第120話 ヘレナズブートキャンプ 4

 死屍累々。

 それが現状を指すのに、最も適した言葉だろうか。


「まったく……」


 昼餉の時間はとっくに過ぎて、既に夕餉の時刻となっている。アンジェリカとフランソワは倒れ、クラリッサとシャルロッテっは息を荒げながら四つん這いになり、マリエルですら壁に背中をついてもたれかかっている状態だ。

 そんな彼女らを馬鹿にするかのように、部屋の中央で舌を出す蛇。


 昼から夕にかけて時間をかけながら、全く捕まることなくのうのうと逃げ延びているのだ、この蛇は。

 もっとも、出入り口の前にはヘレナが立ち、窓も高い位置にあるため蛇も逃げ出すことはできない。


「ぜぇ、ぜぇ……」


「も、無理……」


「蛇ぃ、蛇いやぁ……」


 次々に泣き言を口にしながら、そう嘆き続ける。

 午前に慣れない運動をし、かつ昼食も抜いており、加えて蛇を捕まえるなどという初めてのことを体験したためか、精魂尽きているようだ。もっとも、教官であるヘレナも同じく昼食は抜いている。一人食べるなどという恥知らずな真似はしないのだ。

 しかし、このままではいつまで経っても夕餉を用意できない。

 戦場で一日二日食わなくても平気だったヘレナと異なり、彼女らは飢えなど経験したことがないだろう。

 極限の飢餓を味わってもらうのは、まだ後の訓練だ。


「やれやれ、仕方ない」


 舌を出しながら威嚇する蛇。

 そんな蛇に弄ばれ続けた令嬢たちは、もう蛇の姿を見ることすら嫌になっているだろう。


 だが。

 そんな蛇を、ひょいっ、とヘレナが掴み上げる。

 そして、そのまま噛まれないよう首根っこを掴みながら、部屋の端に置いてあった麻袋へ戻し、そのまま口を縛る。

 再び蛇は、麻袋の中で暴れた。


「えぇぇ……」


「どうしてあんな簡単に……」


「ありえませんの……」


「たかが蛇にここまで弄ばれるとは、まったく情けないものだ」


 はぁ、と大きく溜息を吐いて肩をすくめる。

 実際、蛇も食事を全くしていない状態であり、ヘレナが捕まえたときに比べると随分動きは衰えているのだ。簡単に首根っこを掴むことができている時点で、それは一目瞭然である。

 だというのに、これほど時間がかかるとは思わなかった。


 だが、蛇を用いた訓練というのも、悪くなさそうだ。

 実際、クラリッサなど体力の限界に達していたのだろうけれど、蛇が近付いてくると必死の形相で逃げていた。精神は体力を超越する、という典型的な例だろう。

 よくよく見れば可愛い顔をしているのだけれど。つぶらな瞳とか。


「さて、では夕食とする。アレクシア!」


「はい、ヘレナ様」


 ずっと扉の向こうで待機していたのだろう、アレクシアが答えて扉を開く。

 銀のカートの上に乗っているのは、ヘレナの夕餉だ。それに続いて、エステル、ソフィーナといった侍女たちが入ってきて、それぞれ夕餉を運んできた。

 ちなみに、アンジェリカの分を運んできたのはイザベルである。臨時の女官、という扱いになるのだろうか。

 そして女官たちがテーブルを設置し、その上に夕餉を載せる。

 全員、全く同じ食事内容だ。他の令嬢の食事を見たことなどなかったが、どうやら身分や立場で差があるわけではないらしい。


「さて、では食べろ。食事は体を作る資本だ」


 そして、ヘレナからまず食べ始める。

 いつも通りの、味は良いが冷めてしまっている食事だ。アレクシアの淹れてくれた熱いお茶が、まだ救いといったところか。

 もぐもぐ、と普通に食べるヘレナに対し。


「……」


「……」


「……」


「……」


 四人、夕餉を見つめたまま動かない。

 ただ一人もっしゃもっしゃと勢い良く食べているのはフランソワだけであり、クラリッサは夕餉を見ながら明らかに溜息を吐き、シャルロッテは顔を歪ませながら口元を押さえている。マリエルは疲れたように目を閉じ、アンジェリカに至っては心ここにあらず、といった様子だ。

