第87話 閑話:『月天姫』の不満

「あああああああっ! もうっ! むかつきますのーっ!」


 シャルロッテ・エインズワースは、後宮において与えられた部屋ーー『月天姫』の部屋で、思い切り侍女へと枕を投げつけた。

 社交界の美姫、と称されたシャルロッテは、その美しさで他に追随する者がいない。少なくとも見た目だけで、『陽天姫』ヘレナ・レイルノート、『星天姫』マリエル・リヴィエールの二人と共に並べられたら、十人中十人が最も美しいのはシャルロッテだ、と言うだろう。

 だからこそ、エインズワース伯爵家の妾腹として産まれながら、貴族令嬢としての嗜みを学んだ。それはエインズワース伯爵家の当主であるフィリップ・エインズワースが、シャルロッテに利用価値を見出したからだ。

 美しさというのは、貴族令嬢としての何よりの武器である。


 元より貴族として生まれた女は、家のために婚姻を結ぶのが当然だ。

 より身分が上の貴族と結べば、それだけ発言力も増すし、家の力も増す。そして、そのために必要なのは何より美しさであるのだ。

 だからこそシャルロッテはエインズワース家で大事に育てられ、いずれ家の力を増すために、と礼儀作法や貴族としての振る舞いを教わってきたのだ。

 とはいえ、シャルロッテも決して、男ならば誰でもいい、というわけではない。

 一般的な女性がそうであるように、醜男よりも美男子の方が好きなのは当然である。

 将来的に、豚のような公爵やその子息に嫁ぐのだ、と考えながら溜息を吐いた日々もあるのだ。


 そんな折に、彼女に後宮入りの話が来た。

 シャルロッテは自分が美しいことを知っている。それに加えて、縁戚であるノルドルンド侯爵の力により、正妃に最も近い、とされる三天姫の一人となることができた。どう考えても、皇帝であるファルマスの寵愛は、シャルロッテのものだったのだ。


「しゃ、シャルロッテ様、落ち着いてくださいませ」


「こんなの! 落ち着いていられませんの!」


 あああああっ、と叫びながら、怒りに満ちた眼差しで、壁の向こうを睨みつける。

 そこは、『陽天姫』ヘレナ・レイルノートの部屋。

 今は不在であるために、このようにシャルロッテが叫ぶ声は、彼女に届いていない。


 シャルロッテにしてみればヘレナは、突然現れて皇帝の寵愛を掻っ攫っていった、大敵である。

 元々シャルロッテが後宮に入ったとき、三天姫はシャルロッテしかいなかった。だからこそ、その身分を笠に着て、好き勝手に振舞っていた。

 次に現れた『星天姫』マリエルも、シャルロッテにしてみれば大した敵ではなかった。

 財力にこそ優れるリヴィエール家ではあるが、財力など後宮では関係ない。後宮において何より必要なのは、皇帝の寵愛を得るための美しさなのだから。

 だからこそシャルロッテは、マリエルの元に一度たりともファルマスが訪れていない、という報告を、自分のところにも来ていない、ということを棚に上げて嘲笑した。所詮はその程度なのだ、と見下したほどだ。自分のところにも来ていない、という事実はさて置いて。


 だが――『陽天姫』ヘレナ。

 彼女の元に、ファルマスは入宮したその日に、訪れたのである。

 シャルロッテは、衝撃すら感じた。

 何故自分のもとに来てくれないファルマスが、あのような年増の部屋を訪れるのか、と。


「大体っ! 今日出席しているのがあの女だなんて許せませんの!」


「しゃ、シャルロッテ様……」


「あああああああっ! もうっ!」


 侍女の淹れた紅茶を、カップごと床に叩き落とす。

 もう、当たれる相手ならば何でも良かった。苛々が収まるならば、何にでも当たった。


 今日――宮廷では、前帝ディールの一周忌が行われているのだ。


 ファルマスが正妃として共に出席するよう求めた相手は、ヘレナ。

 これは、対外的にファルマスが、ヘレナを正妃として認めた事実になるのだ。

 いつ正式に正妃として発表されるのかは分からないが、もうシャルロッテが寵愛を得て、正妃となる未来は閉ざされたに等しい。

 加えて、ファルマスが正妃を迎え、後宮が解体されて後は、既に傷物として扱われる。

 事実はどうあれ、皇帝の手垢がついた、と判断されたら、それで終わりだ。

 最早、シャルロッテの未来すら閉ざされてしまった、とさえ考えていい。


「わたくしは! これからどうすればいいのっ!」


「あ、あの、シャルロッテ様……」


「何ですのっ!」


「素直に……『陽天姫』様に阿るのは……」


「くっ……!」


 後宮を解体されれば、そこにいる女は厄介払いされる。

 だが、そこに抜け道は、あるのだ。

 それは、選ばれた正妃に近しい側室に与えられる、特別な立場。


 後宮の解体後も、正室である正妃のみならず、側室として立場を保たれ続けること。


 そのために必要なのは、正妃を選ぶ前の、皇帝からの寵愛だ。

 これは現状、厳しいと言わざるをえない。

 既にシャルロッテが後宮に入って、一年弱が経過しているというのに、一度たりともファルマスは訪れていない。

 そしてファルマスが正妃を選ぶまでの間に、シャルロッテの部屋へ訪れるとは、全く思えない。

 だが、そこにある抜け道はもう一つ。

 これは皇帝の寵愛も何一つ関係がない、正妃自身が決めること。


 それは――皇帝の和子を育てる、乳母という役割だ。


 この立場になるためには、皇帝の和子を正妃が身篭ると共に、自身も身篭らねばならない。だが、同時にそのように身篭り、かつ正妃と親しい立場にいれば、皇帝の乳母という特権階級を得ることができるのだ。

 だからこそ、シャルロッテに阿る側室が多くいたのだ。将来的に、自分たちの中から乳母を選出して欲しい、という欲望があったゆえに。

 だが。


「そんなの嫌ですの!」


「シャルロッテ様……」


「今更、どのような顔であの女に阿れと言いますの!」


 シャルロッテとヘレナは、最早相容れない水と油のようなものだ。

 そして、シャルロッテは何度となくヘレナを挑発し、罵声を放ってきたのだ。今更、掌を返してヘレナに阿るほど、シャルロッテの面の皮は厚くない。


 と――そこで、こんこん、と扉が叩かれた。


「誰ですの!」


「しょ、少々お待ちください、シャルロッテ様!」


 侍女が、部屋の向こうを訪れた誰かの元へ向かう。

 そして、戻ってきたのは少し席を外していた、別の侍女だった。


「失礼いたします、シャルロッテ様」


「何ですの!」


「ノルドルンド相国閣下、及びフィリップご当主様より、預かり物がございます」


「はぁ……?」


 侍女がそう言いながら差し出す、黒い布に包まれた小さなそれ。

 シャルロッテはそれを受け取り、包みを開く。


 そこにあったのは――小瓶だった。


「これは……何ですの?」


「ノルドルンド相国閣下より、言伝がございます」


「言いなさい」


「は……」


 侍女は軽く周囲を見回し、そこにいるのが信頼できる侍女ばかりだ、ということを確認する。

 部屋付きの女官が普段は一人いるが、どうやら式典と夜会に駆り出されているのだろう。

そして、侍女は口を開く。


「それは……毒薬にございます」


「毒……!?」


「一滴で、牛を殺せる代物にございます。これを用い……『陽天姫』を殺せ、との仰せです」


「な……!」


 シャルロッテは、その手に預けられた小瓶。

 それを見ながら。


 震えつつ、薄笑いを浮かべた――。

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