犬の騎士

 ハインの拠点たる工房。そこへ三人は《転移》していた。オルゼリドの手のなかで、巻物スクロールは一瞬のうちに燃え尽きる。

「はあ、はあ……この野郎、オレが巻物を読めなかったらどうするつもりだったんだ」

 ハインは麻痺したまま、口元だけで笑った。

 オルゼリドはルオッサに目をやるが、舌打ちをして目を背けた。

 ――ルオッサは泣いていた。自分の手を見て、握っては開き、嗤って涙をこぼす。ルオッサの手は、ハインの血で赤く染まっていた。少女が嘲笑わらうのは、他ならぬ自分自身だった。

「おい。お前も巻物スクロールの一本や二本、持ってんだろ」

 ルオッサは一瞥をくれたきり、無反応だった。オルゼリドはもう一度舌打ちをし、ルオッサの背嚢を勝手に物色した。彼は悪戦苦闘の末、解毒の巻物を見つけて唱え、ハインの毒を中和した。――もっとも、成功には三枚も浪費することになったが。

 それが終わると、今度は小屋の中を捜しまわった。やがて、小屋のなかから手頃な布を見つけだすと、コートを脱がせてハインの傷をきつく縛った。

「ほらよ。これで当座はしのげる――といいがな。癒しの巻物はねえ、我慢しな」

 ようやく落ち着いたハインは、簡素な寝台に座り、壁に背を預けて荒く息を吐く。片腕でぎこちなくコートを羽織ると、オルゼリドに目をやった。

「……助かった。礼を言う。だが、いつになく親身じゃないか。おまえは今、皇国のイヌなんだろう?」

 まあ知ってるよな、とオルゼリドは自分の肩を叩く。ひさびさに無理をしたせいか、体が悲鳴をあげていた。

「ああ、そうさ。お前らに関わったせいで、せっかく見つけた食い扶持ぶちがご破算だ。これでオレも晴れて逆賊、見つかり次第縛り首の身ってわけさ。やれやれ……義理に手を出すとすぐこうだ。ハイン、お前はいつもこんな目に遭ってんのか?」

「否定はしないさ。……それで? 俺たちになにか用があったんじゃないのか」

 オルゼリドは静かになったルオッサをちらと見て、大きなため息とともに首を振る。ルオッサはうつむいたままで、前髪の奥の顔はうかがいしれない。

「いいや。こいつがゲオルグのことを知ってると聞いてな……つい、欲が出ちまっただけだ。こんなことなら、昨日のうちに聞いとくべきだった」

 というところも気になったが、ハインはそれよりも先にききたいことがあった。

「そう、それだ。ゲオルグというのは、ゲオルグ・シュテーガーのことか?」

 オルゼリドは目を剥いて、立ちあがった。

「知ってるのか!」

「知っているというより……いや。そういうおまえはどうなんだ」

 ハインは居住まいを正し、オルゼリドを見つめた。その所作を見て、小人は犬人の言いたいことを理解した。そして、理解したがゆえに大きく息を吐いた。

「卑怯な奴だ。オレにはもう、選択の余地がねえってのによ」

「俺も同じさ。おまえの身の振り方ひとつで、言えることも言えなくなる」

 オルゼリドは武器を腰から外し、寝台に投げ捨てて座りこんだ。

「……昔の話だ。オレは、ベルテンスカ皇国近衛兵長だったゲオルグに、伝令として雇われていた。背を預けあって一緒に戦ったこともある。オレにとってははじめての――だった」

 ぴくり、とルオッサが顔を上げる。「ゲオルグが、か?」と憎悪に幼い顔を歪める。

「ゲオルグ・シュテーガー。人違いじゃねェよな。――あの気狂きちがいを友、だと?

