第86話 閑話:宰相の苦悩

 アントン・レイルノートはガングレイヴ帝国という、大陸最大の戦力を誇る帝国における臣下の最高峰、宰相という立場にいる。

 元よりレイルノート家は宮中侯という特殊な立場である。本来の侯爵や伯爵といった爵位を持つ家は、その持ち得る領地を治め、税を徴収し、その一部を国へ納める、という形で共存しているのだ。帝国とてその例外ではなく、貴族の上に皇帝が立つ、という形での立憲君主制である。

 だがアントンの立場、宮中侯というのは、そんな彼らの在り方とは大きく異なる。

 元々大臣という立場において、宮中伯という立場があるのだ。これは基本的に国家の書記を担当するもので、各部署に分かれて十名程いる。基本的には皇帝の補佐をする、という形で領地を持たず、代わりに一定の給金が国庫より支払われる、というものだ。

 そして宮中侯は、そんな宮中伯を纏める立場に当たる。

 基本的には大臣などの人事権を持ち、またあらゆる部署に干渉する権力を持つのだ。不正や横領といったものをいち早く発見し、そして不正を行った者へ処罰を与え、新たな大臣を据える、というのが主な役割だ。つまり、宮廷におけるあらゆる部署の監査官である、と考えてもらえれば一番早いだろう。


 ゆえにアントンは、宮中伯全ての頂点に立つ存在だ。

 宮廷に存在する宮中伯は、決してアントンに逆らうことができない、という立場にある。

 やりようによっては、不正や横領を見逃す形で、アントンの懐はどれほどでも潤すことができるだろう。それだけの権力を持っているし、監査官であるアントンは皇帝による命令すら拒否する権限も持っているのだ。

 だが――アントン・レイルノートという男は。

 むしろ、レイルノート家という、宮中侯の一族は。


 途轍もなく、真面目な者ばかりだった。


 元々監査官である宮中侯は、政治の根幹に関わることをしない。

 むしろ彼らの立場からすれば、政治を外から睥睨する形で、そこに不正などを見出した際に、すぐに動くことができる立場を保つべきなのだ。

 だが、アントン自身の清廉な性格、それに卓越した政治手腕を、前帝であるディールは惜しく思った。

 だからこそ例外的に、ディールの一声により、アントンは宮中侯にして宰相という立場になった。なってしまった。

 迷惑極まりない抜擢だったが、それだけアントンはディールに信頼されており、そして他の貴族は信頼されていなかったのである。


「……ふぅ」


 渡された報告書に目を通し、アントンは大きく溜息を吐く。

 ひとまず現状、特に不正が目立つ部署はない。日中は宰相としての仕事をこなしながら、日が暮れると共に監査官の仕事を行っているアントンは、仕事に忙殺される毎日を送っていた。

 これも明日の帝国の礎となるため、と己を鼓舞しながら、しかし寄る年波には勝てぬ、とばかりに目を擦る。


 最近は、本当に毎日忙しい。

 現帝であるファルマスの即位から、まともに休んだ記憶があるのはいつ以来だろうか、とさえ思えるほどだ。

 それも宰相としての仕事や監査官としての仕事ゆえ、というわけではない。

 まだ若い皇帝を利用しようとする輩との、裏での争いだ。

 相国――アブラハム・ノルドルンド侯爵。

 ファルマスの即位から、すぐに新たな地位、相国に抜擢された男だ。

 彼は皇帝に対する忠誠など持ち得ず、ただファルマスを利用して己の懐を満たすことだけに執心している。それが誰の目にも明らかだというのに、彼を止められる者がいないのだ。

 それは立場として、彼が宰相であるアントンと並ぶ最高位にいるからこそ。


「だが……」


 ファルマスは、愚帝の典型のような存在だ。

 臣下の諫言には耳を傾けず、ただ甘い言葉ばかりを言ってくる奸臣を重用している。政治に興味を持たず、朝議にすら出席せず、怠惰な毎日を送っている、というのが噂に高い。行動を諌めるアントンを毛嫌いし、ファルマスの行動全てを肯定するノルドルンドを重用しているのが、その大きな証拠だ。

 このままでは、国は滅ぶだろう――そう思えるほどに、ノルドルンドは宮廷を専横していた。


 だが。

 アントンは、奇妙な違和感を覚えていた。


「……おかしい」


 本来、そのような愚帝が頂点に立ち、奸臣が専横するようになった国は、長くない。

 民の怨嗟の声に耳を傾けることなく、ただ享楽に耽るような国が、長く続くわけがないだろう。

 だが。

 そんな愚帝であるファルマスが即位して、現在で一年。


 アントンの耳に、民の怨嗟の声は、届いていないのだ。


 現在も国に何一つ問題はなく、帝都の中央通りなどは今日も活気付いている。

 アルメダ皇国、三国連合、リファール王国という三つの国と諍いがありながら、その国防の要は何一つ突破されていない。

 この状況は、奇跡とさえ呼んでいいだろう。


「一体、どういうことなのだ……」


 そして何より、宮廷における力関係が、この最近で大きく動いている。

 元々ノルドルンドは、相当に手を回していたのだろう。ファルマスの即位と共に、宮廷で働く貴族の八割は、彼に阿った。宮中の誰一人ノルドルンドを止められない――そう思えるほどに、強い勢力を築いていたのだ。

