三章 あのひのこたえ

薄暮れ

 ケルンエヒトの夕陽が沈む。影の増えた街路の人通りは少ない。その静寂を破り、慌ただしく駆ける足音があった。息を切らした一団は、教会跡の尖塔をにらむ。

 赤い屋根の尖塔、その先端に立つ犬人がひとり。青鹿毛の犬人はいくつもの呪文を組みあわせ、街中をしらみ潰しに探していた。

 ふと、彼の目へ小さな光が飛びこんできた。遠くの町外れ、草原の木立にふたりの人影がある。片方はルオッサ。小さな手鏡で夕陽を照りかえし、合図を送っている。隣に立つはオルゼリド。

 ハインはけわしい表情で飛び降りる。教会の庭、畑の上にふわりと軟着陸すると、茂みの方へ声をかける。

「……駄目だ。ルオッサたちと合流しよう、ダン」

 立ち上がった犬人は、うつむいたまま舌打ちする。


 先ほどの草原へふたりが向かうと、待ちきれずにルオッサが走り寄ってきた。

「見つからねェのか!」

「詳しい話は中だ」

 ハインはそう制し、短い合言葉を唱える。

 次の瞬間、ほかの三人は目の前に小屋が建っていることに気づいた。

「……工房、いつの間に移したんだ?」

 ダンの驚く声に、ハインはついさっきだと答えて中に入る。新しい拠点も、内装は昨日とさほど変わらない。ルオッサは荷物も降ろさず、ハインに大声をあげた。

「遠見は? リタの経絡パスは、ウラの“印”はどうなんだ? 見つからねえのかよ!」

「経絡は切れてこそいないが、閉じている。おそらくリタの意識がないか、魔術的に封印されているか――その両方だろう」

 冷静に言うハインに、ルオッサは咬みつかんばかりにつかみかかった。

「オマエの相棒だろう、なぜ分からなかった! 《転移》もあったンじゃねェのか!」

 そこまで叫んでから、ルオッサは急に黙りこくった。

 ハインは下唇を噛みしめていた。その黒い唇には牙で穴があき、血がにじむ。

「……ああ、そのとおりだ。だが、俺の想定が甘かった。

 別行動を取らせるべきじゃなかった。……俺の責任だ」

 ルオッサは刹那、凶暴な表情を失い、そして口惜しげに言った。

「違う。……オマエのせいじゃねえ」

 ダンとウラの情報を売っても、理由を付けてハインをダンの下へ行かせれば、逆に敵を罠にはめられる。ウラの方もリタがおり、何かあればハインがすぐに気がつく。――そんなふうに踏んだ、自分の失態だ。言葉にはしなかったが、ルオッサは自分がリタを危険にさらしたことを悟った。すべて、敵方を甘く見た自分の失策だと。

 重い沈黙を見かねて、オルゼリドが口を開いた。

「……ハイン。優先順位を忘れるんじゃあねえぞ。お前を取られるのが最悪なんだ。使い魔なんてまた作りゃいいじゃねえか。ここは出直して――」

 オルゼリドは面食らって、口をつぐんだ。ルオッサの鋭い眼光にも息をのんだが、なにより、ハインが肯定せずに沈黙していたことが意外だった。

「な――なんだよ。オレ、変なこと言ったか?」

「リタがただの使い魔なら、な。そうだろ、ハイン」

 一同の視線がハインに集まる。ルオッサ以外のみなが驚いていたが、当のハインも呆然と口を開けていた。

「知っていたのか。いや……知っているよな、ルオッサ」

「知らねェよ。だが、オマエがただのコボルトじゃァねえのは明らかだ。それならよ、後はオマエのリタへの溺愛ぶりを見てりゃ、それとなく察しはつく」

 リタの命が危ないと知るや、ルオッサはそれまでの確執を忘れ、その頭脳を必死で回転させていた。そしてダンとオルゼリドの顔を見て、なあハイン、と切りだす。

。ダン、オマエはウラが気がかりだろうし、アタシはこの小人野郎をほとんど知らねェが、ハイン、オマエは信用に足ると思ってンだろ。ならいい加減、自分が何に命を張ってンのか教えてやれ。オマエがどこの誰で――リタが誰なのか」

