予定運命

 ルオッサはケルンエヒトの市場に向かった。仮眠を取ろうとしたのだが、眠ろうとするにはどうにも空腹だった。手頃な屋台を見繕い、銅貨を置いて麦粥を受けとると、ルオッサは足早に喧騒を離れた。格子状の通りの間、建物の間の隙間にできた裏路地。そのひとつに潜りこみ、ルオッサは粥をすすった。

 ひとりになると、イレーネのこと、ハインのことを思いだす。このままでは駄目だ、――そう思うが、何が駄目なのかも分からない。

 ……ハイン、か。

 ため息が自然と漏れる。すでに裏切っているのに、いまさらハインの方を気にしてどうする。皇国側に探りを入れて、自分が切り捨てられないように策を講ずるほうが何倍も有益だろうに。

 いや――それも馬鹿馬鹿しい。自分の命なんてどうでもよかったのに、保身を図る必要なんてあるものか。

 ……そう。のだ。だが今となっては、自分が死ぬこと――消えてなくなり、この世の何にも干渉できなくなることが怖い。自分が存在しなくなっても、ハインやリタが、イレーネが存在しつづけること――その姿を見れなくなることが恐ろしい。

 ――どうしちまったんだ、このアタシは。

「隣、いいかい」

 通りの方から声をかけられ、ルオッサは反射的にそちらを見た。細やかな足取りで歩いてくるのは、全身を黒いコートですっぽり覆った男。その手にはルオッサと同じ屋台の粥がある。

「……誰だ」

 ルオッサは努めて、年相応に装って声を張る。その男は、目元以外を黒い覆面ですっぽり隠してしまっている。どうやら人間らしいが、人相も髪の色も伺えない。

「僕はフェルンベルガーと呼ばれている。……伏竜将のひとりだ。君のことは黄銅の騎士から聞いているよ、ルオッサ」

 ルオッサは瞬時に思案し、次には黙ってフードを下ろした。理由はいくつもあるが、その最たるものは、それが願ってもない状況だったからだ。たとえ、罠であろうと。

「フェルンベルガー? そいつは地下にひきこもってる野郎の名じゃァねえか」

 ルオッサのしわがれた――本来の声にも、その男は動じなかった。ルオッサの隣にやおら座りこむと、さて、と肩をすくめる。

「たまには外に出たい時もある。冬の高い空に日がさんさんと出ている時や、滅多にない客人がお越しの時などにはね」

 比較的若いなとルオッサは思った。二十前後、人間のハインより若い。ゆったりとした余裕ある語調、態度からは高い地位を感じさせる。

「……それで? その伏竜将様が、アタシみてえな間諜イヌに何の用だ」

 そうだね、と一言置き、男はコートのフードを深くかぶり直す。

「君がイレーネと知りあいというのは、本当のことかい」

 虚をつかれ、ルオッサは舌打ちした。「黄銅め、そこまで言いふらしてやがンのかよ」そうごちるルオッサに、いや、と男は答える。

「僕が盗み聞きしてしまっただけだ。黄銅の騎士は関係ない。

 ――それが事実ならば、僕は君に謝っておかねばならないんだ」

「……はァ?」

 ルオッサの呆れた声に、男はルオッサを見た。翡翠のように、美しく輝く瞳だった。

「僕は黄銅のやハインに比べれば、叙任されて日が浅い。イレーネもほんの一年ほど前でね。そのせいか、僕とイレーネは関わることが多かった。……イレーネに真教を教えたのは、僕なんだ」

「…………!」

 なるほど、合点がいった。ルオッサがイレーネに教えた真教はごく限られている。そも教典にしたがって伝えるべきものを、教典もなしに正しく教えられるわけがない。なのにイレーネは聖句をいくつも、すらすらと引用していた。誰か別に説法する者がいたのは、火を見るより明らかだった。

 ――神に召命された、という言葉が真実でなければ。

「じゃあ、イレーネが主に命ぜられて、と口にしたのは……嘘なのかよ」

 男は黙りこみ、細く長い息を吐いた。そして、自分に言い聞かせるようにうなずく。

「イレーネは蘇生されたわけではない。元より皇国にそこまで高位の聖儀僧はいない。 イレーネは墓穴のなかで既に――らしい」

 ルオッサは目を見開く。彼はとは言わなかった。

 そう、ただ――のだ。ルオッサは我ならず叫ぶ。

「そンなことがあるものか! イレーネはアタシが清めて葬った、そんなことは――」

 ありえない、とは口にできなかった。今度はルオッサが黙りこむ番だった。

 ――あの日、あの精神状態で。自分に完璧な《葬送きよめ》の秘蹟が施せただろうか。

「……イレーネは黄泉帰りアンデッドだっつうのかよ。それなら、どうしてあれだけはっきりと受け答えできる。屍人ゾンビにしちゃァ出来過ぎだ」

 アンデッドは通常、聖儀僧が遺体に秘蹟を施すことで予防する。そうされなかった遺体には雑多な霊が侵入し、屍人が発生することがある。しかし、ほとんどの場合は知性に乏しいはずだ。

