第113話 遠乗りデート 4
花畑で少しだけ休憩してから、再び馬を走らせる。
既にガングレイヴ帝国全土でも最も巨峰だと言われる、雄大なテオロック山は目の前にそびえ立っていた。頂上まで登る、となればそれなりに装備を整える必要があるが、五合目まで馬で登る、というだけならばそれほど気をつけなくてもいいだろう。
ヘレナの指示に従って走る速度を変えてくれるファルコと共に、森を駆け抜ける一陣の風になったような気分だ。
登山客などが利用する、麓の村の横を抜けて、テオロック山へと登り始める。
二合目までは馬車が通れるほど整備されており、傾斜こそあるものの、問題なく登ることができるだろう。
「雄大な山よの」
「そうですね」
「山を見ると、己がいかにちっぽけな存在か分かってしまう。出来ることならば、余もこの山が如く動じぬ男となりたいものよ」
自嘲しながら、ファルマスがそう呟く。
ガングレイヴ帝国という、大陸最大の国家をその背に負うファルマスは、ヘレナにしてみれば十分に大きな男だ。だが、雄大な山の景色は彼の心の琴線を打ったらしく、ほぅ、と大きく嘆息した。
「陛下、この先は道が狭くなっております。お気をつけください」
「ああ」
さすがに整備された山路であるとはいえ、少なからず動きにくい場所もあるのだ。
二合目を過ぎるともう馬車では登ることができず、騎馬であればなんとか通れる、くらいのものだ。もしも言うことを聞かない荒馬に乗っていれば、足を踏み外して転落する可能性すらある。
もっとも、ファルマスの愛馬シルバも、ヘレナの乗るファルコも気性がおとなしく、賢い馬だ。暴れて転落するようなことにはなるまい。
「ファルマス様は、テオロック山に登ったことはあるのですか?」
「いや、初めてだ。話は何度か聞いたことがあるがな」
「では、私が先を走りましょう。これまで、何度か登ったことがありますので」
大抵が盗賊の捕縛だとか、そういった任務のためだが。
とはいえ、その経験は少なからず覚えている。ここは少し危ないな、と思える場所も覚えているのだ。
ファルマスに先頭を走らせるよりは、ヘレナが先を行く方がいい。
だが、そんなヘレナの提案に、ファルマスは首を振った。
「ならぬ」
「え……」
「そなたを誘ったのは余だ。余がエスコートをせずしてどうする」
「そ、それは……」
そう言われると、途端に恥ずかしくなってくる不思議だ。
ファルマスはこの国の最高権力者である皇帝であり、しかもヘレナより十も若い。政治的な思惑があって、ヘレナを寵愛している、ということを周囲に見せつけているのだ、ということも理解している。
だが、ファルマスとて一人の男。
自分より遥かに弱いとはいえ、男にそう言われて動じない女はそういないだろう。
「だが、確かに少し危ないな。速度を少し落とすぞ」
「はい」
だんだんと狭くなり始めた道に、そうファルマスが速度を落とす。
右側はそり立つ壁であり、左側は断崖絶壁だ。少なくとも左側に落ちてしまえば、命を失う可能性すらある。
本気の登山者はそり立つ壁を登るらしいが。
人が走るよりも遅いくらいの歩みで、ゆっくりと歩を進める。
日はまだ中天に差し掛かっていない、昼前といったところだ。ヘレナの記憶が正しければ、もうそろそろ五合目に到達するだろう。
そして、五合目を越えれば、もう騎馬で登ることはできない。
「おぉ……」
暫しそんな狭い道を歩み、ようやくやや広くなった空間へと辿り着いた。
断崖絶壁なのは変わらないが、目の前に広がる景観――それはパタージュ大森林の雄大な緑と、その向こうに広がる草原、そして帝都を一望できるものだった。
初めて見たのであろうファルマスは、感動の声を上げている。
「良い景色ですね」
「ああ……これほどのものだったか。これは確かに、一見の価値がある」
「もう、この先は馬で登ることはできません。ここで休憩されますか?」
「そうしよう。時刻も丁度昼だ。食事としようではないか」
ファルマスと共に馬を降り、高山ゆえの澄んだ空気を胸いっぱいに吸いながら景色を眺める。
宮廷すらも小さく思えるこの景色は、ヘレナも初めて見たときには感動したものだ。
グレーディアが敷いた布の上に、二人で座る。そして、手渡されたバスケットを開いた。