 一体どうしたのだろうか。


「あ、あの! 皆さん! 食べましょう!」


「……どうして食べられるのよ、フラン」


 フランソワがそう鼓舞するが、しかし四人は動かない。

 むしろクラリッサなど、そんな食べるフランソワをありえない、とでも言いたげに見ていた。


「え、ど、どうしてって!?」


「……吐きそうですの」


「さすがに、きついですわ……」


「もぉ、嫌……」


 どうやら、疲れきって逆に食べられないようだ。

 ヘレナにしてみれば、戦場では満足に食事のできる機会には、きっちり食事をしなければならない。だからこそ、このように食べられない、というのが信じられないのだが。

 だが、食べてもらわねば困る。食事は体の資本となり、明日の活力になるのだから。


「食べろ、全員」


「……」


「食事を残した者一人につき、夕食後に腕立て伏せを百回追加する」


「食べますのっ! 食べればいいのでしょうっ!」


「うぅっ……た、食べます……」


「残しませんわ……」


「嫌ぁぁ……」


 食事は人生の楽しみでもあるはずなのに、どうやら四人にとって苦痛でしかないようだ。

 もそもそと、遅いがしかし食べ始めた四人を見て安心し、ヘレナも食事の続きに移ることとする。


「……野菜なんてキライなのに」


「食べてください! 食べないと腕立て伏せが追加されます!」


「わたくしが下げろって言えば料理人は下げるのよ! なのに……!」


「ちゃんと食べますの。わたくし、あなたのせいで腕立て伏せをしたくありませんの」


「分かったわよ! わたくしに命令するな!」


 ふんっ、と鼻息荒げながら、しかし野菜をもそもそと食べるアンジェリカ。

 やはり連帯責任にするのはいい。全員に一致団結が生まれる、一番の方法こそ連帯責任なのだから。


「誰も残さなかった場合、今日の訓練は終了だ」


「絶対に残しませんわ!」


「ええっ! 死ぬ気で食べます!」


「もう嫌ですの!」


「どうしてこんな目に……」


 うがーっ、とでも叫び出すかのように、食事のペースが上がってゆく。

 既に最初から食べていたフランソワは全部食べ終わり、ふぅ、と満足そうに息を吐いていた。


「食事が終わった者から湯浴みをしろ。その後は自分の寝台で待機」


「はいっ! クレアさん!」


「はぁーい、用意してますよぉ」


 間延びした口調の侍女、クレアが湯の入った桶を用意し、フランソワと共に湯所へ入ってゆく。

 引き続きマリエルも食べ終わり、フランソワが先に入っていた湯所へと、侍女ソフィーナと共に入っていった。

 湯所はそれなりに広いので、三人くらいまでならば大丈夫だろう。


「あら、フランさん……意外と大きいですわ」


「きゃっ! ど、どこ触ってるんですか! マリエルさん!」


 マリエルが最近、なんだか違う方向に走っている気がするのは気のせいだと信じて。

 そして二人が湯所から出てきた時点で残る三人も食べ終わり、そのまま各侍女と共に入ってゆく。このときクラリッサと一緒に入っていった、ボナンザという年配の侍女は初めて見た。話を聞くと、クラリッサが生まれる前からアーネマン伯爵家に仕えていた侍女らしい。

 そして、最後にヘレナがアレクシアと共に入り、寝間着に着替えてから戻る。


 すると、既にアンジェリカは横になっており、寝息を立てていた。


「フランソワ」


「は、はいっ!」


「私は以降、寝台で待機、と言ったな」


「はいっ!」


「寝て良し、とは言っていないはずだが」


「アンジェリカさん起きてくださいっ! まだ休んではいけませんっ!」


「起きなさいっ! お姉様にこれ以上逆らわないで!」


「んぁ……もぉ、嫌……」


「起きますのっ! あなたのせいで何か追加されるのは嫌ですのっ!」


「お願い起きてぇーっ!」


 四人がかりで起こされ、眠そうな目を擦りながらアンジェリカが起き上がる。

 ひとまずこれで休ませるつもりだったのだが、しかし指示に従わない者を放置しておくわけにもいかないのだ。

 さて、とヘレナは自分の寝台へと向かい。


「ではアレクシア」


「はい。明日はどこで行われますか?」


「明日は終日中庭で行う。それから、用意してほしいものがある」


「承知いたしました」


 アレクシアへ、必要なものを伝える。明日は精神的、及び技術的な訓練を行わねばならないからだ。言葉にアレクシアが頷き、その後アレクシアを筆頭とし、侍女たちが「おやすみなさいませ」と一言述べて退出する。

 それと共に、ヘレナは自分の寝台を、出入り口の前へと運んだ。一人で。


「え、えぇ……」


「寝静まったら、逃げようと思ってたのに……」


「やめてくださいアンジェリカさん!」


 入り口は封鎖し、窓はそもそも人が通れるほどの幅はない。

 つまり、逃げ出すことは不可能。

 アンジェリカの表情に、絶望が翳ったのが分かる。


「では全員、休んでよし!」


「はいっ!」


 部屋の灯りが消され、闇が満ちる。

 地獄の新兵訓練(ブートキャンプ)、その一日目が、これでようやく終わった。

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