第39話

「お疲れ様」

「お……おう」



 唐突な労いの言葉に、思わず声が詰まった。

 そりゃそうだ。こいつからこんな言葉を掛けられるなんて、普通は思わないんだから。


 まさか、何か企んでるんじゃないだろうな。

 ……いや、ないな。こいつの性格的に。


 久遠寺は俺の頭の先からつま先まで見ると、溜まっていたものを吐き出すようにため息をついた。

 あ、違うこれ。呆れてる感じだ。



「こんな肌寒いのに、頭から水被ったの?」

「動いて暑かったからな」

「……アンタ、あんなに運動できたのね。知らなかったわ」

「まあ、大抵のスポーツはな。体の動かし方さえわかれば、ミスすることはない」

「それ、私に対する嫌味?」

「違う違う」



 まあ、久遠寺があんなに運動できないとは思わなかったけど。



「……待ってなさい」

「え? お、おいっ」



 足速に体育館に入ると、直ぐに戻ってきた。

 その手に握られてるのは、ピンク色のフェイスタオル。多分久遠寺の私物だ。さっき持ってたのを見た気がする。


 久遠寺は俺の少し手前で止まると、意を決したようにタオルを突き出してきた。



「こ、これ使いなさい」

「……なんで?」

「なんでって……濡れてるじゃない。このままじゃ風邪引くわよ」



 おいコラ、その「馬鹿なの? 死ぬの?」みたいな目で見てくんな。



「いや、大丈夫だ。多分直ぐに龍也が来るだろうし」

「確証は?」

「……ない、けど……」

「なら使いなさい」

「いい、いらない」



 だってそれ、久遠寺のタオルだろ? つまり久遠寺の匂いが染み付いてるんだろ?

 そんなもので頭を包まれてみろ。


 間違いなく幸せでおかしくなる。


 前に久遠寺の部屋に行った時に嗅いだあの匂いを思い出し、頬が熱くなる。

 そのことを悟られないよう、顔を背けると。



「……やっぱり、私のじゃイヤ……よね」

「え?」



 暗い声が耳に届いた。

 声の出処は、当然久遠寺。

 見ると……あ、やばい。落ち込んでる。と言うか泣きそう。



「や、ち、違っ……!」

「んーん、いいのよ。そりゃ、私みたいな可愛げのない女のタオルなんて使いたくないわよね。ごめん、忘れて」

「久遠寺っ」



 泣きそうな顔を無理やり笑顔にし、俺に背を向ける。

 いや、えっ、行っちゃうの!? こんな変な空気のまま!?



「久遠寺!」

「…………」



 少しは止まれよっ!

 くそっ、このまま行かせたら間違いなく泣くだろ、こいつ!

 しかも教室で泣いてみろ。

 俺が犯人だとわかったら、竜宮院には責められ、龍也や寧夏にはからかわれる。


 そして何より。


 ──こいつの泣き顔なんて、見たくない!






「梨蘭!」






「────ぁ」



 手を握った。

 思わず、反射的に。

 逃がさないように。離さないように。


 手から体温と、久遠寺梨蘭という存在が伝わってくる。

 じんわり、温かい。

 こんなにしっかりとこいつの体温を感じたのは初めてだ。


 今にも手を離して逃げ出したい衝動に駆られる。

 羞恥と興奮が入り交じり。


 でも……それ以上に、もっと触れ合っていたい。


 足を止めた久遠寺が、ゆっくりと振り返る。

 見開かれた目に、わなわなと開かれた口。耳や頬だけでなく、首から下も徐々に赤くなっていった。



「ぁ……の……ぇぅ……」

「頼む、話を聞いてくれ」

「ぅ……ぅん……」



 手を離すと、久遠寺は胸の前で手を組み、小さく縮こまった。

 まるでいたずらがバレた子供のように、潤んだ上目遣いで俺を見つめてくる。


 くっ……かわいい……!


 お、落ち着け俺。まずは深呼吸して、心を落ち着かせるんだ。



「……さっき、お前のタオルを使うのがいやって言ったのは、その……」

「……私のことが、きらい……だから……?」

「違う!」



 ぐうぅ〜……! ああもう!



「そ、その……タオルで頭を拭くと、お前の匂いがして……落ち着かない、から……」

「え……それって……!」

「ぜ、全部言わせるな、馬鹿」



 くそ、恥ずかしい。今の俺、絶対顔真っ赤だ。

 久遠寺から顔を逸らす。

 が、目の端に久遠寺がニヤニヤしてるのが映った。



「ふーん、へぇー、ふーん」

「やめろ、鬱陶しい」

「そっかそっか。恥ずかしいのかー、へぇ〜〜〜」



 だから言いたくなかったんだよ……!


 久遠寺はタオルを片手に近付いてくると、俺の体操服を摘んだ。



「な、何だよ」

「しゃがんで。中腰で」

「え?」

「いいから」

「……おう」



 言われた通りにしゃがむ。


 ふわ──。


 え……これ……タオル?



「ちょ……!」

「動かないで。拭いてあげるから」

「は、恥ずかしいんだが……」

「大丈夫よ。誰も見てないわ」

「久遠寺が見てるだろ」

「む」



 ちょっと不機嫌な声を上げた久遠寺。

 タオル越しに俺の頭を両サイドから挟み、グイッと顔を上げさせた。



「梨蘭」

「……え?」

「名前で呼んで。さっきは呼んでくれたじゃない」

「そ、それは勢いで……!」

「呼んでくれないの?」



 ちょ、顔近っ……!

 こ、これは……あぁ、逃げられないか……。



「……梨蘭……」

「! ……ふ、ふふ。ふふふふふ」

「わっ、ぶっ!? 乱暴すぎだ!」



 そんなわしゃわしゃすんな! 犬か俺は!



「ふふ。そうよ、私は梨蘭。梨蘭だからね」

「何を今更言ってんの? 大丈夫?」

「これからアンタが私を呼ぶときは、ちゃんと梨蘭って言うのよ。わかった?」

「拒否権は?」

「は?」

「ごめんなさい」



 だからそんな怖い目で見ないで。

 久遠寺……梨蘭は俺から離れると、くるっと背を向ける。



「そのタオル、洗って返してね」

「……まあ、そのつもりだけど……わかった」

「よろしいっ。じゃあね」



 と、体育館に向けて1歩踏み出し。またこっちを振り向いた。



「そうだ。私もこれからアンタのこと、名前で呼ぶわね」

「……名前?」

「そ、名前」



 梨蘭は、今まで見たことないほどの大輪の花を思わせる笑顔を見せ。






「またね、暁斗!」






 ────ッ。


 体育館の中に入っていく梨蘭。

 後に残されたのは、脳の処理が追い付いていない俺のみ。



「……なんだよ、それ……」



 ……ずりぃ。

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