 ハインは、オルゼリドの気遣うような当惑した顔と、ダンの憤慨に刻まれた鼻先のしわをかわるがわる見た。

「身内にも秘密の話か? そりゃ、部外者のオレに聞かせていい話なのかよ。

 いや……お前が信用してくれるなら、他言しねえけどさ」

「おめえが犬人じゃねえってことくらい、わかってるさ。説明が要るか要らねえかはおめえ次第だ。だがよ、ガルーはお前が誰であれ、大切な弟だと思ってた。

 ……俺が最後かもしれねえ。聞かせてくれ」

 ハインは手近な寝台にこしかけると、そうだな、と息をついた。フードを下ろし、寝癖をなでつける。

「みな、楽にして聞いてくれ。ルオッサの言うとおり、命を懸けてもらってるんだ。遅すぎたくらいだろう。

 まず、知っているかもしれないが、俺の本名はハイヌルフ・イルムフリートという。……あの伏竜将は、俺の体だ」

「……はあ? おい、そりゃ、どういう意味だ」

 とまどうオルゼリドの声に、ハインはうなずく。

「十年近く前、俺はハイヌルフだったんだよ。マルガレーテが即位する前の話だな。その頃から“簒奪の魔術師”は宮廷魔術師として仕えていた。

 ……あの日のことは、今でも覚えている。簒奪の魔術師は先王を殺め、俺の肉体をコボルトと、マルガレーテを飼犬と取り替えた。俺はマルガレーテ――つまりリタを連れ、やっとの思いで宮廷を逃れた」

 しん、と空気が凍ったようだった。一拍の間があった。

 オルゼリドは目を白黒させ、真っ先に口を開いた。

「な――おい、おいおい! それじゃ、の中身は犬っコロで、リタこそが本物の女王サマだっていうのかよ!」

 ルオッサは目を閉じ、口をはさまない。ダンも目を見開きこそすれ、黙っていた。オルゼリドだけが、大声でまくしたてていた。

「そうだ。簒奪のの傀儡政治でなければ、永世中立を謳ったかつてのベルテンスカが、ヴェスペン同盟の諸侯、ウォーフナルタへ侵攻した説明がつかない。

 俺は、リタを――マルガレーテを玉座にかえすために戦ってきた。ベルテンスカを救うには、それしかない」

 オルゼリドは反論せず、手をだらりと下ろした。

「……そうだな。たしかに、血花王になってから、ベルテンスカは変わっちまった。伏竜将も血花王のものだし、簒奪の魔術師なんかは今や魔術師長だ。そう考えりゃ、なにもかもスジが通る」

 そこでルオッサが「ひとつ、いいか」と口を開いた。

「ハイン、オマエの方はまァ、それでいい。オマエ自身が覚えていることだし、別の方法は考えにくい。オマエは犬人らしからぬ腕の立つ魔術師だし、あのハイヌルフは人間とは思えねえウスノロだからな。

 だがよ、リタの方はどうだ? 自分をマルガレーテだと分かってんのか?」

 ハインは苦い顔をする。痛いところを突かれた、と顔に書いてある。

「……いや。手を尽くして言葉は取りもどしたが、記憶を失っていた。止水卿曰く、犬の頭に人間の精神は収まりきらないのだろうとのことだが――元の肉体に返せば、記憶を取り戻す可能性は十分にある」

ちげェよ。そんな、聞いたこともねえ魔法はおいおい考えりゃいい。リタのなかに、たしかに本物の女王の魂があるんだな?」

 ハインは一瞬、目を逸らして逡巡する。

「……確かだ。俺と止水卿が確かめている。リタのなかにはがある」

 ルオッサはその答えに、そうか、とこたえた。その横でダンが、目的は分かった、と言って立ちあがる。

「それで、ハイン。ウラの“印”はどこだ」

 ハインは目を伏せ、言いづらそうにためらう。だがすぐ、観念して口にする。

「……城の付近で痕跡が途絶えた。おそらく、結界に阻まれているんだろう」

「なら、リタもそう遠くない場所だろ。行かねえのか、ハイン」

 ダンの有無を言わせぬ語気に、ハインは言い淀んだ。見かねたルオッサが進言する。

「経絡が繋がっている以上、リタは生きてるみてェだが……こンなでけえ釣針もねえ。あっちには本物のリタを生かしておく理由はねえが、こっちはオマエをられりゃァ後がねェ。どう見たって罠だぜ」