 男はもっともだ、と断り、

「だがその理由は単純でね。あの肉体に巣食うのは、他ならぬイレーネの魂なんだ」

「……そんなことが、起こりうるのか?」

「事実、起こっているんだ。イレーネは過去の記憶を保持し、。余程の後悔、悔恨があったのかもしれない」

 さっとルオッサの顔に影がさす。だが、しかし、とルオッサは反論しようとする。

「オマエらは生前のイレーネを知らねえはずだ。どうしてそんなことが言える……」

「君から見て別人なのかい」

 そうだとルオッサは即答するも、すぐにいや、と打ち消した。そのたわんだ表情に、男はすまない、と言葉をこぼした。

「残念ながら、あれはイレーネなんだ。イレーネには簒奪の魔術師が“竜の刻印ドラゴンマーク”を施している。その際、間違いなく肉体と適合する魂だと――」

 竜の刻印と口にした途端、男の首を幼子の手がひっつかんだ。ルオッサは色を失い、その手はぶるぶると震えていた。

「おま、オマエらは、やはりイレーネに刻印を刻んでいたのか!

 竜の刻印がヒトを廃人にすると知っていて!」

 ルオッサの手が、力なく落ちる。男はその手を、じっと見つめていた。

「……ああ。。だが、僕はそれを止められなかった。なによりイレーネ自身が望んでいたのだから。けれど――僕が何もしなかったのは事実だ」

 ルオッサは歯を食いしばり、左の腕で男を殴った。男はよけようともしなかった。その腕力は、とても人狼とは思えない、弱々しいものだった。

「……クソが! そのせいで、イレーネは狂っちまった! オマエらのせいで!」

 椀をひっくり返し、ルオッサは壁に向かって荒々しく言った。悪態をつき壁を叩く。

 けれど、分かっていた。今に至っては納得すらしていた。醜く歪み、狂っていても――ああ、やはりあれはイレーネなのだと。

「……ルオッサ。イレーネを救えるのは君だけだ。イレーネもそれを願っている」

「ふざけんな! オマエにイレーネの何が――」

 男は、ルオッサをまっすぐ見つめていた。その翠緑の瞳に、ルオッサは息を呑む。

「オマエ……まさか」

「竜の刻印に発現させられた、イレーネの運命は“憧憬”という。

 ……君に、その意味が分かるかい」

 ルオッサは、男から目を逸らした。瞳の色は違う、だが、考えてみればおかしい。自分が黄銅の騎士に頼んだ埋葬は――ひとりだけではないのだから。

「あんな……狂った聖女が、イレーネの憧れだとでも言うのか」

 違う。男ははっきりと断言した。

「――君だよ」

 刹那、ルオッサは時が止まったように感じた。声も思考も失い、唖然と立ち尽くす。

「……ちょっと待て。そりゃ、どういう――」

「君と同じだ。君があのコボルトに感じたそれとね」

 。そういうと、男は粥をそのままに立ちあがる。歩きだす。

「待て、話は終わってねえ……意味が分からない! それにオマエ、いや――君は!」

 男はふりかえる。その翡翠にも似た瞳に見つめられて、ルオッサは既視感を覚えた。

「それは、思い違いだよ。僕は……ただの偽物さ」

 謎めいた物言いに、ルオッサは継ぐ言葉が見つけからなかった。それ以上追及することさえはばかられて、ルオッサは黙ってその背を見送った。

 裏路地を抜け、通りを曲がり、男の姿は消える。

 ひとり残された少女は、細長く青い空を見上げる。黄色い陽光は、あの夕方を思い起こさせる。ナズルトーのほうが冷えるはずなのに、不思議と今のほうが寒かった。

 憧憬。イレーネの憧れ。いったい、何に憧れれば、天啓をもって意志を挫く聖女になろう。アタシに、ルオッサにできることがあるのか?

