暗路

「――『二百年の献身』」

 ルオッサが囁くと、水車小屋の石壁は音もなく透過した。

「なんであんたが、ヴァイセルシュタイン城の合言葉を知ってる?」

 ルオッサはふりかえる。黒毛の犬人のいぶかしむ視線に、少女は不敵に笑った。

「知りてェのか?」

「……いいや。これっぽっちもな」

 ルオッサとダンは、灯りの落とされた暗い城内へ忍び入った。手探りではあったが、最短経路で地下へ下る。ふたりとも、城内の見取り図を事前に暗記していた。

 ――不気味なほど静かだった。謁見の間へつづく広間を横切ったが、人っ子ひとりいなかった。たとえ夜であれ、警邏けいらはあって然るべき場所だった。誘われているな、とルオッサはうんざりする。

「“印”は?」

「やっぱり地下だ。だがよ、場所が分からねえ」

 先行するダンがとまどった声をだす。通路に灯りはなく、夜目の利かぬルオッサは目の前も見えないような状態だった。

 ダンはハインの刻んだ“印”の視認権を移譲されていた。まぶたの裏にみえる“印”を見つめることで直線的な距離感は把握できるが、そこへ至る経路は分からない。

「なんかよ、そういう呪文はねえのか。あんた、聖儀僧クレリックだろ」

「お生憎様。そういうモンが欲しけりゃ、ハインを連れて来るんだな。あァそれとも、煌々と照らしだしてもらう方が好みか?」

 ダンはまたも舌打ちして会話を打ち切る。事実として信仰呪文は何かを調べるなど、占術に似たことは不得手だ。できても文字通り神頼みであり、不確実性が高い。

 ――それはさておいても、だ。ルオッサは暗澹あんたんたる思いになる。ごまかしつづけているものの、今のアタシはただのガキだ。まったくもって歯がゆい。

 ふたりは手探りで通路を進む。ダンは夜目が利くためか、それとも焦りのせいか、なかば走るように突き進む。ルオッサが待ち伏せを警戒するように言っても、聞いているのかいないのか。

 記載上はほぼ一本道で、この先には地下牢と倉庫しかない。だが、それはハインの記憶による。改築を施されていれば、見取り図は役に立たないかもしれない。

 そう思った矢先だった。

「下がれ!」

 ルオッサの声で、ダンは飛びのいた。白刃の閃き、ダンの被毛がかすかに舞う。

 通路の側面には、窪みがあった。見取り図にはない起伏。そこから青白い紋様が浮かびあがり、ゆらりと人影が現れる。

「突っ切るぞ!」

 ダンが持ち前の素早さですれ違いざまに右腕を切りつける。蒼紋兵は武器を構えるのが一瞬遅れ、その隙にルオッサも奥へ通りすぎる。

 ダンはふりかえりながら、もう一丁ダガーを抜く。すれ違った蒼紋兵の後ろからは、さらにもうひとりが剣を抜く。狭い通路をふたりがかりで塞いでいる。

 ――もはや後戻りはできない。

「分かりやすくて助かるがよ、こりゃ――」

「ああ、挟撃される前に進むぜ!」

 だな、とダンは腰から麻袋を取るや、封を解き、放りだすが早いか転進する。

 瞬間、乾いた音を立てて袋が炸裂する。蒼紋兵は走りだそうとするが、ふたりとも派手にすっ転んだ。あたり一面に撒き散らされた鳥黐とりもちが、その足にへばりついていた。

「あんなモンは時間稼ぎにしかならねえ! ダン、次に遭遇したら――」

「ああよ! 先に行け!」

「っハァ!? オマエしかウラの位置は――」

「すぐそこなんだ! 、すぐ見つかるはずだ。合流して脱出、だろ」

「そうか……。わかった」

 刹那。ひゅう、と風を切る音。

「つッ……!」

 ダンは血の臭いを嗅ぎとり、血相を変えて立ち止まった。「ルオッサ!」

わりィ……負傷した」

 ハインと行動をともにしている時の癖が出て、反射的にダンをかばってしまった。ルオッサは右腕に刺さった十字型の刃物を引き抜く。

 ダンはウラの“印”を確かめる。血の臭いが鼻腔を突き刺す。

「ちっ――先にいけ! 同士打ちだけはまずい。ここは、俺が引き受ける」

「ダン……だが」

「早く行け!」

 ルオッサは傷を押さえ、歯を食いしばっていた。だが次には、踵を返して走りだす。

 獣化はしない、そう説明する時間が惜しかった。だからしたがったが、ルオッサはふと、自分はなぜこんなことをしているのか分からなくなった。

 ルオッサにとって、ウラの安否はどうでもよかった。ウラは、どうにも使いにくい駒だった。それゆえ、ルオッサの関心はリタにあった。ダンと組んだのは、ハインが別の隠し通路を知っていたからにすぎない。

 ……なぜ自分は、あの犬人なんぞの指示に従ってしまったのだろう。ルオッサには、考えれば考えるほど理解できなかった。

 階段を何度も折り返す。この先が目的の地下牢のはず。階段のどん詰まり、禁進入と書かれた扉に出くわす。いつ追いつかれるか分からない。鍵があろうがいまは、とルオッサは覚悟する。渾身の力を込め、駄目元で扉に体当たりする。

 しかし、意に反してドアはするりと開いた。過剰な勢いを殺しきれず、ルオッサは何度も床を転がって壁に激突した。傷が痛む。内心、嘘だろと思いながら立ちあがる。

 その部屋は、細長い書斎のようだった。ルオッサは息をのむ。

 小さなランプに照らしだされた書架の間、その男が机に向かっていた。

 昼間に出会った、黒ずくめのローブの男が。

「フェルンベルガー……!」

 ルオッサがその名を呼ぶと、男は読んでいた本を閉じる。その書籍、真教の教典をうやうやしく机に置くと、男はルオッサに向き直る。

「ようこそ。君がハイヌルフ――」

 男はそこで言葉を失った。目元より下は黒い布で覆われ、表情は分からない。だが、その翡翠のような瞳は、大きく見開かれていた。

「ロスコー……なのか?」

 ルオッサの声音が、たまらず高く引きつった。

「そうだ……。アタシだ。ロスコーだよ、スヴェン!」

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