 この小人、狂ってンじゃねェのか」

 ハインが鋭くルオッサを言い咎めるが、オルゼリドも切り返す。

「お前こそ、正気だったのか。てっきり、まだ酔ってるもんだと」

「ハハハ……酔いなおそうにも落ッことしちまった。……今こそ入り用なンだがな」

 オルゼリドは一瞬、逡巡した後、ルオッサの方を向く。

「酔いが醒めてんなら、聞きてえことがある。お前、ゲオルグの何を知ってるんだ。……オレの方はナズルトーで別れて、それっきりだ」

「知ってどうすンだ。あの、骨の髄まで腐り果てた男を」

 ぎろりと睨まれ――その小人は息をのんだ。決して気圧けおされたわけではなかった。

 オルゼリドはその時、ルオッサの顔にかつての旧友を見た。その赤い瞳、鋭い眼光、無遠慮な精悍さを帯びた表情。性別も年齢も違う少女に、変わり果てていく友の面影、その残光を垣間見た。「……そういうことかよ」

 その小人は、腹をくくって語りだした。

「……オレは、ゲオルグに最後まで付きあいきれなかった。切りつけられたときに、潮時だと思った。だから、命からがら逃げだすしかなかった。もし仮にそこでオレが逃げなかったとしても、もう、どうにもならなかっただろうさ。

 ――けどよ。何年も経った今になって、オレは、やっと気がついたんだ。あいつがどうなったのか、オレは知らない。たったそれだけのことが、オレには重すぎるんだ。

 頼む、ルオッサ。教えてくれ。あの時、あいつは死んで当然の男だった――だがよ、それでもオレの友だった。……どうか、聞かせてくれ」

 そしてオルゼリドは、岩人ドヴェルグのように苦い顔で、深々と頭を下げた。

 ルオッサは顔をしかめたまま、口をつぐんだ。ハインの腐れ縁がこんなふうに振る舞うのは、らしくないことだった。考えあぐねて、ルオッサはハインを見る。

「俺からも頼む。……おまえにはつらいことだろうが」

 この答えを聞いて、出し抜けにルオッサは笑った。声を立てて、嘲笑った。

「ハハハ、ハハ……ふたりも揃ってか! いいぜ。教えてやる。

 ――アタシはナズルトーの戦役に、同盟軍督戦隊副長として参戦した。ゲオルグは傭兵部隊の一隊長だったな?」

「あッ――」

 オルゼリドはそこではじめて、目の前の少女が誰か理解した。これまで幾度となくハインの配下として遭遇し、白痴の仮面の下を垣間見ながら――それでもなお彼は、気づいていなかった。

「嘘だろ……。あの貴族の子供が、あんたか……?」

「まァ、男装してたからな。ハハ、こりゃァ愉快だ。だが、面白ェのはこれからだぜ」

 ――ルオッサは語りはじめた。ゲオルグに捕まり、奴隷も同然の扱いを受けたこと。何度も何度も犯され、狼人病をうつされたこと。狼に身をやつし、ともに村をひとつ焼いたこと。ゲオルグの部下を何人も殺し、ゲオルグから拷問の仕方を教わったこと。ゲオルグの子を孕み、そして奪われたこと。

「知恵遅れのマネを覚えたのも、アイツのおかげさァ。ハハハ……。

 そんで、殺したよ。部下が何人か残ってたが、一緒になァ。

 ゲオルグと一緒にキモを食って、一発ヤって、そしたらいつの間にかくたばってたよ。後はみィんな、焼いてやった。それでみな灰になって、しまいさァ。

 かくして悪は滅びましたとさ、めでたしめでたし」

 まるで趣味の悪い民謡を唄うように、ときおり自分の話に笑いながら、ルオッサはこんこんと語った。ハインもオルゼリドも、ルオッサの示す笑いどころにひとつとて反応しなかった。アンコールを待つかのように両手を掲げるルオッサを、ふたりはじっと見つめていた。ハインの表情は虚無に凍りついていたが、オルゼリドはもっとひどかった。腐乱死体の方がもうひとつマシだっただろう。