 首元に手をやり、銀のロケットを握りしめる。

 砂まみれの銀髪、黄色い肌。鳶色の瞳。着るものは血と尿と精に汚れた肌着だけ。そこからのぞく肌は、痛々しい古傷だらけ。

 ルオッサの知るイレーネ――竜の刻印に、天啓に漂白される前の親友を思いだす。

 その友は、今にも泣きそうに目元を歪めながら、それでも口元だけで笑っていた。ああ――そうだった。あれはいつもそうだった。表裏のないやつで、悲しいときには泣き、そして――アタシに見つかると、なんでもないと笑うのだ。心配させまいと、アタシにだけは笑っていて欲しいと。

「そうか……そうだった。アタシは……めしいでいた」

 なにもかも裏返しなのだ。それゆえの“憧憬”、それゆえの――“受難”。

「待っていてくれ。今、ゆく」

 ――こうして少女は、己の運命へ、ようやく足かかりを得た。それは、長く険しい道程のほんの入口に過ぎない。けれど数多の口を利くものは、それすらつかみとれず運命に喰われゆく。それこそが、口利くものの真なる力とは知らずに。

 覚悟と決意を胸に、少女は城を見上げる。秘蹟と獣相の鎧は剥がれ、今となっては丸裸。けれど、その意志は翡翠の原石に似た輝きを秘めていた。

 その時、少女はふと、赤と緑の光が舞うのを見た。折のよいことだと、ひとり頷く。

 少女は歩きだす。かつて冬の底で、絶望の果てに得た粗末な理由でなく――ほんのかすかな、大河の底に眠る、一粒の砂金のように煌めく希望を胸に。


 ルオッサは人目を忍び、城の水門にやってきた。人目がないことを注意深く確認し、合言葉をささやく。透過した壁を抜け、裸足であの部屋へ至る。

「早くも契約を忘れたか――そう、思いはじめていたところだ」

 鎧のなかで残響する声に、悪いなとルオッサは答える。

「今朝は忙しくてな。昼にも呼びつけるたァ、急ぎの用か?」

 悠然と座するは、黄銅の騎士。彼は前と変わらぬ姿勢で、身動きひとつしなかった。

「急ぎでないことがあろうかね。我々は互いに出し抜こうとしのぎを削っているはずだが」

「はッ、違ェねえ」

 黄銅の騎士が切りだしてきたのは、こちらの動向――今、誰がなにをしているのか知りたい、ということだった。ルオッサは涼しい顔をしていたが、内心では冷や汗をかいていた。それは誰かの身柄を売れと言うに等しく、返答次第で誰かの首が落ちるのは明らかだった。

「ハハ、アンタも形振なりふり構ってらンねえようだな? その訊き方は紳士的じゃねェぜ。 面白ェ、誰が欲しい。ハインか?」

 しかし、意外なことに黄銅の騎士は首を振った。

「犬人の下僕がいただろう。あれはどうしている?」

 ほう、とルオッサはわざとらしく驚いてみせた――内心、本当に驚いていたのだが。

 ハインが兄弟を率いることは少ない。ハインの任務は諜報が基本であり、多人数で動けば見つかる危険が大きくなるからだ。事実、先日とて蒼紋兵に襲撃されている。そちらは殲滅し、《影帳》で隠匿した。しかし、あれだけ派手にドンパチやったのだ、見つかっていてもおかしくはない。

 ルオッサは逡巡する。ここであいつらを売れば、何らかの危害が加わることは明白。だが、昨日の今日、今少し心境を良くしておきたいのも事実。さりとて嘘を告げれば、犬の代わりに自分の首が転がることになる。

 ルオッサは決断した。

「なンだ、あんなのでいいのか?」

 そうしてルオッサは、仕入れたばかりの犬人ふたりの情報を売った。


 花崗岩の階段を登り、ルオッサはその角部屋へ向かった。見返りを受けとるために。

 ドアの前で立ち止まり、ふと、ルオッサは立ちすくんだ。ドアの陰で、矢が自分を待ち受けている気がした。そのままなにもなかったことにして、立ち去りたい衝動に駆られる。

 けれど、そのドアは内側から開いてしまう。

「あら、いらっしゃい。さあ、なかへどうぞ」

 現れたのは、聖女だった。その聖女――冷たくほほえむ色なき聖女に、ルオッサは断腸の思いになる。少女は歯を食いしばり、意を決して足を踏み入れる。

 家具の少ない部屋だった。せいぜいがクローゼットと寝具、小さなテーブルセットくらいしかない。それらも手を入れた形跡はなく、与えられたままと思しい。小さいあかりとりの窓からは石造りの城下が覗いている。ほの暗い室内、窓からの黄ばんだ日差しだけが輝いていた。

