第80話 閑話:相国の策謀
アブラハム・ノルドルンドはガングレイヴ帝国という、大陸最大の領地を持つ大帝国において、皇帝に従う相国という地位にある。
宰相アントン・レイルノートと並んで、臣下として最高位に位置するのが彼だ。元より皇族と、皇族の縁者により構成される公爵、その次に位置する侯爵という貴族位にいる彼は、新帝ファルマスが即位する前には数多くいる大臣の一人に過ぎなかった。
前帝ディールは清廉な宰相であるアントンを厚遇し、あらゆる案件をアントンに相談していた。だからこそ、他に従う貴族たちは動きにくかったのだ。下手な横領や脱税を目敏く発見し、そして法に則った裁きを行うアントンは、まさに帝国を意のままにしたい他の貴族からすれば、目の上の瘤に他ならなかった。
だが、アントンを主に信頼していたのは、前帝ディールである。
そんな前帝は四十に満たない、早すぎる崩御を迎えてしまった。
勿論、それは偶然などではない。
ノルドルンドは宮廷の影で暗躍し、皇族へ提供する料理番へ、己の手の者を送り込んだのだ。そして弱い毒を少しずつ混ぜ、傍目には病死として違和感がないように、ディールを死に追いやった。
ディールが存命である限り、アントンを重用し続けるだろう。
だからこそ、ノルドルンドの手によるものだと知られぬよう、ディールを亡き者とする必要があったのだ。
そして宮医にもノルドルンドの手の者を送り込み、ディールは無事に病死と判断された。
そこからファルマス新帝の即位までに、ノルドルンドは動いた。
新たな地位――相国を作り、そこに自分が就任できるように、あらゆる関係者に手を回した。そして即位したばかりのファルマスを言葉巧みに誘導し、ノルドルンドの地位を認めさせた。
全ては、彼の掌の上で踊っている――そんな、全能感にすら支配された。
新帝の即位から、ノルドルンドはひたすらに勢力を集めた。
宮廷を二分する派閥においては、相国派が一時は圧倒的に勝っていたほどだ。特に日和見を続け、どちらの派閥にも属しない中立派のほとんどを、優勢に見せて属させたのが幸いし、重要な地位を『相国派』が占めるほどに専横していた。
それが――崩れたのは、ほんの二週間前。
「ちっ……」
一周忌の式典から夜会に至る隙間の時間。
ノルドルンドは屋敷に戻り、椅子に腰掛けながら腕を組んだ。
状況は全て、ノルドルンドの掌の上で踊っていた。相国という圧倒的な地位に就き、同格にある宰相をも鎧袖一触する、それだけの勢力がノルドルンドには存在したのだ。
それを崩したのは、後宮。
宰相アントン・レイルノートの娘――『陽天姫』ヘレナ・レイルノート。
ファルマスがヘレナを寵愛している、という話が流れてから現在まで、相国派の貴族は減少の一方を辿っている。
正妃という圧倒的な地位は、それだけ貴族にしてみれば垂涎の代物なのだ。
その地位に存在するのが、宰相であるアントンの娘なのだというのだ。そのような状況は、そもそも時勢を見てノルドルンドに傾いた者を、掻っ攫うだけの価値があった。
だからこそ現在、アントンとノルドルンドはほぼ五分の勢力を保っている。
「邪魔だな」
「どなたでしょうか?」
「決まっておろう。アントンの娘だ」
寵愛している、という噂が流れるのはいい。
だが――ヘレナは、前帝ディールの一周忌の式典へ出たのだ。
歴史書を紐解いても、前帝の一周忌に、共に出席した者を正妃にしている場合が全てである。つまり一周忌の式典で、他国へのお披露目をする相手こそが、当代皇帝の正妃となるのだ。
その地位を狙うために、縁戚の中でも美姫と評判のシャルロッテを後宮に入れたというのに。
「まさか、あのような年増を陛下が好むとは……誤算だったな」
この場にいるのは、ノルドルンド。そしてもう一人ーーノルドルンドの腹心であり親友である貴族。
シャルロッテの父でもある、エインズワース伯爵家当主、フィリップ・エインズワースである。
ノルドルンドの策謀を全て知っている、唯一の人物。それゆえに、ノルドルンドはフィリップを信用しており、そして共に甘い蜜を吸うための策謀を練っているのだ。
「陛下が年上好きと分かっていれば、シャルロッテなど入れなかったものを」
「ああ。縁戚に嫁き遅れは数人おる」
「どうなさるのですか?」
「決まっている。殺すしかあるまい」
「ふむ……」
