第61話 皇太后の憂慮と脳筋の思考放棄

 ルクレツィアは分かりやすいほどの怒りを目に浮かばせて、そして、信じられない、とばかりにヘレナを見た。

 嘘を吐いたわけではない。実際、ファルマスは昨日の夜、ヘレナの部屋ではなくフランソワの部屋を訪れているのだ。フランソワ曰く、バルトロメイとの縁談についての約束を交わしただけらしく、そこに色気は欠片もない、ということらしいが。


「……本当に?」


「はい。昨夜、陛下は私の友人の部屋へお渡りになられたとか」


「……しかも、友人?」


 ルクレツィアの表情が、次第に険しいものへと変わってゆく。

 詳しく説明をする必要があるかもしれない、と考えて、しかしヘレナは眉を寄せた。

 ファルマスが愚帝を演じていることを、ルクレツィアは知らない。ルクレツィアにその事実を教えていない、という理由までは分からないが、現在のところ事実を知っているのはヘレナだけだ。

 後宮の解体後における、側室の扱いについてを話に行っていたのだ、と説明したところで、ファルマスの現状を知らなければ納得がいかないだろう。


「え、ええと……ルクレツィア様」


「……何かしら」


「陛下には、陛下のお考えがあるのだと、私は考えております。昨夜のお渡りにつきましても、陛下の事情が……」


「お黙りなさい」


 ルクレツィアが、そう鋭くヘレナを見据える。

 物腰柔らかく、いつも微笑んでいるルクレツィアとは思えないほどに、鋭い眼差しと厳しい言葉。

 あまりの落差に、思わずヘレナは言葉を失う。


「ファルマスは昨夜、ヘレナちゃんの友人の部屋を訪れたのね」


「……は、はい」


「ヘレナちゃんには申し訳ないのだけれど、私は今、心底失望しているわ」


「……え」


 そんなにも、ルクレツィアを失望させるような真似を、ファルマスがしたというのだろうか。

 しかし、既成事実はないのだ。ファルマスがフランソワへ手を出したわけでもあるまいし、別段責めるようなことではないだろう。もとよりここは後宮であり、全員がファルマスの妻であるようなものだ。その選択に口を挟める者など、誰もいない。

 だが、ルクレツィアは首を振る。


「今、あの子を取り巻いている政治的な情勢が、どうなのかは知っているかしら、ヘレナちゃん」


「い、いえ……詳しくは」


「今の宮廷は魔窟よ。宰相であるアントンと、相国であるノルドルンドが宮廷における権力を二分している状態なの。少し前までは、ノルドルンド侯爵の勢力が強かったらしいのだけれど、現在は五分らしいわ」


「はぁ……」


 大体、ファルマスから聞いた話と一致する。

 元々、ファルマスがヘレナを寵愛する姿勢を見せるのも、アントンの発言力を高める、という目的があってのことだ。ファルマスの考えが功を奏したからこそ、そのように五分の状況に持ち込めているのだろう。

 ヘレナからすれば、だから何が変わるのかさっぱり理解できない。


「五分に戻すことのできた何よりの切っ掛けは、ヘレナちゃんなのよ」


「詳しくは存じておりませんが……陛下が私を寵愛している、という噂が表で流れている、とか」


「そう。だからこそ、アントンの発言力が上がったのよ。派閥もほぼ五分と言っていいわ。ファルマスが意図したものではなくとも、この状況が続く限り、民にそこまで大きな変化はないはずよ」


「……」


 意図しているものなのだ、と声を大にして言いたいが、やめておく。

 ルクレツィアにも隠している理由は分からないが、わざわざ藪を突ついて蛇を出す必要もあるまい。ファルマスの意図は分からずとも、ファルマスに不利益となるような真似をするわけにはいかない。


 だからこそ、というわけではないが、ヘレナは口を噤む。

 下手なことを言って、ファルマスの秘密を漏らすわけにもいかないからだ。ついでに、何か変なことを口走れば、ヘレナが実は特に何も考えていない、ということが露呈するかもしれないし。