「……なンだ? つまんねェ話だったか」

「ルオッサ。そういうやり口は俺だけにしておけ。オルゼリドには――こくすぎる」

「ソイツが聞きてえッつうから喋ったンだろうがよ。他に聞きてェことは?」

 いや、いい。オルゼリドは青白い顔をぶら下げて、口元を抑えて外に出てゆく。

 ルオッサは、その小さな背中を含み笑いで見送った。だがドアが閉まり、ハインに目をくれて興醒めした。

「なンだ、ハイン。言いてェことがあンなら言ってみろ」

「……いや。何もない」

「本当か?」

「おまえに敢えて言うべきことなぞ、なにひとつない。俺の感想なんて、おまえには何の得もないだろう」

「あァ? 違ェだろうが」

 ルオッサは立ちあがる。ハインを上からめつける。

「正義の味方、ハインくんよォ。オマエは言ったよな、言ってきたよな。無辜むこの命を虐げる者を許さない、悪徳を打ち倒すためにこそその剣を振るう――ってなァ」

 ハインは自己の矛盾を悟り、息をのむ。けれど、すぐにその目を細め、ルオッサを見つめた。その蒼く澄んだ瞳を見ると、ルオッサは腹が立ってしかたなかった。

 これまでルオッサは認めてこなかった。いかにナズルトーの冬を生き延びたのか、真夜中に暴漢に襲われればどうしてきたのか――そして、不可解な桜花公の死は。

 答えは明白でありながら、ハインはそれを追及しなかった。

 だというのに――ルオッサはいまになり、そのひとつを認めた。自分の犯してきた罪を、悪徳を、

 悪魔を――刻印に囚われていようがいまいが、正義にもとる者、その全てを義憤で斬り殺してきた、ハインの目の前で。

 ――なのに。

「ああ……そうだ。俺は、剣持たぬ者の牙だ。これまでも、これからも」

 ハインは静かに、穏やかに、落ち着きはらって答えた。

 その予想外の態度に、ルオッサの怒りは臨界を迎えた。

「何、すました顔してやがる! オマエはなぜ、アタシを裁かない!

 オマエは……!」

 ハインは、答えない。

 ……ルオッサも、分かっていた。ハインは、機械ではない――なれなかったのだ。ハインが機械なら、あれほど瞳を濁らせることはなかった。どれだけ自分をそういう装置にしようとしても、ハインにはできなかった。

 、ルオッサは……、――

「ハイン。話がある」

 ふたりは同時に戸口を見た。オルゼリドは口元を拭いながら、それでもしっかりとした足どりで歩み寄った。

「オレは皇国に雇われていた。だが、もうヤメだ。毒を食らわば皿まで、つうだろ。ハイン、オレを雇ってくれ」

 ルオッサはハインの胸ぐらをつかまん勢いだったが、気まずさに舌打ちし、部屋の隅にどっかと腰かけた。他方、ハインは面食らい、すぐには返事ができなかった。

「どういう風の吹き回しだ。皇国に居られないのなら、サーインフェルクまで帰ればいいだろう。なんで、また……」

「そしたら今度は、皇国の密偵と疑われるだけだ。第一、ひとりで冬の山くだりとか正気か。お前としても、魔術師の本拠地の場所を知った小人を逃していいのか?」

「おまえまで、どうしたんだ? 工房なんて移せば済む話だ。オルゼリド、いつものおまえなら厄介ごとからは真っ先に逃げだしていたじゃないか。いったい――」

 オルゼリドは言葉に困り、しばらくぶつぶつと言い訳を探していた。だが、きっとハインをにらみつけるや、かじりつかん勢いでハインに詰め寄った。

「お前を、心配してやってんだろうが!」

 ハインは初めて、オルゼリドの涙を見た。オルゼリドは襟首をつかみそうになった手を戻し、ハインを見上げる。

「――ゲオルグは女を失って、人狼になって名誉までなくして……気が狂っちまった。息子を殺しあわせ人狼にして――それじゃ飽き足らず、!」

 オルゼリドは震える声で叫び、ルオッサを指さした。小人に指弾されても、少女は顔色ひとつ変えなかった。

「そいつは、ルオッサは……狂ったゲオルグにそっくりだ。

 オレはよ……ハイン。お前まで狂うんじゃねえかって、心配してやってんだ……」

 深い後悔と罪悪感を胸に、オルゼリドは言った。目尻をぬぐう彼をじっと見つめて、ハインは重くうなずいた。「分かった」、そうとしか言えなかった。

 もうずいぶんになる腐れ縁だった。時に妨害し、またある時は協力し、二人三脚でどうにかともに退散したことさえあった。お互いに手の内を知った仲で、認めたくはなくとも、義理堅さではいい勝負だった。いまさら、見てみぬふりなぞ不可能だった。

 ふたりは手をとった。その後ろで、場違いな笑い声があがる。

「気狂い……気狂いときたか。ククク、言ってくれるじゃァねえか。アタシが、あのゲオルグと瓜二つだって?

