君と逃げた路

 夕闇の最後、陽のひとかけが山間に消えてゆく。ヴァイセルシュタイン城の東、荒々しく切りたった山肌を降下する、ふたりの人影。

 その身長の何倍もの岩が転がる、大地裂と呼ばれる広大な谷底。ハインはふわりともやの立ちこめる荒野に着陸すると、肩を組んだオルゼリドを下ろす。あたりを見回し、崖に近づくと、精神を集中する。岩肌を撫でながら、垂直に近い壁にそって歩きだす。

「敵の気配はなさそうだが……ホントに今でも使えるのか?」

「駄目ならルオッサの方を使うまでだ。一網打尽は避けたい。

 それに、良かったじゃないか。俺の方が逃げる手立ては豊富だぞ」

 無表情に言うハインに、オルゼリドはため息をつく。だからこそ、非力なオレがこっちに付かざるをえなかったんだがな。そうは思っていたが、オルゼリドは黙って口にしなかった。

「なあ、ハイン。あの新しい工房、誰かに下調べさせてたのかよ」

 ハインは耳をぴんと立て、立ち止まる。すぐに歩みだすが、

「……いや。おまえとダンに頼んだ調査は囮だ。調査や儀式は俺だけでやった」

 瞬間、オルゼリドの顔つきが変わる。険しく、鋭くなる。

「おい……じゃあなんで、奇襲されんだよ。けられたか?」

「そんなはずはない。俺は行動中、常に《不可視》をかけていたし、魔術的にも隠匿していた。そこらに斥候はいたが……分からないはずなんだ」

 オルゼリドは反論しかけたが口ごもり、しばらくしてから、そうだなと言った。

「オレもそう思う。オレほどじゃねえが、ハイン、お前ほどのヤツが尾行されるとは思えねえ。だが、そうなると――」

「ああ。間諜が潜りこんでいる。俺たちの作戦は筒抜けだと考えるべきだ」

 オルゼリドは言葉につまり、何か言い返そうとして考えあぐねた。そして恐ろしい考えに行き当たり、彼はもごもごと言った。

「……その、“簒奪の”とかいうのが、すげえ千里眼とかなんやかやで、なにもかも見破ってるんじゃあねえのか? そいつは精神交換なんて、聞いたこともねえ呪文を使うんだろ。だとしたら――」

 けれど、ハインは涼しい顔で歩きつづける。

「仮にそうなのだとしたら、ヴェスペンはとうの昔に崩壊している。そうでなくとも、できるのにやらず、俺たちは気まぐれに生かされているのなら、なにをしても無駄だ。考える意味はない」

「ムダだと――! おいハイン、ちょっと待て!」

 オルゼリドに襟をつかまれても、ハインは鉄面皮を崩さない。「なんだ」

「気まぐれで生かされている? もし、もしそうならよ! あきらめて手を引くって選択もあるんじゃあねえのか! 知らねえのか。リタはよ、お前と一緒にいるときに一番、幸せそうに笑うんだ。イヌのクセにだ! なのに、そんな――逆立ちしたって歯が立たねえかもしれない相手に、どうして、お前は……!」

 わなわなと震えるオルゼリドに、ハインはふと笑った。その薄雪のような笑みに、オルゼリドは言葉を失う。

「おまえとは、初めて出会ってからずっといがみあってきたが……やっとその理由が分かった気がするよ」

 オルゼリドの手が緩むと、ハインは歩きだす。

「だが、これはリタのためだけじゃないんだ。ベルテンスカでは今日も疫病が流行り、毎日何人もの人が死んでいる。ヴェスペン同盟の国々でも、戦時でなければ生き延びられた人がずっと死につづけている。

 ――俺は、自分にできることがあるのなら、もう逃げないと決めている。いまさら成すべきを成さず、自分だけがのうのうと生きてはいられないんだ。

 だが、オルゼリド。俺にもそんな道もあったと思いださせてくれて、ありがとう。――すまないな」

 オルゼリドは首を振って、違う、と言葉をこぼした。違うんだ。オレは臆病者だ。だからこそ、小人でありながら長生きしている。お前はオレと違う。お前は――。

「お前は、バカだ……。バカヤロウ……!」

「――よく言われる。オルゼリド、俺に付きあう必要はないんだぞ。今なら間に合う」

 そんなもの、わかっているだろうに。オルゼリドは言った。

「……オレも、バカなんだよ。今までも、これからも。ずっとな」

「――そうか。悪い、おまえを見くびっている訳ではないんだ。……そら、ここだ」

 ハインは壁の一点に触れ、合言葉キーワードを唱える。岩肌が石造りの通路に変わる。

 だが。その瞬間、鉄の風がもやを切り裂いた。間一髪、ハインの頬が赤く染まる。

「オルゼリド、俺の背後へ回れ」

 ハインは背中から白銀の剣を抜き放つが、オルゼリドは既にナイフを構えていた。

「オレを舐めてんのか?」

「……そうだったな」

 ハインとオルゼリドは、その通路の内から歩みでる相手をじっと見据える。

 しゃりん。冬の月光に、細い刃が冷たく光る。使い古されたそのダガーは、丁寧に研がれていた。片方を順手、もう片方を逆手に構える、人間の男。

「トビアス――」

「ハイヌルフ。この先には行かせねえ。城には――マルガレーテがいるんだからな」

 凍てつく視線でハインをめつけ、次の瞬間には踊りかかった。

牙を研げ、銀の剣きたれ、ダスクブレイド

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