第62話 閑話:皇太后陛下の激怒
ルクレツィア・ハインリヒ=アルベルティーナ・ガングレイヴは現ガングレイヴ帝国皇帝、ファルマスの実の母である。
元は伯爵令嬢に過ぎなかったが、前帝にして当時皇太子であったディールに見初められ、正妃となるべく教育を受けてから、ディールの帝位継承と共に正妃として君臨した。とはいえ、ディールがルクレツィアを気に入った最大の理由は、その母性溢れる優しさである。様々な夜会において、数多の令嬢から秋波を送られていたディールがルクレツィアを正妃としたのは、ルクレツィアならば次代の皇帝を育てることができる、と評されたからである。
そしてルクレツィアは正妃として振る舞うために必死に努力をし、しかし決して驕らず、慈愛溢れる態度で誰にでも接してきた。正妃としての権力も扱うことなく、ただディールを支える、というだけに尽力してきたのだ。
だが、そんなディールはルクレツィアを置いて、早すぎる崩御を迎えてしまった。
ルクレツィア以外と関係を持とうとしなかったディールの血を引いていたのは、ルクレツィアの産んだ長子であるファルマスと、その妹の二人だけだ。そしてディールの早すぎる死と共に、ファルマスには何の準備もさせずに帝位を継がせる運びとなってしまった。
帝位を継いだファルマスは、傀儡に過ぎなかった。
特に帝位について間もないファルマスを言葉巧みに騙し、政治を司るべき立場にあった宰相アントン・レイルノートと並ぶ地位である相国を作らせ、己がそこに就任したアブラハム・ノルドルンド侯爵など、まさにファルマスを名前だけの皇帝としか扱っていない。
現在も、朝議が行われる際など、ファルマスの訪れを待たずに始めるほどだ。そしてファルマスもまた、難しい政治に関してはあまり関心がないようで、そういった集まりに出席しないことが多かったのだ。
まさに、奸臣と愚帝――。
この帝国の礎すらも窮地となりえる状況において、唯一の清廉たる者は宰相アントンのみであった。
「まったく……」
後宮を出て、ルクレツィアは宮廷へと急いだ。
普段、ルクレツィアは政治に口を出すべきではない、と離れの宮に住んでいる。気心の知れた使用人数名と、日々の無聊を慰めながら生きている、とさえ言っていい。
その最大の理由こそ、ルクレツィアの信念――『女が政治に口を出すべきではない』という考えあってのものだ。
歴史を紐解いてみても、妃や皇太后が権力を持って、好転した例はない。
ルクレツィアが知らないだけなのかもしれないが、大抵の場合は色欲に狂った皇帝と、己の欲望を満たすためだけの女による、政治の混乱が訪れるものばかりだ。だからこそ、ルクレツィアは皇太后という立場にありながら、ファルマスに何も言わなかった。ある意味、自分の息子であるファルマスを過大評価していたのかもしれないが、この程度の窮地ならば乗り切ってくれるだろう、という確信もあったのだ。
だが――今回に限っては、違う。
ファルマスは、最悪の一手を差してしまったのだ。それを止めることができるのは、ルクレツィアを除いて他にいない。
ヘレナは、ルクレツィアから見て、理想の娘だった。
二十八という年齢は少々行き過ぎではあるが、ファルマスはそもそも年上好きであるため何も問題はない。しかも、三十が近くなりながらにして、若々しい美貌と均整の取れた体つきを保っている女など、そうはいるまい。
加えて、武人であり八大将軍に匹敵する武力を持ち、戦場では一番槍として突撃を行う指揮能力も持っている。つまりそれだけ、軍略にも優れるということだ。
そして知識というのは全てに通じ、軍略にも優れる彼女ならば、学問にも優れているだろう。それだけの知略があるからこそ、軍の中で女性の身でありながら、上り詰めることができたのだ。
最初は、様子見のつもりだった。
元々アントンの娘が軍に入っている、という話は聞いていたが、人間離れした逸話を多く持つレイラ将軍ほどの力はあるまい、と思っていた。そして、レイラ将軍ほどの力を持ち得るならば、正妃として扱うよりも将軍として扱った方が、国防に益を与えることになるだろう。
そのあたりを見定めるために、まずヘレナと語らった。
その結果は、合格。
アントンの娘ということで家柄も問題なく、知勇兼備の優れた女性である、ということが分かったのだ。ヘレナならば、やや頭でっかちのきらいがあるファルマスを、公私共に支えることができるだろう、と確信すら抱いた。
