第85話 宰相の疑念と夜会の終わり

 ファルマスと二人、完璧な舞踏を見せて、ようやく音楽が終わる。

 結局最後まで人の目に晒されながら、必死にヘレナは足を動かし、観衆には優雅にダンスを踊っているかのように見せた。実際のところは心の底からいっぱいいっぱいだった現実だが、そう見えないのはヘレナの無表情ゆえである。

 もう後宮の部屋に戻って、泥のように眠りたい――そう思える、ひどい疲労感が全身を襲っていた。


「では諸君、これにてお開きとする! 此度は我が父の一周忌の式典、ならびに懇親の夜会に参加してくれたことを、感謝する!」


 ファルマスのそんな宣言で、夜会は終了である。

 だが、ヘレナはそう簡単に退出することはできない。

 皇帝であるファルマスと、対外的には正妃であるヘレナは、最後まで退出することはできないのだ。

 これはルクレツィアにも言われた教えで、『出場は一番最初、退出は一番最後』という謎の慣習である。


 出てゆく貴族たちを見つめながら、心の中だけで溜息を吐く。

 何一つ食事はしていないが、しかし空腹感はない。むしろ、吐き気の方が激しいだろう。今は何も食べたくない。


「ヘレナよ、ご苦労だった」


「……いえ。ファルマス様こそ、お疲れ様です」


「気丈に振る舞うな。余には弱いところを見せても良いぞ」


「いえ……それは」


「普段、このような夜会には参加せぬそなたのことだ。今日の疲れは重かろう」


 どうやら、ファルマスはヘレナの疲れをよく分かっているらしい。

 だったら最初からこんな式典、夜会に出ることを強要するな、と言いたいところだが、それはファルマスの思惑があるからだろう。

 そこに口を挟み、ファルマスの計画に齟齬をきたしてもいけない。


「……ふむ」


「あ、あの……?」


「アントンよ」


 ヘレナの顔を暫し見てから、ファルマスはそう近くにいたアントンを呼びつける。

 さすがに皇帝の言葉であるため、割と素早く、アントンはファルマスへ近付いた。


「お呼びでしょうか、陛下」


「我が寵姫であるヘレナだが、少々疲れたようだ。余は今しばらくこの場を離れることができぬ。アントン、貴公が我が寵姫を、後宮の入り口まで送れ。以降は女官長であるイザベルに任せればよい」


「は。御心のままに」


 ファルマスのそんな言葉に、頷くアントン。

 一体どういうことなのだろう、と疑問に思ったが、どうやらファルマスがヘレナの疲れを察して、先に帰らせてくれるようだ。

 その気遣いは、素直にありがたい。


「で、では、ファルマス様」


「先に戻れ。今宵はそなたの部屋へは行かぬゆえ、ゆっくりと体を休めるがよい」


「承知いたしました。ありがとうございます」


 しかも今夜はファルマスが来ない。

 ようやく、ゆっくりと休める時間が訪れる、ということか――。


「ではヘレナ、行くぞ」


「……はい」


 アントンと共に、大広間を退出する。

 本来ならばファルマスと共に待たねばならないのだろうけれど、アントンという身内と共に退出することで、大義名分を得た、といったところだろうか。

 もう難しいことを何も考えたくない頭は、完全に思考を放棄する。とりあえず帰れる。それでいいだろう。


「ヘレナよ」


「……はい」


 考え事したくないんだから黙ってろ。そう言いたくなるがやめておく。

 さすがに実の父とはいえ、ただ呼ばれただけでそう言うのは、どう考えても八つ当たりに過ぎないのだ。


「一つ、聞かせて欲しい」


「……何でしょうか」


「お前から見て陛下は……ファルマス皇帝陛下は、どのような人物だ?」


「……」


 アントンは、真剣な表情でそう尋ねる。

 だが、その質問はヘレナにも答えにくいものだ。

 ヘレナが下手なことを言って、それがファルマスの計画に差し障る可能性もある。

 アントンはヘレナの父だが、同時に宮廷における最高位である宰相なのだ。


「儂は、陛下を愚かな皇帝だと思っておった」


「……そうですか」


「ノルドルンドのような奸臣の専横を許し、政治に興味など持たず、妹御の暴走も止めず、宮廷を乱す愚かな皇帝だと思っていた。そして、恐らく宮廷にいる誰もが陛下のことをそう考えているだろう」