 だというのに、現在はノルドルンドとアントンの力関係は、五分に戻っている。

 アントンの発言力が存在する限り、ノルドルンドの懐を満たすためだけの政策は、決して通しはしない。逆にアントンがノルドルンドを失脚させるよう動いても、彼の力が存在する以上叶わない。

 そんな、絶妙な均衡を、保っているのだ。


 その、最大の理由が――アントンの娘、ヘレナである。


「儂が、間違っているのか……?」


 先日行われた、前帝ディールの一周忌の式典と懇親の夜会。

 そこに正妃としての扱いで現れたのが、ヘレナだった。


 元々、アントンは目論見があってヘレナを後宮に入れたわけではない。

 後宮における力関係は、表の宮廷にも少なからず影響を与えるのだ。だからこそ、ノルドルンドの専横を抑えるための一助として、アントンはヘレナを後宮へ送り込んだ。せめて後宮での、相国派の拡大を防ぐために、というだけだ。

 だというのにヘレナは、アントンの予想を遥かに超えて、唯一ファルマスの寵愛を得る立場となった。


 これが、本当に偶然なのだろうか。

 思えば、奇妙なことばかりだ。

 新帝への即位が行われながらも、『偶然』大きな混乱は起きず。

 三正面作戦という異常な事態でありながらも、『偶然』国防には何も問題なく。

 奸臣が宮廷を横行しているというのに、『偶然』大きな政治の混乱はなく。

 ファルマスがヘレナを寵愛することで、『偶然』宮廷の力関係の均衡は保たれ。

 ノルドルンドが己の懐を満たすためだけの政策を押し出しているというのに、『偶然』民への影響はない。


 ここまで重なってしまうと、最早偶然などという言葉では片付けられないだろう。


 ヘレナならば何かを知っているかと思って尋ねてみたが、しかし強く拒絶された。

 だが逆に、そのようなヘレナの態度は、アントンを確信させた。


 ヘレナは頭が悪い。

 決して馬鹿というわけではないのだが、難しいことになるとすぐに考えることをやめるのだ。これはヘレナのみならず、長男であるリクハルド、次女のアルベラ、三女のリリス全員に共通することだ。

 恐らく諸悪の根源はアントンの妻であった、レイラである。


 そんなヘレナが、皇帝の考えについて尋ねたアントンの言葉を、拒絶した。

 知らないならば、あっさり知らないと答えるだろう。

 だが口を噤んだということは、それはヘレナが説明しにくい事態だから、ということだ。

 考えることを拒否する悪癖は、つまり『考えなければならない状況』なのだということを如実に教えてくれる。


「はぁ……」


 ファルマスの考えは分からない。敢えて愚帝を演じている、という可能性も考えたが、それに何の意味があるというのか。少なくとも、ただ愚帝を演じるだけでは、政治に混乱を与えるだけで終わりだ。

 だが、もしも、アントンの考えが正しいというなら。

 ファルマスという男は。


 宮廷における力関係の全てを理解し、その上で民に被害が出ないよう立ち回り、国防にも影響を与えないよう手を回している――。


 誰が、そのような真似をできるというのか。

 宮廷に勤めて長いアントンにとっても、宮廷の力関係は魔窟である。ノルドルンドの専横を抑えるために立ち回ってはいるが、それを外側の立場から操ることなどできるまい。

 それができるならば――どれほどの、天才だというのか。


「……儂も考えることをやめたいな」


 アントンの妻であったレイラも、すぐに考えることをやめてしまう女だった。

 何度か諌めたことがあるが、「とりあえず難しいことは殴ってから考えるからちょっと待て」と言われたことすらある。

 アントンが仕事上、女郎屋への監査に行ったときなどは酷かった。

 監査官として行わねばならないあれこれについて説明し、その上で仕方なかったことなのだ、と理解を求めた。だが、結局最終的には「とりあえず殴る」に落ち着いたのだ。

 そんなレイラによく似た、自分の子供達を思うと、ふっと笑みが浮かぶ。


「いかんいかん」


 斜めに傾いていた思考を、元に戻す。

 まだまだ仕事は多く、ぼうっとしていれば夜中までかかってしまうだろう。

 頭を掻き、それから、自分の手櫛についた抜けた髪を見ながら、嘆息。

 最近は心労が多いからか、めっきり抜け毛が多くなってしまった。

 育毛に良い、という香料も買ったのだが、全く効いている気がしない。

 その理由の、大半を占めているのが。


「……何故四人も子がいながらにして、儂の仕事を継ぐ者がおらんのだ」


 真剣に、養子を取るべきなのか悩む。

 長男は戦争馬鹿で、長女は訓練馬鹿。次女は剣術馬鹿で、三女は格闘馬鹿。


 長男リクハルドはろくに帰ってこず、気がつけばガングレイヴ帝国の武の頂点たる八大将軍の一人、『黒烏将』になっていた。

 長女ヘレナは二十八にもなりながら結婚せず、後宮に入れれば入れたで皇帝の寵愛を得ているという謎。

 次女アルベラはガングレイヴ帝国東の国防の要、とさえ言えるアロー伯爵家嫡男の妻。

 三女リリスはガングレイヴ帝国の西にあるガルランド王国の第二王子の妻。


 どこにも、アントンの跡継ぎはいない。


「……はぁ」


 アントンは大きく嘆息し、そして抜け落ちた自分の髪の毛を見ながら。

 とりあえず、出入りの商人に別の育毛剤を頼んでみよう、と決意して、改めて仕事に戻った。

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