だからこそ、ファルマスが現在ヘレナを寵愛している、という事実は、さすが我が息子、と誇るほどだったのだが。
問題は――そんなファルマスの、昨夜の行動だ。
「おどきなさい! ファルマスは中でしょう!」
「こ、これは……る、ルクレツィア皇太后陛下!?」
「ロムルスといったかしら。私はファルマスに用があって来たのよ。おどきなさい」
「し、しかし、陛下は……」
「皇太后の私が用がある、と言っているのに、それ以上に優先すべきことがあるのかしら」
「うっ……」
ファルマスの私室へ続く、扉の前に立っていた老齢の男――グレーディア・ロムルスにそう告げる。
本当はこのように、皇太后としての立場は使いたくない。だが、今日に限っては話が別だ。使えるもの全てを使ってでも、ファルマスには物申さなければならない。
グレーディアが、中へと確認をしに行き、そしてすぐに出てきた。
「……陛下が、お会いになられるとのことです」
「ええ。入るわよ」
「は。どうぞ」
グレーディアの開いた扉から、中へと入る。
そこはファルマスの私室であり、特段何もないときは、常にここにいるはずだ。中で何をしているのかは知らない。
皇族の親子の関係など、希薄なものなのだ。
「ファルマス」
「ご無沙汰しております、母上」
ルクレツィアの来訪に、ファルマスはまずそう頭を下げた。
本来、皇帝たる者がこのように他者へと頭を下げてはならない。だが、ここは私室でありファルマスの私的な空間だ。
その中で、己の母であるルクレツィアに頭を下げることには、何の問題もないだろう。
ルクレツィアは、そんなファルマスを一瞥して。
「座らせてもらうわよ」
「どうぞ」
その部屋の中にあった、恐らく来客用のものであろう、ソファへと腰掛ける。
それと共に、ファルマスが対面するようにルクレツィアの前へと座り。
「要件は分かっているかしら?」
「……いえ、分かりません」
「ファルマス、私は先日言ったわね。ヘレナちゃんを絶対に悲しませないように、って」
「……確かに、言われましたが」
ルクレツィアは、ヘレナの孤独を知っている。
黙して語りはしなかったが、ヘレナは心に深い傷を負っているのだ。恐らく、若い頃に出会った男によって。
だからこそ、あれほどの美貌と地位を持ちながらにして、二十八の現在に至るまで結婚していないのだ。詳しいことは聞いていないけれど、ルクレツィアは、ヘレナが軍に入った要因の一つとして、その男の影があると予想している。
ヘレナが全てを捨て去らなければならないほどに、傷つけられた――そう、ルクレツィアは考えているのだ。
ゆえにルクレツィアは、ファルマスへ散々言い含めた。
決して悲しませるような真似はしてはならない、と。
決して涙を流させるような事はしてはならない、と。
それが、この男は――!
「だったらどうして、他の側室の部屋へと渡ったのかしら。それも、ヘレナちゃんの友人だそうじゃないの」
「それは……」
「しかも、ここ数日、ヘレナちゃんのもとに全く顔を出していないらしいわね。他の側室と遊んでいるのかしら?」
「い、いえ、決して、そのようなことは……」
ファルマスが、言い淀む。
言い淀むということは、そこに何らかの背徳感があるということだ。
何も含むものがないならば、堂々とその理由を言えばいい。それが言えない――つまり、ファルマスもヘレナを裏切っている、ということが分かっているのだ。
怒りに、思わず怒鳴りつけたくなる。
「てっきり、ヘレナちゃんを寵愛しているものだとばかり思っていたのだけれど」
「いえ……間違いではありません。俺はヘレナを……」
「だったらどうして、その友人の部屋へ渡るような真似をするのかしら。それでヘレナちゃんがどれだけ不安になるか、分からないの? それとも、その友人とやらがそんなにも気に入ったのかしら?」
「いえ、そんなことはありません。ですが、その……」
言いにくそうに、ファルマスは表情を歪める。
よくよく見れば、その目の下には、うっすらと隈ができているのが分かる。どことなく疲れているのか、髪型もはっきりしていない。普段、自信に溢れたファルマスの姿からすれば、違和感を覚えるほどだ。
どういうことなのだろう、とルクレツィアは目を細め。
