めて睨みつける。

 それだけでアンジェリカは、ひぃっ、と怖がりながら早々に着替えた。


 全員の着替えが終わり、整列する。

 本来、起床と着替えの後、ベッドを直させるのが通常の新兵訓練なのだが、アレクシアから「わたしどもの仕事を奪わないでください」と言われたため、ベッドメイキングは女官たちに任せることとする。


「点呼ぉっ!」


「いぃちっ!」


「にぃっ!」


「さぁんっ!」


「しぃっ!」


「ごぉっ!」


「よしっ!」


 まだ眠気の残る顔はしているが、昨日の朝よりも声は張れている。

 昨日一日の訓練を、ちゃんと覚えているのだろう。だからこそ、逆らってはいけない、という意識がついたのだ。


「では、訓練を始める! 全員、中庭に集合!」


「はいっ!」


 ヘレナが寝台を動かし、入り口を開く。

 寝台はどうせ夜には、また入り口で戻さなければならないのだ。ひとまず場所をずらすだけにしておき、五人が中庭へ向かう最後尾につく。

 アンジェリカがちらちらと後ろを窺いながら、しかしヘレナと目が合うと顔を歪めていた。

 道中で逃げ出すつもりだったのだろうけれど、そうは問屋が卸さない。

 中庭に到着し、何も言わずとも整列する五人。

 ヘレナはひとまず、そんな五人の前に立ち。


「では、柔軟体操を始める! 私に合わせて体を動かせ!」


「はいっ!」


 新兵訓練であっても、始まりはまず柔軟体操からだ。

 軽く体を動かし、その後の過酷な訓練においても、柔らかな体を使うために必要なのである。


 暫し柔軟体操を行い、全体的に体が温まったところで。


「では、軽く走る! フランソワを先頭に、中庭から南へ行け!」


「はいっ!」


「では開始っ!」


 フランソワ、クラリッサ、マリエル、シャルロッテ、アンジェリカの順に、先日工事を行ったばかりの、中庭から後宮の外周を回る形での走る道を行く。

 構造は『U』の文字をしている走路であり、行き止まりをやや広めにとってある。延々と回るトラックコースではないのが残念だが、行き止まりでそのままくるりと回れば大丈夫だろう。

 ヘレナはアンジェリカの後ろにつき、五人をしっかりと見ながらついて行く。

 先頭を走ってもいいのだが、ヘレナの速度について来れる者などいないだろう。現状でさえ、ヘレナからしてみれば早歩きくらいの速度なのだから。


「ちんたら走るな! 気合を入れろ!」


「はいっ!」


「行き止まりで回って、今まで来た道をもう一度走り、中庭へ向かえ!」


「はいっ!」


 フランソワが最初の行き止まりに辿り着き、そのままくるりと回る。

 最初、フランソワへの訓練を施す、と決めた時から欲しかった、走るための道。銀狼騎士団のおかげで作られたコースに、僅かに笑みながら走る。

 そして、フランソワを先頭として、再び中庭へと到着した。


「引き続き、逆のコースへ向かえ!」


「はいっ!」


 走る。

 走る。

 走る。

 ひたすら走る。


 中庭を五度通過し、行き止まりで十度回った時点で、明らかな疲労の色が全員に浮かんでいた。

 今まで走ることなど全くなかったのだから、この程度の距離で音を上げるのも仕方あるまい。


「はぁ、はぁ……」


「ひぃ……」


「ぜぇ、はぁ……」


「よぉしっ!」


 最も長い直線。

 そこで、ヘレナの声に喜色が混じる。

 これで終わりか――そう、一瞬の安堵が令嬢たちに浮かんだ時点で。


「アンジェリカ! 急いで走れ! フランソワを抜いて先頭へ行け!」


「えぇっ!?」


「拒否は許さん! 行けっ!」


「ひぃっ!」


 ハリセンを振りかざすと、アンジェリカは表情に恐怖を浮かべて、一気に走る。

 当然ながらヘレナにしてみれば遅すぎるが、しかし全員よりも僅かに早いであろう速度。

 そのまま、フランソワを抜いて先頭へ行き、そのままアンジェリカが先頭となる。


「次、シャルロッテ! 先頭へ行け!」


「な、何なんですのぉっ!」


「行けぇっ!」


「もう嫌ですのぉっ!」


 いやぁぁぁぁぁ、と叫びながら、しかしシャルロッテも速度を上げ、先頭へ。

 それを全員に行わせる。

 延々と走り続けるよりも、このようにダッシュを混ぜた方が訓練にはいいのだ。


 中庭へと十度目に到着した時点で、止める。


「よぉしっ! そこまでっ!」


「ひぃ……」


 ぜーはー。

 息を荒げながら、全員が倒れるのを見守る。

 まず、早朝はこのくらいでいいだろう。


「では、休んだ後は朝食とする! アレクシア!」


「はい」


 中庭近くに控えていた、アレクシアを筆頭とする六人の女官が、テーブルと椅子を設置する。

 そして、当然のように、そこへと皿を並べる。いつも通りの朝食を。

 ぜぇ、ぜぇ、とまだ息の荒い彼女たちが、一人ずつその椅子へと座り。

 そして、並べられた朝食に、げんなりと表情を翳らせた。


「では朝食! 残した者、一人につき腕立て伏せ百回追加だ!」


「あぁぁ! もぉぉぉ!」


「いやぁぁぁぁ!」


 もう自棄だ、とばかりに朝食を食べ始める。

 本来、時間を決めて食べさせるが、さすがにそこまで縛ってもいけないだろう、と自由に食べさせることにした。

 そして、やはり食欲減衰しておらず、もっしゃもっしゃと食べているフランソワ。どうやら、どんな状況でも食べられる、という性格のようだ。


「あの、ヘレナ様……質問を、いいでしょうか?」


「どうした、クラリッサ」


「この訓練は、一月だとそう聞いているのですが……」


「うむ」


「一月、乗り越えた先には……何があるのですか?」


「む?」


 クラリッサの質問に、眉根を寄せる。

 新兵訓練は、終わり次第兵士となる。そして、新兵訓練を乗り越えた者はそれぞれ軍に配属されることになるのだ。

 だが、ここは後宮。

 新兵訓練が終わったところで、彼女らに行き場など特にない。


「ふむ……」


「い、いえ、ただの興味というか、その……!」


「いや、確かに私も考えていなかったな」


 乗り越えた先に何かがあれば、人間はやる気になるものだ。

 既にバルトロメイに相応しい妻になる、という目的のあるフランソワはまだしも、四人には特に何も目的がない。

 何か考えてやらなければならないだろう。


「では……そうだな。お前たちが一月を乗り切ったそのとき、何か褒美を用意しよう」


「褒美……ですか?」


「ああ。例えばクラリッサ、お前ならば……兄と会う機会を設けよう」


「死ぬ気で乗り越えてみせますっ!」


 思った以上にやる気が出るようだった。

 まるで眼差しに炎が生まれたように、急激にクラリッサのやる気が上がっていっているのが分かる。

 何故これほど、あのシスコンが好きなのか分からないが。


「へ、ヘレナ様! わたしは!」


「まぁ、残る面々は追々考えておく。それを楽しみに、この一月を乗り切ってみせろ」


「はいっ!」


 飴と鞭は大切なのだ。

 もっとも。


「お、お姉様から……ご褒美……!」


 やはり熱っぽい視線を向けてくるマリエルに、少しだけ背中に寒気が走った。

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