神のかたち
「スヴェン、スヴェンなンだろ! なあ、おい!」
我を忘れ、ルオッサは駆け寄ろうとする。だが、その歩はぱたりと止まってしまう。
「……スヴェン?」
フェルンベルガーは眉を下げ、目を細めてルオッサを見た。そっとフードを下ろす。
その髪を見て、ルオッサはかたまった。泣きそうな顔になって、歯を食いしばる。その男の髪は、夕日色の銀髪ではなかった。それは赤みの濃い、癖のある茶髪。
「イレーネから聞いている。スヴェン――もうひとりの友達の名だね。残念だけれど、僕は別人だ。彼は――先にいってしまったとのことだよ。
……イレーネとは違い、彼に未練はなかったのだろう」
ルオッサは顔をくしゃくしゃにして、フェルンベルガーの声を聞いた。不思議と、落ち着く声音だった。それが事実と、すんなり受け入れてしまうだけの響きがあった。
「じゃあ、オマエは――オマエは誰だ」
顔を濡らすルオッサに、男はそっとしゃがみこんだ。敵同士とは思えない、間合い。
「息が上がっている。この傷……かなりの深手だ。そうか、蒼紋兵がやったのかい。少し休んだほうがいい」
「――休む? こンな時に何を。アタシは、アタシはな……!」
理性で吠えかかろうとするルオッサに、その男はカップを差しだす。その匂いは、ルオッサの嫌いな、
「ちょうど、話し相手が欲しかったところなんだ。
ほんの少しでいい。どうか、僕の話を聞いてくれないか――ロスコー」
ルオッサは言葉の裏にある声を聞き、虚勢の鎧を剥がれてしまう。おろおろと首をまわすが、本当に見たいものは見れずにいた。やがて、ぽつりと声をこぼす。
少しだけだ、と言うのがやっとだった。
フェルンベルガーはルオッサの腕の血を拭き清める。その手つきを見つめながら、ルオッサは話に耳を傾けた。
「――黄銅の騎士がイレーネを連れてきたのは、昨年の春だった。イレーネの遺体は、自ら立ちあがったらしい。肉体は死すとも、竜国にゆくには未練が強すぎたのだろう。不完全ながら言葉を話し、遺体は乾燥していて腐敗しなかった。
魂がまだ固着していると見るや、簒奪の魔術師は実験台にしようとした。黄銅のも止めたが、何より本人が望んでいた。……そうして、イレーネは竜の刻印を刻まれた」
「アタシに向かって、同じ話をすンじゃねえ。昼のこと、もう忘れやがったのか」
赤く汚れた布を持ったまま、彼はルオッサを見た。「昼のこと……?」
その反応に、ルオッサは顔を背ける。「――いや、人違いだ。続けろ」
釈然としない顔をしながら、彼は真新しい麻布でぎゅうと傷を押さえる。
「竜の刻印で運命を切り開かれ、イレーネは完全な肉体と言語能力を得た。だがその対価として、彼女は豹変してしまった。教義を剣、神威を盾とする――非情な聖女に。けれど僕は知っている。彼女は何の力もなくとも、痛みに寄り添える子だった。
ロスコー。あの子は刻印の力に苦しんでいる。あの言動も態度も、本心ではない。あの子を救えるのは……君だけだ」
その、懇願にも激励にも似た言葉。ルオッサはそれを聞いて、自分を抱きしめた。
「……アタシは、人狼の力も、聖儀僧としての資格も奪われちまった。今のアタシは、ただのガキだ。イレーネが蒼紋兵を連れていたら……終わりだ」
フェルンベルガーはきつく包帯を巻き、両端を結びあわせる。
「弱音を吐くな。君らしくもない。
イレーネは刻印から信仰呪文のような力を引きだしてはいるが、どれも紛い物だ。《
「……だろうな。むしろ、よく
ルオッサは空いた方の手で茶をすする。そして、そっとカップをテーブルに置いた。――少女はこの匂いを嗅ぐたび、どこが地獄で何が願いだったのか、わからなくなる。
フェルンベルガーは手をぬぐいながら、「――それに」と続ける。
「
ルオッサは目を丸くして、彼を見上げた。
「……何を言ってンだ。アタシは――前にも使えなくなった時がある。あの時は……主の気まぐれか、また使えるようになったが。今度こそ見放されたに違いねえンだ」
「言ったはずだ。イレーネの奇跡はまがいものだ。あれは、信仰呪文でもなければ、奇跡でもないんだよ。イレーネにそんな大それた権限はない。それに――」
フェルンベルガーは、口を滑らせたように言いよどむ。
「それに、なンだッてんだ」
ルオッサの辛辣な声に、彼は意を決し、丸椅子に腰かけて言った。
「そもそも――
ルオッサはがたりと立ちあがった。落ち着いたはずの息が、上がっていた。
「何を言いだすかと思えば……なンだそりゃァ。
「違う」
間髪入れない返答に、ルオッサはにわかに冷静になった。
少女はそのすきとおった翡翠色の瞳に、吸いこまれそうになる。
「主は、たしかにおられるだろう。けれど、僕らには触れも感じもできないはずだ。
――主は、竜を介してあらゆるものをお創りになった。ならば、この世のあらゆるものは完全なはず。
ルオッサは、彼の言いたいことをつかみかねていた――理解したく、なかった。
「……どうだか。完全は万能ゆえ、不完全をも創造しうる。たとえ論理を侵そうと、新たな論理を創造して、だ。それに、竜は完全じゃァなかったかもしれねえだろうが」
「そうかもしれない。……実際、悪を行う者は尽きない。肉体そのもの――血の竜が創りしものはすべて悪、という異端の声の方がもっともらしく聞こえるくらいだ。
だが。
なぜなら。主の御手を逐一、
主の声、聖霊の力、竜の奇跡――それらはみな、天の宮の主の力などではない。