「……あなたは、ヘレナちゃんを正妃にするつもりなのでしょう?」
「はい」
「だったら、どうして他の側室へと渡ったのかしら」
「それは……少し、伝えることがありまして。それから、聞きたいことも」
「何を伝えたのかしら。ヘレナちゃんの友人に、あなたが伝えるようなことは何もないと思うのだけれど」
「……申し訳ありませんが、それは母上の言葉であれ、答えることはできません」
丁寧ながら、しかしそのように断るファルマス。
だがファルマスの様子から考えるに、色恋沙汰ではなさそうだ。だからこそ、尚更違和感を覚えてしまう。
一体、他の側室とどのような語らいをしたというのか。
「その……母上」
「何かしら」
「先程まで、ヘレナの部屋にいたのですよね?」
「ええ。友人のもとへあなたが渡った、という話を聞いて、急いで戻ったわ」
「……ヘレナは、俺のことを、何か言っていませんでした、か?」
それは、どことなく自信なさげに。
悩みに悩んで、しかし答えが見つからないかのように。
あまりの奇妙さに、ルクレツィアは眉根を寄せる。
「……特には、何も言っていなかったけれど」
「そう、ですか……」
「ファルマス、あなた、どうしたの? 何かあったの?」
さすがに、普段と違いすぎるファルマスの様子に、思わずルクレツィアはそう尋ねた。
しかし、ファルマスは首を振る。
「分からないのです」
「分からないって、何が……?」
「俺は、ヘレナに……何かしてしまったようで。しかし、それが何なのか分からず……」
「……は?」
「嫌われて、しまったのではないかと……」
ファルマスの独白に、ルクレツィアは訳が分からず、天を仰ぐ。
ヘレナが、特にファルマスに関する何かを言ったことはない。だが、このように最も会っているのであろうファルマスが、これほど弱気になるということは、何かがあったのだろう。
これほど気落ちしているファルマスを見たことなど、他にない。
それだけ、ヘレナのことを大事に思っている、ということなのだろうか。
「何を、したの……?」
「それが、分からず……。ただ、ある日の朝から、随分とヘレナが冷たくて……」
「それは……まぁ、確実に何かやってしまっているわね」
ルクレツィアは、そんなファルマスの独白に頷く。
何もなく、ある日の朝から冷たくなる、などということはあるまい。つまり、ファルマスが何かヘレナの逆鱗に触れるような真似をした、ということだ。
そして、ファルマスはそれが何なのか分からず、このように悩んでいるのだろう。
「最も親しいと言っていた側室に、聞いてみたのです。俺がヘレナに何かしたのではないかと……しかし、その側室も、特に何も聞いていないと言って……」
「まぁ……」
ルクレツィアは、思わぬ若さを持つ自分の息子に、苦笑いしか返すことができない。
子供の頃からどこか大人びていて、全く弱みを見せようとしなかった完璧主義者のファルマスが、随分と弱気なことだ。
しかもその悩みが、「好いた女に嫌われたのではないか」ということ。
ルクレツィアは初めて、ファルマスに年相応の幼さを感じた。
「私は、特に何も聞いていないのだけれど……。何かあなたに非があるならば、謝るのが一番ではないかしら」
「ヘレナが、何に怒っているのか、分からず……」
くっ、とファルマスが、奥歯を噛みしめるのが分かる。
ルクレツィアの知るファルマスは、頭がいい。だからこそ、大抵の問題ならば、すぐに答えを導き出すことができるのだ。
そして、人に頼ることなく答えを導き出せる頭の良さがあり、そして完璧主義であるがゆえに、人に弱みを見せようとしないのだ。
特にそれが、好んでいる女性だというならば、尚更だろう。
それゆえに、本人に聞くことができない。
思った以上に大した理由でなく、ルクレツィアは溜息を吐く。
「……叱りに来たつもりだったけど、拍子抜けだわ。私からの助言は一つ。さっさと謝りなさい」
「は。ありがとうございます、母上」
毒気を抜かれて、ルクレツィアはそう立ち上がる。
ルクレツィアは知らない。
ファルマスがそのように悩んでいる、ヘレナが冷たい態度を取ったという最大の理由。
ただ、二の腕を太いと言われただけ、という事実を。
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