 それでも、ハインは言葉を濁す。ハインはふたりの顔を見れずにいた。そのさまに、オルゼリドはこれ見よがしにため息をつく。

「ハインよお。なんか、勘違いしてねえか?」

「え……?」

 顔をあげた青鹿毛の犬人は、ようやく気づいた。

 人間、犬人、そして小人。その三人が、たしかに自分を見つめていることに。

 ハインは思わず目を背けた。二の句が継げなかった。いろんな気持ちがまぜこぜになって、言葉がなかなか出てこなかった。

「ば……馬鹿なことを言うな。おまえたちの命まで賭けるわけにはいかない。

 これは、俺の使命だ。おまえたちには――」

「いまさらだ。バカはおめえだろ。俺はウラを見捨てられねえよ」

「アタシも、ああは言ったが……今日ばかりはダンと同意見さァ。オマエひとりで、リタを助けだせるのか。なァ、ハインよ」

 ハインの口はあいたままだった。信じられない面持ちのまま、おまえもか、とでも言いたそうにオルゼリドを見る。

「もう決めちまったことだからな。オレぁもう腹くくってるんだよ。アンタみてえなバカについてくってな」

 ハインは、かつて草人に言われたことを思いだした。その言葉の前には、もはや、三人の言葉を飲みこむしかなかった。ハインは立ちあがり、縁が結んでくれた者たち、そのそれぞれへ感謝した。

「みな、ありがとう……」

 照れくさそうな笑み。鼻で笑う声。努めて感情を押し殺した顔。それぞれに相応の返事を受けとって、ハインはこんなに心強いことはないと天命に感謝した。

 ――だが。彼らは知らなかった。既に、一刻の猶予もなかったとは。

「仲睦まじいなか、悪いが。失礼する」

 低く、反響し、くぐもった声。

 戸口からドアが蹴り破られる。

 青い刺青いれずみの兵士が殺到し、剣を抜く。最も戸口に近かったダンは、反応が遅れた。

 有無を言わさず振り下ろされる刃。

 火花の閃光。

「構えろ!」

 ハインの真白銀の剣に逸らされ、ダンの後ろ髪がわずかに裂かれる。間髪入れず、ダンは二丁のダガーを抜き、雄叫びをあげて飛びかかった。

 ルオッサは戦槌メイスを取りだし、蒼紋兵を見上げる。数は三、その後ろには――

「ハイン、ハインだよな!」

 黒く、粘つく血に塗れたレイピアが、ハインに突きだされる。

「おまえは――!」

 ハインのソードブレイカーに絡めとられ、その少年のレイピアは辛くも逸らされる。

「やっと会えたな……お前の殺した子供が、おまえに会いたいってさ」

 濁った目を見開き、かすかに口角を緩ませる少年。この春、ハインが再会を約束し、そのまま二度と会うことのなかった少年――アントン。

 ハインは一目でその少年を思いだした。その別人のような顔を目にし、愕然とする。

 剣を手に執り、返り血を浴びるのは自分だけでいい。そう願って戦ってきた。

 ――それなのに、全く逆の結末が返ってきていた。

「制圧せよ。秘術師以外は殺して構わん」

 その魔剣のようにどす黒い声で、黄銅の騎士は宣言する。ルオッサは空笑いして、こりゃァマズったな、と自嘲する。蒼紋兵と黄銅の騎士、それとその従者。相対するこちらは数で劣り、うち半分は非戦闘員ときた。