 聖女はちいさなテーブルと椅子を示して、まっていたんですよ、と薄くほほえむ。そのテーブルには焼き菓子とポットさえある。ルオッサは黙って椅子につく。聖女もにっこりと笑って、ちょこんと椅子に腰かけた。その目は白く、薄く見開かれている。

「あなたがくるときいて、わたし、あなたにかける言葉をいっしょうけんめい考えていたんですよ。ねえ、ルオッサ?」

 抑揚なく言葉を口にしながら、それは茶を注いだ。林檎のように甘く香る、故郷のハーブの臭い。ルオッサは顔をしかめる。

「いいのは思いついたかよ」

 イレーネだったものは顔をあげる。のっけから地金を晒すルオッサに、ふふふ、とへばりついた笑みで嗤う。

「ええ、ええ。もちろんです。

 いかがです? 獣の衝動もなく、秘蹟の資格も奪われて――あなたがあなたである証拠をなくして、どんな心地でしょう?」

 カップへ伸ばした手を、ルオッサはさっと引っこめる。ああ、と苦渋の顔になる。

「そうさな。迷惑してるがよ、ありがたくもあらァ。発作を起こさねえのは利点だ」

「そう。それはなにより。ささ、クッキーもどうぞ」

 ルオッサは一瞬、ためらった。イレーネといたあの半年、少女は常に餓えと渇きに苦しんだ。甘い菓子や肉料理をどれほど夢想したことか。

 それが――このようにふるまわれるとは。

 ルオッサはそれを手に取ると、さくり、と口にした。ごく普通の、あまり甘くないクッキーだった。

 イレーネは手をつけなかった。カップも湯気をたてるばかり。

「今日は、話があって来たんだ」

 ルオッサが切りだすと、相手は小首を傾げる。「なんでしょう?」

 ルオッサは顔をあげ、相手を――友の成れの果てを、見据えた。

「……悪かった。事もあろうに、オマエを、よりにもよってこのアタシが切りつけるだなんてよ――さぞ痛かったろうに。

 本当に、本当にすまなかった。許してくれ……このとおりだ」

 ルオッサは深々とこうべを垂れた。元はといえば人狼の衝動を煽られ、友を侮辱されたことが原因ではある。とはいえ、自分が親友を刺してしまったことに変わりはない。その罪悪感は少女の胸に深く根を張っていた。己自身の手で、大切な心友を傷つけてしまった。それそのものにルオッサは胸を痛めていた。

 あれから少女は、何度も自問した。本当に成れ果ててしまったのは、ほかならぬ、自分ではないのか。無論、自分は望んで悪鬼に堕ちた。でもそれは生きるためだった。何もかも破壊するためではない。いつか、いつの間にか、本当に大切だったものさえ、己の手で壊してしまうのではないか。その自責からは悪鬼とて、否、ルオッサだからこそ逃れられなかった。なればこそ、“苦痛”に逃げるほかはなかったのだから。

 そして、予想だにしないことが起こる。

 がたり、と。大きな音とともに椅子がすれる。カップが傾ぶき、けたたましい音とともにテーブルを濡らす。ルオッサは驚き、顔をあげる。

 イレーネは、わなわなと震えていた。その顔は、もはや聖女ではなかった。

「だれが謝罪がほしいといいましたか! なぜ、……なぜあなたが、あやまるのです」

「……イレーネ?」

「あなたは、みずからのべたではありませんか! あなたは永遠に赦されぬ悪鬼だと、ゆるしなどいらないと! あなたは、あなたは――!」

 その白いまなこに、雫がたまる。ルオッサは、自分も吸いこまれるのが分かった。

 ああ――あたしはずっと、それを流させぬがために生きてきたのに。

 そう、そのために。血も、泥も、膿すら飲み干してきたというのに。

「イレーネ……」

「でてって! そんなきみなんて、みたくもないの!」

 ドアを指差す手には、薬指がない。涙が、ふたりの少女の頬をつたう。片方は氷のように冷たく、他方は溶鉄のように熱い。

 だが、ルオッサには分かった。あの男に言われた言葉、その意味に納得する。

 ――同じだ、同じなんだ。なにもかも、何もかもが裏返しなのだ。

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