ルオッサは呆けてしまったかのように、首を振り、口を閉じられずに静止していた。フェルンベルガーの顔を正視できず、自然と己の手を見る。
……だから。だからなのか。
「だから……神は、アタシに……イレーネに。なにも、してくれなかったのか……」
少女がぽろぽろとこぼす声に、彼はじっと耐えていた。目を閉じず、顔を背けず。彼は、それを見届けねばならなかった。
「そうか……ああ、なンてこった。なんて残酷なんだ。みんな、みんなアタシの手のなかにあったッてのにさ。神サマにみっともなくおねだりして……挙句、あのザマか。そうか……そうだったのかよ……」
――主は、なにもしてくれない。それは、試練でもなければ、理不尽でもない。
口を利くものであれば、きっと乗り越えられると期待してくれているだけなのだ。主は、竜という聖霊で口を利くものを創った。そのとき主は、御手で与えられるもの、そのすべてを与えてしまった。
だから後は――
「……ロスコー。これは、できるのにしなかった、と責められるべきものではない。君の運命が――」
「いい……言うな。もう、納得したことだ。声は――届いたんだ。
……
ルオッサは目尻を拭い、そっとかぼそい声でつぶやいた。その顔は、かつて死んだはずの少女のもの――目の前の男が知るものだった。彼の目尻が、柔らかく下がる。
ルオッサは床の背嚢を拾いあげ、背負う。そして倍ほども背丈の違う男を見上げた。
「オマエを恨んだことは、一度や二度じゃァきかねェ。
……けどよ。ああ――今ばかりは、主に感謝するさ」
「それは、僕の台詞だ。ロスコー……よく、生きていてくれた。
さあ、奥へゆくがいい。そこに、僕の罪がある」
「……罪か」
フェルンベルガーは、顔の半分をおおう黒い布を下ろす。その――ルオッサとよく似た顔立ちの頬には、七芒星の蒼い紋章があった。
「僕の病は癒えたわけじゃない。これのおかげで生きながらえてきただけだ。
僕の運命はね、ロスコー。“疾病”というんだ。僕の命運は、あの日、尽きるべくあった。けれど僕は――君をのこしては死ねなかった。生きたいと願ってしまった!
……刻印は、僕を生かしてくれた。けれど、代償を払うのは――
……そろそろ、終わりにしなければならない」
男の顔は、深く、深く彫りこまれていた。長く、重い苦しみと痛みがそうさせたに違いなかった。ルオッサは、彼の決意をしっかと聞き届けた。
「……そうかよ」
少女は良いとも悪いとも言わなかった。判断しなかった。賛同も否定もしなかった。――ただ、なるべくしてなった、そう理解していたから。ひとつとして、欠くべきところはなかったのだと。それゆえに、ただ、その決意を受けとめた。
彼はうなずくと、引きだしからひとつの巻物を取りだし、ルオッサに差しだした。
「餞別だ、貰ってくれ。……まだまだ、戦いは始まったばかりだ。長い戦いの役には立たないだろうけど――終わった後の、ささやかなご褒美にはなるかと思う」
ルオッサはそれを受けとり、背嚢に無造作につっこむ。
「ありがたく頂いておく。オマエには、なにもかも貰いっぱなしだな……。礼を言う」
「なに。僕では宝の持ち腐れになる――ただ、それだけさ。
気をつけて、ロスコー」
「ああ――あばよ、……
遠い、黄昏の記憶があった。
ベッドから身を起こす、骨と皮ばかりにやつれた青年。喀血で赤茶けた、布の山。それでも彼は、教典を手放さなかった。
あの日、ロスコーは憎さのあまり、そうまでして天宮にゆきたいかと鋭く問うた。けれど、彼は優しく微笑んで、神に祈るようやんわりと諭した。
『きみの正しき行いを、ほかのだれも見ていなくとも、主だけは覚えていてくれる。だから――きみの才で、多くの人へ幸福を与えてくれないか』
……僕では。
その、あらたまった声に、かつて少女は激昂した。偽善だと、皮肉も大概にしろと、口汚く罵った。
けれど。そこまで否定されても、彼は困ったように笑い、目を落とすばかりだった。
それからだった。ロスコーは自分の幼稚さに恥入り、対抗心から神を知ろうとした。そしていつしか、ロスコーは神とともにあった。
あの日の矛盾が、ほどけてゆく。
そうして、長い別離の果てに、ふたりはようやく本心を分かちあった。あの黄昏のやりとりは、
――たとえ代償が、取り返しのつかないものであっても。
ルオッサは回顧を胸に、書斎の奥を進む。細い回廊を通り抜けると、石畳が大きく、丸くなった。通路の両脇には鉄格子。聞いていたとおりの間取りだ。だが。
そこは、ただの牢獄ではなかった。ルオッサは鼻を押さえる。
鼻をつく腐臭。汚物の臭い。白く濁った目。木蝋のように白い腕。すっぱりと切断された手足。――老若男女とわず、数多の生ける人形が棚に寝かされ、一部は転がり、うろつき、ひしめいていた。
ルオッサには分かった。それらは、イレーネに
継ぎあての四肢は肉体を腐食する。治ったようにみえても、病は止まらない。
……ぺた。……ぺた。
不気味な足音とともに、回廊の主が現れる。
「ごきげんよう。ねえ、ルオッサ?」
その白い少女が明かりの下にさらされるや、亡者の腕が一斉に突きだされる。
「イレーネ……。ああ――オマエに会いに来たんだ」
ルオッサは胸のロケットを握りしめる。白い聖女は、気づかずに笑っていた。
白々しくも、神の威光をまといながら。
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