「そんな状況で、ヘレナちゃん以外の側室を寵愛し始めた、という噂でも流れたら、どう政治的に利用されるか分かったものではないわ。その側室の親族が、アントンの派閥にいても同じことよ。どちらかが力を持ってしまうと、それだけ政治は混乱してしまうの。適度にお互いがお互いを牽制できるくらいの均衡が、現状では一番ね」


「……」


「もう少しファルマスの成長を待って、権力が分散してしまっている現状はどうにかしなきゃいけないとは思うけれど。帝政の国でありながら、今のファルマスは何の権力も持たないお飾りに過ぎないわ」


 そういえば、最近温かいものを食べていないな、とふと思う。


 戦場ではいつも、戦友たちと鍋を囲んでいた。大量に作ることで野菜や肉の出汁が出てくれて、全体的に美味しくなるのだ。

 一人分の食事を作っては、あの味は出せないだろう。


「それに、アントン自身は清廉な政治家だけれど、その下にいる派閥も全員がそうというわけではないわ。中にはノルドルンドと変わらないくらい、自分の利益しか考えていない者もいるわ。それこそ、昨夜渡ったとされる側室の親族を筆頭として、国母に相応しいのは我が娘、だなんて騒ぎ立てるかもしれないわ。ノルドルンドにこの情報が回っていないといいけど……」


「……」


 そういえばキッチンはあるわけだし、そこで茶を沸かすことはできる。つまり、小さな鍋くらいなら作れるということだ。

 材料などを後宮の料理番から分けてもらい、ヘレナ自ら作れば、そこに毒味の必要はないだろう。つまり、温かい食事ができる、ということだ。

 分けてもらう材料は、やはり肉と魚、それに葉野菜だろう。一部の根菜も、出汁を吸って柔らかくなり美味しくなる。


 じっくりと煮込んだ出汁の旨味が満ちた肉を思い出し、思わずごくり、と唾を飲み込む。


「……」


「そう……もう、ノルドルンドには情報が渡ってしまっているのね。だったら、せめて水面下でそれを止めなきゃいけないわ。まったく……私の仕事なんて、もうないと思っていたのに……厄介な息子ね」


「……」


 やはり鍋は人数を揃えて囲んでこそ美味しいものだ。

 ということは、アレクシアは仕事が終わってから専用の食堂で食べるとのことだし、いつも冷めた食事しか提供されない側室を呼ぶほかにないだろう。

 やはり、筆頭に上がるのはフランソワだ。それにクラリッサも誘おう。これでヘレナを含めて三人。

 せめてもう一人くらいは欲しいな、と思うけれど、ヘレナが誘えそうなのはあと、『星天姫』マリエルくらいのものだ。

 金持ちの彼女に、戦場磨きのヘレナの鍋に誘うというのも、少し気が引ける。


「ありがとう、ヘレナちゃん。でも大丈夫よ。私からどうにかファルマスに働きかけてみるわ。最悪は、皇太后としての権力も使わなきゃいけないかもしれないわね……でもあまり皇帝がいる状態で、幅を利かせたくないのよね。そうなると、今度は私に阿る重臣も増えそうだし、面倒が増えるし……」


「……」


「それでは、今日のところはこれで失礼するわ。さぁ、ティファニー、戻るわよ」


「はい、皇太后陛下」


「……あ、お、お帰りになられますか」


「ええ。ちょっと、馬鹿息子を叱らなきゃいけないみたい。あまりやりたくはないのだけれどね」


 そう微笑むルクレツィアは、いつもと変わらぬ様子に思えた。

 まるで、最初に浮かべていた激怒の表情が、なかったことに感じられるかのように。


 結局ヘレナとしては、何がどうなってルクレツィアが納得し、そしてこれからどうなるのか見当もつかない。

 だが、一つだけ決定的に、ヘレナの心に楔を打った事実が、ある。


 今夜は鍋を食べよう。

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