第60話 皇太后陛下の指導
ひとまずフランソワとの会話のズレや繋がらなさなどの誤解も解けたところで、ひとまずフランソワも自室へ戻り昼食を摂るとのことで去っていった。
結局、フランソワが隠したかったのは昨夜、ファルマスとフランソワの会話における、ヘレナのことだという。どうしても話すことはできない、と言っていたのは、何故なのだろうか。
悪口でも言っていたのだろうか、と首を傾げる。
そしてアレクシアが持ってきた冷めた昼餉を食べ、それほど汗をかいていたわけではないのだが、アレクシアに「皇太后陛下とお会いになられるのですから!」とごり押しされて湯浴みをし、ソファへ座る。
あとは、ルクレツィアの訪れを待つだけ――。
そして、扉が叩かれた。
「はい」
「女官長イザベルにございます。『陽天姫』様はいらっしゃいますか?」
「はい。いらっしゃいます」
「では失礼いたします」
対応したアレクシアとそう話して、開かれる扉。
そこにいたのは女官長イザベル、そして――皇太后ルクレツィア。
「お邪魔するわね、ヘレナちゃん」
「ようこそいらっしゃいました、ルクレツィア様」
「二日も続けてごめんなさいね。さ……ええと、アレクシア、だったかしら? あなたは席を外してなさい。イザベルはここにいて」
「承知いたしました、皇太后陛下」
「は、陛下」
ルクレツィアの言葉に、アレクシアが頭を下げ、退室してゆく。ヘレナとしてはアレクシアはいるだけで心の支えになるため、できればいて欲しいのだが、そのような我がままを言うわけにもいかないだろう。
そして、ルクレツィアと共に入ってくる、もう一人の影。
「失礼いたします、ヘレナ様」
「……ティファニー?」
それは、『銀狼将』ティファニー・リード。
ヘレナの熱心な信者であり、後宮警備の隊長だ。だからといって、このように皇太后であるルクレツィアと『陽天姫』であるヘレナが語らう場に、一緒にいていい者ではない。
そういった常識がないのならば、ヘレナの方から一言告げた方がいいのだろうか――と、少し眉根を寄せる。
「ああ、いいのよ、ヘレナちゃん。ティファニーは、私が同席するように言ったの」
「そうだったのですか」
「ええ。今日の午前に、ティファニーから色々指導してもらったの。やっぱり私も運動不足だったみたいで、結構疲れてしまったわ」
「十分に動けておりましたよ、皇太后陛下」
「あら、そう? 私もまだまだいける、ってことかしら」
うふふ、と微笑むルクレツィア。
確かに体型は、子供を産んでいるとは思えないほどに細い。それに加えて、ヘレナよりも年上である、ということが信じられないほどに若々しい姿だ。それだけ、普段から美容を意識しているということだろう。
もっともルクレツィアからすれば、特に美容も意識していないというのに二十八にして美貌を保ち、筋肉質ではあるものの理想的な体型を保っているヘレナの方がおかしな存在である。
「ええと……ルクレツィア様、本日は、どのようなご用件で?」
「ああ、そうそう。忘れていたわ。昨日ね、結局レイラ将軍の話ばかりしちゃって、何も教えられていなかったでしょう? 私がここに来ている理由って、ヘレナちゃんに正妃としての振る舞いを教えることだもの。すっかり忘れていたから、今日改めて、ね」
「ありがとうございます」
ヘレナはそう感謝を述べる。
やはり予想通り、正妃としての振る舞いを教えてくれるのだろう。昨日は、それほど教えることはない、と言っていたが。
だが――その次の言葉は、ヘレナを凍りつかせるのに十分だった。
「ヘレナちゃんは、ダンスはできる?」
「……」
ヘレナは武人である。
十五の頃から十三年間、戦場で生きてきた女である。その類稀なる強さと弛まぬ努力によって、三十前にして八大将軍の副官となり、次期将軍候補とさえ呼ばれる人間だ。
戦場での生き方は知っている。どのように敵を突けば殺せるのか、という感覚を学ぶことに、入団してから一年を要した。
意外に料理も得意である。とはいえ、基本的には戦場での、野営における鍋料理くらいだが。それに加えて、食材の現地調達において、蛇を焼く際の絶妙の塩加減も卓越している。
そして何気に、編み物も得意なのだ。とはいえ一般的な編み物ではなく、ロープ二本を編み、短くして携帯できるようにしたものだ。ロープが必要になる緊急時などに使用するために、特殊な戦場などでは常に携帯していたのは記憶に新しい。
と、若干ながら認識のズレはあるが、意外にヘレナは女子力が高いのだ。主観では。
しかし、ダンスは完全に専門外である。