 だが、やるしかねェ。ルオッサは瞬時に覚悟を決める。

「おっ、黄銅さんよ! オレだ、オルゼリドだよ! へへへ、知らねえ仲じゃなし、同盟のいい情報、入用じゃないか?」

 オルゼリドが卑屈な物言いをする。黄銅の騎士は一瞬、蒼紋兵を引き止める。その隙にルオッサはハインに囁く。

「――分かった」

 だが次には、蒼紋兵へ命令が下されていた。襲いかかる無表情の兵、ダンが必死にふたりを抑えるが、均衡はほんの一瞬だろう。力量差は歴然、その尾は巻きこまれている。ハインも加勢するが、アントンを前にその太刀筋は精彩を欠いていた。

「な、頼むからよお……オレぁゲオルグに頼まれてんだ!」

 オルゼリドは冷静さを失い、やけっぱちになって叫んだ。

 ゲオルグ。その名を耳にし、黄銅の騎士は抜こうとした魔剣から手を離した。

「今だ!」

 ルオッサのかけ声とともに、ハインは宙に《無尽袋ハヴァーサック》を開口させる。小さな虚空の穴からは、丸められた羊皮紙が覗いていた。ルオッサはその巻物スクロールを引き抜き、後ろに差しだす。オルゼリドは瞬時に意図を読み解き、巻物を開いて詠唱を始める。

「――

 黄銅の騎士が、宣言する。ゆらり、と音もなく魔剣が抜かれる。

 刹那、オルゼリドの巻物が燃えあがり、詠唱は無に帰す。

「抵抗は無意味だ。大人しく投降するならば、命だけは――」

「いや。

 オルゼリドが、ひとかけの動揺もなく言い放つ。

「お前が捕虜を解放した試しがあったか?

 ゲオルグに教わったこと、もう忘れっちまったのか?」

「なに……?」

 オルゼリドは不敵に笑う。「

 ぱき、と音がした。黄銅の騎士には、それが何の音か確かめる必要もなかった。

 ――彼の目の前で、ハインが拳を握りしめていたから。

 黄銅の騎士が懐に収めた、魔法の遺物アーティファクト――呪文と疑似呪文を封じ、崩壊させるもの、“静謐の宝珠”が砕け散る音だった。

「ここは俺の工房、。その遺物アーティファクトの解析は完了した」

「――逃がさない」

 一転、劣勢を嗅ぎとり、アントンの笑みは怒りに変わる。鋭い殺意を振りかぶり、ハインへ切りかかる。

 まずい。ルオッサは胸のうちでうめく。オルゼリドとアタシは退避のために距離を取っている。ハインは瞬間とはいえ、詠唱直後で動けない――

 悲鳴にも似た音が、刹那を引き裂いた。なまくらが毛皮を切る、絹を裂くような音。

 刃こぼれした短剣が、毛むくじゃらの腕を裂いていた。

「さっさと、下がりやがれ……!」

 ダンは背中でハインを後ろに突き飛ばす。同時に左を逆手に持ち替え、振り下ろす。

 アントンはその刃を見ていなかった。それどころではなかったのだ――自分の手を伝う、に恐怖していたから。

 金属音。

 蒼紋兵を突き倒して、黄銅の騎士が篭手でその攻撃をかばっていた。

「ダン! 早く来い!」

 ダンは舌打ちして、赤い雫をまき散らしながら後ろに跳ねる。

 黄銅の騎士には、次善の策を講ずる余裕もなかった。工房のなかでは、通常必要な動作と詠唱、それどころか事前準備も必要ない。“詠唱殺し”もない今となっては、ハインは任意の呪文を代替起動できた。

 それゆえに。忽然と。追い詰めたはずの犬どもは消失していた。

 次の瞬間、黄銅の騎士たちは夕闇迫る草原に立ち尽くす己を見出した。

 ――ハインの工房は、跡形もなく霧散していた。

 しかし、黄銅の騎士はその事実になんら動じない。剣を収め、被害状況を確認する。

 。魔術師の工房では、真っ当に戦うべくもないのだから。

 ――さて。

(トビアス、動けるな?)

 黄銅の騎士は念話で呼びかける。しかし、返答がない。もう一度その名を呼ぶと、淀みがあった。

(……さっきの話は、本当なのか)

 何の話だと問いかえすと、今度は即答だった。

(マルガレーテの話だよ)

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