フィリップはノルドルンドの言葉に、顎髭を撫でる。
確かに殺すことが出来たなら、それが最善だ。寵姫であるヘレナを失えば、ファルマスも他の姫のもとへと向かうかもしれない。そうなれば、アントンの勢力は一変するだろう。
そして、新たに選ばれた正妃候補がノルドルンドの縁戚であれば、またノルドルンドの勢力は拡大することとなる。
「ですが……」
「分かっておる。ヘレナ・レイルノートは武人だ。情報によれば、かの八大将軍にも及ぶ武力を持つそうだ」
「さすがに、それほどの武を持つ者はおりませんなぁ」
「部屋に送り込んだ斥候が殺された、という報告も聞いておる。気配の察知にも優れておる以上、暗殺は見込むことができまい」
「なるほど……」
ファルマスは愚かな皇帝だ。
ろくに政務に口を挟まなければ、政務について重要な話をしている朝議にもほぼ参加しない。
最近はグレーディアが何やら茶々を入れているのか、提案した政策を断られることも多いが、ノルドルンドが厚遇されているのは間違いなく、基本的には任せてくれている。
だが、正妃の選び方に限っては、完全に予想外の行動だ。
まず、武人であり将軍にも匹敵する強さを持つヘレナを、正面から殺すことは難しい。
暗殺者を送り込もうにも、気配の察知に優れ、そして斥候が発見されたことにより警備の騎士団が配属されたために、送り込むのも難しくなった。
そして何より、毎日後宮にいるために、侵入することも難しく、害することは更に難しい。
「では、どうなさるので?」
「シャルロッテの侍女に、毒を持たせよ」
「……なるほど、それしかありませんな」
正面から殺すことができないならば、致死量の毒を飲ませるしか、手はないだろう。
そして、ノルドルンドの持つ後宮への伝は、シャルロッテを含む数名だけだ。その中でヘレナに近付くことができるのは、シャルロッテくらいだろう。
「しかし、確実にシャルロッテの仕業だとは分かりますね」
「それがどうした」
「……一応、あれも我が娘でありますから。それに、家名も汚れましょう」
「所詮、妾の子であろう。美姫であるがゆえに利用価値があったが、陛下が年上好きである以上、あやつはもう必要ない。薄汚い平民との間に産まれた子であるがゆえに、このような凶行に至ったのだ、とでも言っておけばよかろう」
「なるほど……」
フィリップがやや渋面を見せるが、しかし嘆息と共にかき消す。
貴族にとって、娘など家と家を繋ぐための道具に過ぎない。それが妾腹であれば、尚更のことだ。
「シャルロッテに毒を持たせ、アントンの娘を殺させる。その後、あやつが自害をすれば、後宮における女同士の諍い、ということで結論が出よう」
「なるほど。しかし、どこから毒を手に入れた、となさいますか?」
「宮医に一人、要らぬ者がおる。そやつを捕縛させれば良かろう。毒に最も優れているのは、医者に他ならぬ」
「承知いたしました」
貴族であるがゆえに、その命は軽い。
家のために、金のために、そのために死ぬのが貴族の道具なのだ。
そしてフィリップは、これ以上ないほどに貴族なのである。
「毒は、何重にも密売人を重ねてから受け取れ。決して我らの仕業だと分からぬようにな」
「は。アブラハム様」
「では任せたぞ、フィリップよ」
「は。それでは、私はそろそろ夜会の準備をしてまいります」
「うむ」
くくっ、とノルドルンドが笑み、そしてフィリップが退室する。
ただ二人の貴族の策謀は、他に誰も知らない。
それが、ノルドルンドの後継者である長子でさえも。
「ふん」
だが、ノルドルンドはそんなフィリップの退室していった扉を見ながら、そう鼻を鳴らした。
まるで、見下すように、その瞳に冷たいものを輝かせながら。
「やはりあやつは馬鹿よの。正妃を殺した家が、存続するものか。シャルロッテが行動を起こしたそのときには、フィリップにも死んでもらうとしよう」
アブラハム・ノルドルンド。
その男はこれ以上ない貴族である。それゆえに、己を除くあらゆるものを道具だと考えている。
彼にとって、伯爵家であれ何であれ。
それがファルマスという帝国で最も偉大なる皇帝でさえ、ノルドルンドの道具に過ぎないのだ。
それが誰の掌の上なのか知らず、相国は舞台で踊る――。
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