「……」


 改めてそう聞くと、ファルマスがいかに慕われていないかよく分かる。

 まさに、名前だけの皇帝、という評価が正しいのだろう。

 それを利用するノルドルンドと、矯正しようとするアントンは、その考え方が大きく違うのだろうけれど。


「ヘレナよ……お前は、どう考える。陛下は、本当に儂の思っているような人物なのだろうか」


「……」


「何故ヘレナを寵愛しているのか、それが分からなかった。そもそも、陛下がヘレナを寵愛している、という噂が流れることで、ノルドルンドの専横を抑える一助になった。これは……偶然なのか?」


「……」


 ヘレナは答えない。

 答えることも面倒臭い。

 さっさと帰りたい。


「ヘレナ」


「……父上、この先は後宮です」


 アントンと共にやってきた、後宮の入り口。

 ここから先は男子禁制、美しき女のみの集った園――後宮。

 例えヘレナの父であれど、ここから先に入ることはできない。


「ヘレナ!」


「また何かの機会がありましたら、お会いしましょう」


 疑念を抱かれるわけにはいかない。

 アントンが清廉な政治家だといえ、表の宮廷で知っている者を増やすというのは愚策だ。作戦とは、その内容を知る者が少なければ少ないほど、その内容が漏洩しないのだから。

 まだヘレナの背中に話しかけてくるアントンを無視して、ヘレナは後宮の奥へと入る。


 その最奥――己の部屋へ。


「お帰りなさいませ、ヘレナ様」


「……アレクシア」


「まずはお食事にされますか? それとも、湯浴みをされますか?」


 ずっと、ヘレナが帰ってくるまで、ここで待っていてくれたのだろう。

 侍女を連れていないヘレナが、後宮で最も信用できる女官――アレクシア。

 ヘレナは、そんないつも通りの笑顔に、安心して。


「すまない、アレクシア……」


「はい?」


 一歩、二歩、三歩、とヘレナは部屋の中に入り、後ろ手に扉を閉めて。

 それから、アレクシアへと――体を預けた。


「へ、ヘレナ様!?」


「ああ……」


「重……い、いえ、そうではなく! どうされたのですか!?」


 なんだか失礼な呟きが聞こえた気がしたが、華麗に無視する。

 そのような瑣末なことを、考えている余裕などない。


「つか、れた……」


「は、はい? お、お疲れ様です、ヘレナ様」


「……」


 食事も湯浴みも必要ない。

 ただ、今必要なのは、休息だ。

 部屋に戻った安堵感で、一気に体から力が抜けてゆく。


「ヘレナ様!」


「……」


 アレクシアには申し訳ないが、もう休ませてもらおう。

 がっしりとアレクシアを固めたままで、目を閉じる。もう、このまま眠ることができるだろう。

 あっさりと意識は手放され――しかし、武人であるがゆえに、その体は動かず。


「へ、ヘレナ様! わ、わたしにも心の準備が……!」


「……」


「い、いえ、ヘレナ様がどうしてもと仰るのでしたら、その……わ、わたしは……!」


「……すぴー」


 アレクシアをしっかりとホールドしたままでヘレナは床に倒れ。

 そして、そのまま深い眠りに入った。


「え、え、あの!? わ、わたしが何故固められているのですか!?」


 こうして。

 後宮に入って今まで、ヘレナにとって一番長い一日は、終わりを告げた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る