そこに並んでいるのは、色とりどりのサンドイッチである。
水筒の温くなったお茶を出して二人で飲みながら、お互いに食べ始めた。
「……うむ、美味い」
「そうですね」
「遠出をし、景色を眺めながら食べるとは、これほど美味いか……。いかんな。そなたに作らせる、という発想がなかった余の考え不足を恨みたくなってしまう」
「そんな大した腕ではないのですが……」
なんだか、ヘレナの料理に対する期待がどんどん上がっている気がする。
そんなに期待されてしまうと、もう下手なものが出せなくなってしまうのだが。
「ああ、そういえば……母上からなのだが」
「はい?」
「明日の朝、アンジェリカを後宮に送る、とのことだ。徹底的に鍛えてやってほしい、と言っていた」
「はい、承知いたしました。ですが……」
「どうした?」
そういえば、まだファルマスには言っていなかった。
明日の朝から始める、彼女らへの新兵訓練(ブートキャンプ)。今のところ、一月みっちりと行わせる予定である。
そしてその間、ファルマスに訪れられては、アンジェリカの甘えに繋がるだろう。
「ファルマス様、アンジェリカ様へ鍛錬を施すにあたり、お願いがございます」
「言うてみよ」
「一月、後宮へお渡りになられるのを、控えていただきたいのです」
「む……」
ファルマスが渋面を浮かべる。
それも当然だろう。本来、後宮とはファルマスのために存在するのだ。そこに来るな、というのはヘレナのわがままでしかない。
だが、ファルマスは目を閉じ、微かに嘆息した。
「その件については、一応事前に母上から聞いていてな」
「あ……そうでしたか」
「確かに、寝泊まりも全て後宮で行わせれば、アンジェリカの頼る者は誰もおらぬ。余が訪れることで、あれの甘えに繋がってはならぬ、ということも聞いた」
「はい……」
「ゆえに、その願い……承諾しよう。そもそも無茶を頼んでおるのはこちらだ。余が一月渡らぬことで、あれの教育に繋がるのであれば、否はない。代わりに、少し長く帝都を空けることにした」
「そうなのですか?」
それは初耳である。
ファルマスが長く帝都から離れる、というのは政治的に問題がないのだろうか。
ヘレナには考えても分からないが。
「ノルドルンドと、あやつに阿る奸臣を、余は粛清するつもりだ」
「はい」
「だが、あやつらは政治の中枢におる。一斉に粛清を行っては、政治に難を来たすことがあろう。それゆえに、粛清後に問題なく政治を司ることのできる臣下を、今のうちに集めておかねばならぬのだ。その件で遠出をしなければならぬ案件があったのだが、この機会に纏めて行おうと思ってな」
「そうでしたか」
うん、分からない。
とりあえずノルドルンドさえ殴らせてもらえればそれでいいか、と思考を放棄する。
「不在のうちは、アントンに全てを任せる形で手配しておる。余はアントンを疎んじている、と対外的には見せておるが、寵姫であるそなたの父親であるがゆえに信じる、というポーズを見せてな」
「なるほど」
そう答えるが、勿論ヘレナは何も分かっていない。
「だが、な……」
ちら、とファルマスがグレーディアを見やる。
すると、グレーディアはファルマスに背を向け、そのまま腰を下ろした。
何も見ていませんよ、というアピールを全身で行っている。
「あ、あの……ファルマス様?」
「一月は長い。そなたに会えぬ一月を思うと、それだけで今ですら辛くなる」
「そ、それは……」
一月。
その間、ファルマスが訪れることはない。
確かにそれは――長い。
「だが、安心せよ、ヘレナ」
「へ?」
「十八年だ。比べれば、大したものではない」
意味の分からない言葉に、思わず眉根を寄せる。
十八年前といえば、ヘレナは十歳だ。それがどうしたというのか。
ファルマスは、ゆっくりとヘレナへと顔を近付け。
「そなたに出会うまで十八年かかったのだ。比べれば、一月など刹那にも等しいものよ」
「え……」
十八年――それは、ファルマスが生まれ、ヘレナと出会うまでの時間。
そう理解したそのとき。
二人の距離はなくなり、雄大な景色を背に、唇が重なった。
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