普通、令嬢にしてみればダンスというのは、基本的な知識だ。家柄の関係上、夜会などに出席する機会の多い令嬢にとって、ダンスとは必修項目なのである。
だが、ヘレナにダンスを行う必要は、全くなかった。
そもそも戦場でダンスをする機会などないし、軍の連中と酒を飲むときは、大抵が町の酒場か野営地での酒盛りだ。夜会のような上品さはそこにないし、ダンスを覚える必要性など皆無だったのである。
「……も、申し訳、ありません」
「やっぱりダンスは専門外?」
「やったことが、ないもので……」
「うん、大丈夫。そうだと思ったから、今日はティファニーを連れてきたのよ」
おお、とヘレナは顔を上げる。
ダンスというのは、基本的に男女の二人で行うものだ。地方や国によっては人が並び、輪を作って踊るものも存在するらしいが、基本的には二人で行うものなのだ。
そして、ダンスをするのである以上、そこにパートナーが必要なのは当然である。
「僭越ながら、このティファニー・リードがヘレナ様のパートナーを勤めさせていただきます」
「ありがとう、ティファニー」
「それじゃ、教えるわね。ティファニーは男役だから、少し違和感があるかもしれないけれど」
「皇太后陛下、ご心配なく。銀狼騎士団の夜会においては、女騎士が男役を勤めることも珍しくはありませんでした」
ティファニーのその言葉に、ヘレナは頼もしさすら感じてしまう。
それに加えて、謎なのは銀狼騎士団の夜会、という言葉だ。まさか銀狼騎士団では、何かあるときには夜会を開いているのだろうか。
少なくとも、赤虎騎士団には決して取り入れたくない風習である。男同士ばかりで踊りあうなど、目の毒以外の何物でもあるまい。
「それじゃ、まず手をとって」
「は。それではヘレナ様、お手を拝借」
「ご指導、よろしくお願いします」
「うん。それじゃ、まずは基本のステップからね」
ルクレツィアの指示に従い、まずは基本のステップを練習する。
あまりにも慣れない行動に、最初へレナは足元を見ながら、間違わないように、間違わないように、と慎重に動いた。しかしそれでも、足がもつれてしまう。
思うように動いてくれない体にやきもきしながらも、しかし何度も何度もそれをして。
「一番大事なのは姿勢よ。そうやって足元を見ていちゃ駄目よ」
「し、しかし、ルクレツィア様。ティファニーの足を踏んでしまうかも……」
「流れる動きを互いに共にすることで、足を踏まないようにするのよ。ちゃんとヘレナちゃんがリズムに合わせて動けば、足は踏まないはずだから安心して。それより、背筋が曲がっていると品が無く思えるわ」
「うっ……」
はい、とルクレツィアが手を叩き、そのリズムに合わせて足を動かす。
なるべく背筋を伸ばして。なるべく姿勢を正して。
これなら、鍛錬の方がどれほど楽なのだ――そう思いながら、基本のステップをこなす。
ようやく流れを掴んだ頃には、全身がくたびれていた。
「はい、お疲れ様」
「はぁ……も、申し訳ありません……」
「いいのよ。一朝一夕で出来るものでもないし、今日は基本のステップだけでも覚えておくようにね」
「はい、分かりました」
ひとまず、基本のステップについては、覚えた自信がある。
とはいえ、反復しなければすぐに忘れてしまうだろう。これは、これから鍛錬にあてる時間は、このステップの反復をしなければいけないかもしれない。
一、二、三、四、と頭の中だけで数えながら、座った状態で足を動かす。
「イザベル、お茶を淹れて」
「承知いたしました。皇太后陛下」
「ヘレナちゃん、ちょっと休憩しましょう。昨夜のことも聞きたいし」
うふふ、と微笑みながら、ヘレナの前に座るルクレツィア。
そんなルクレツィアの言葉に、ヘレナは僅かに首を傾げる。
「……昨夜のこと、ですか?」
「ええ。昨夜はファルマスは後宮に渡った、って聞いたけど」
「ああ、はい」
確かに、ファルマスが昨夜後宮へ渡った、というのは間違いない。
だが、その相手はヘレナでなく、フランソワだ。
恐らくバルトロメイとの縁談の関係なのだろうけれど、ルクレツィアは昨夜、ファルマスがヘレナの部屋を訪れた、と思っているのだろう。
「確かに、昨夜陛下は後宮へお渡りになられたそうです」
「……そうです?」
「はい。私ではなく、他の側室のもとへ行っておられたようですので」
そんなヘレナの言葉に、ルクレツィアは目を見開き。
そして――分かりやすいくらいの怒りを、その表情に浮かべた。
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