徒花の散るとき
医者とは素晴らしい。口を利くものの叡智が、神の手による命を救う――それは、時に冒涜とさえ指弾される。けれど僕は、それこそが奇跡にほかならないと思った。
五年前。僕は医者を名乗る男に問われた。当時、
――だから、その男が迫った選択は、僕にとって選択ですらなかった。
「私は貴殿の命を延ばすことができる。貴殿の魂を切開し、運命を発現させる術式だ。それは貴殿に、結末すら変えうる力を与えよう。
しかし、貴殿は不可逆に変質することとなる。昨日までの貴殿は消え去り、運命が貴殿に取って代わる。このまま苦しみ抜いて
さて、貴殿はどちらの道を選ぶかね?」
僕はそうして、“
僕に比べれば、妹の才能は段違いだった。彼女が実権を握ることができれば、この地が豊かになるのは間違いなかった。でも、家臣は妹を気味悪がり、決して認めないだろう。だから僕は生きて、
……それに。僕くらいは妹のことを分かってあげなければ、きっとだれも――父も、家臣も、母さえも、彼女の真の価値を理解しようとしなかっただろうから。
だから僕くらいは、たったひとりの妹を――愛してやりたかった。
……なのに。
運命は残酷で、僕の想いは何ひとつ成就しなかった。
僕が病床を離れるや、妹は売られ、やがて家は戦さに巻きこまれた。戦争のなかで両親と家臣の多くは病み、手足に青黒い斑点を得て死んだ。なしくずしに領土は奪い去られ、僕は身ひとつで野に下るしかなかった。
僕は家臣の生き残りに助けられ、やっとの思いでサーインフェルクにたどりついた。だが、人生の大半をベッドの上で過ごしてきた僕には、なにもかもが分からなかった。勝手がわからず、失意のなかで、僕なんかに何ができるのだろうと絶望もした。
けれど絶望の淵で、僕はあの医者を思いだした。あの日、医術が僕を救ってくれた。だからせめて、この拾った命で、誰かを助けたいと願った。
――そう、思っていたんだ。あの邪法を、僕は本気で「医術」だと思っていた――信じていた。本当に、心の底から信じていた!
滅びた家名が、何とか僕を床屋ギルドに入れてくれた。僕は徒弟として、あくせく働いた。仕事のほとんどは
一年ほど経って、僕は薬の秘奥を教わることを認められた。その日の喜びを、僕は今でも思いだす――これで僕も、命を救える。そう、心の底から嬉しく思った。
労働の対価として貸与された
曰く――処刑された人狼の頭蓋に生えた苔をひとかけと、血のように赤い彼岸花を患者の血液に入れてすりつぶす。この薬を飲ませば、
僕は、我が目を疑った。そこにあった内容は、医術でなく魔術に近しい内容だった。その処方が、切り傷や
僕は、知識が人を助けると信じていた。しかし、現実は違うのではないかと疑った。ひとたび疑いの念をいだいてしまうと、それまでどうとも思っていなかったあらゆることが、軒並み疑わしくなった。
風邪で訪れた患者が瀉血された次の日、
喧嘩で大怪我をした患者に、親方は刑死者の腐った臓物を含む薬を処方した。翌日、熱を出して腹を下した患者を、瀉血してひまし油を飲ませたところ、翌朝には青くなって死んでいた。親方は手を尽くしたのですが、と言って奥方から大金をせしめた。
……そうして、僕は悟ることになった。
若い僕は現実に抗おうとした。使えるものはなんでも使って、ギルドから独立した。かつての兄弟弟子にひどい嫌がらせを受けながら、それでもあばら家に医院を構えた。僕にできることといえば、多少量の少ない瀉血と、まだ効きそうな薬草を野原で探し、だましだまし試すくらいだった。それはギルドでやっていることと大差ない、率直に言えば人体実験だった。それでも、貧しい人々はいくらでも集まってきた。
教会にも医者にも見捨てられた人々を、どうにか助けたい。その一心で僕は働いた。教会には異端扱いされ、床屋ギルドには破門された。僕の献身が彼らの命を延ばしたのか、それさえも分からなかった。だがそれでも、何もしないわけにはいかなかった。貧民街では、毎日のように無数の人が死んでいたから。
……それなのに。
僕は知ることになる。それまでの奮闘が――眠りも名誉も、誇りさえ捨てた挑戦が、なにもかもが無意味だったことを。
きっかけは、古巣のギルドで斑点を伴う奇病が流行り、何人も人が死んでいる――そう聞いたことだった。そのとき、僕は得も言われぬ恐怖を覚え、とてつもなく嫌な予感がした。矢も盾もたまらずその患者を見に行けば、一様に現れた青黒い斑模様を目にした。手足はおろか、ひどいものは顔をびっしりと覆われていた。だれもかれも水疱が破れ、常に赤黒い血にまみれていた。
それは――父上と母上、家臣たちの死因と同じだった。
僕の予感は当たった。その奇病は、やがて貧民窟でも流行りだした。それも、僕のあばら家の近くに住む者、僕が
背筋の凍る思いだった。僕は何度も医院を閉めようと考えた。けれど、今度はその奇病を治してくれと訪れる者が後を絶たなくなった。
いつしか、僕のあばら家を中心に、小さな村ができていた。昼も夜もなく働いても、何人もの人が死んだ。人間も犬人も、小人も何もなかった。できることなぞほとんどないのに、みなが、皆が僕にすがった。
せんせい、せんせいと僕を呼ぶ声がする。
広大な荒れ野の、草の葉がこすれるように木霊する。
意識の朦朧とした男が、なにかを求めて僕を呼ぶ。そのかすかな声を聴きとろうと努めるが、何も判らない。ふりかえれば、その間に四人が息をひきとっていた。
その虫の息の男は、腕が生きながら腐れていた。希望があるとすれば、切り落とすしかなかった。絶叫する男を押さえつけ、鋸を何丁も駄目にして腕を切断した。次の朝日を見て、男は力尽きた。
その妊婦は、
――そんな、いくつもの徒労の果てに、僕はついに開眼した。
頬に刻まれた、七つ角の星。これが僕を変えてしまったのだと理解した。いつしかあの奇病――蒼紋病に
そうして因果を悟り、僕は僕を知った。
僕はもはや人にあらず――僕こそが“病”そのものだったのだ、と。
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