 ――冗談じゃねェ。その台詞、後悔させてやるぜ」

 ハインはオルゼリドに目配せする。雇ってくれというならば、と言いかけ、

「分かった分かった。みなまで言うな。

 ……非礼を詫びる、ルオッサ。さっきはゲオルグの最期を教えてくれて、礼を言う。

 それと……ゲオルグの代わりに謝罪させてくれ。あんたがそんな目に遭ったのは、オレの責任でもある」

 真正面から詫びを入れられ、ルオッサは興が削がれたらしい。フン、と鼻を鳴らし、そっぽを向く。

「……ひとつだけ、教えておいてやる。アタシに同情なんかしてみろ。素っ首、喰いちぎッてやるからよ」

 それだけ言い捨てると、後は好きにしろと言わんばかりに追い払うように手を振る。

 ハインはオルゼリドに向き直り、うなずいて、「疑うわけじゃないが」と前置いた。

「一応、誓ってくれ。……止水卿にまで忠誠を誓わなくていい」

「ああよ。『オルゼリドは魔術師ハインとその仲間に与し、裏切らず、不利益を与えない。』以上、唯一の神たるフラフィンの名の下に、誓約する」

 という文節にハインは目を丸くした。それはたとえ、親兄弟の間でも滅多に使われない表現であった。彼は落ち着かない様子で「魔術師ハインがケルンエヒトを撤退するまで」を付け加えろと言った。

 その修正がなされる間に、ハインは簡単に《魔力探知》を唱える。いきなり呪文をかけられたオルゼリドは一瞬、軽いめまいに襲われた。

「うおっ――なんか言えよな」

「武器とリュートだけか。悪い。だが相手は皇国だ。これでも足りないほどだろう。

 確かに裏はない。歓迎する、オルゼリド」

 オルゼリドはうなずき、

「オレが裏切る以上、お前に死なれちゃ困る。オレが知るかぎりの情報は提供するぜ」

 ハインはその申し出をありがたく承諾した。手始めにベルテンスカの軍備の状況を確かめたが、これまで現地で調べたとおり、早晩の開戦を画策しているとは思えない状態だった。

「次に、伏竜将だ。特に、イレーネとフェルンベルガーの情報がほしい」

「フェルンベルガーは見たことがねえな。表に出てくるのは他の三人だけだ。日がな一日、城の地下にこもってやがる」

 ハインはあごの毛を撫で、なるほどと言った。

「では、イレーネは?」

 オルゼリドは口をつぐみ、ルオッサに目をやる。なにげなくハインもそちらを見て、どきりとした。いつの間にか、赤い瞳がふたりを見張っている。

「……ルオッサ?」

「イレーネは“聖女”だとか“殉教者”だと言われてる。手をかざし、聖句を唱えるだけで病を癒す。だがそンだけじゃねえ。片端に手足を生やし――死者すら蘇らせる」

「死者の《蘇生》だと? ――聖儀僧クレリックか?」

 ハインの問いに、違う、とルオッサは苦々しく答える。

「《蘇生レイズ・デッド》には高額な宝玉しょくばいが持っていかれる。そのへんの奴らにおいそれと、何回も施せるモンじゃねえ。だいたい、聖句と手振りはそれぞれの呪文に対応するはずだが、どれも詠唱聖句としては的外れだ。それに――」

「イレーネに蘇生されたヤツは、どっかおかしいんだ。受け答えはするがよ、ハイかイイエくらいしか答えないし、肌はそのまんま蒼白いし……それに最初はもとどおり暮らすが、そのうち居なくなっちまうって話だ。どっちかっつうと黄泉帰りアンデッドに近い」

 オルゼリドの補足に、ハインは考えこむ。それを見て、ルオッサの血相が変わる。

「やめろ!」

 ハインが驚く隣で、オルゼリドは目を背けた。

「……どうしたんだ、ルオッサ」

「イレーネは、アタシがどうにかする。するから、だから――オマエは手を出すな! 

 ……

 ルオッサは四つん這いになり、乱れた髪の間から懇願する。困惑したのはハインだ。

「ルオッサ……。もしかして、イレーネを知ってるのか」

 ルオッサはその問いに、はっとしてうつむいた。「オマエには……関係ないだろ」

「いまさら他人面する気か」と返され、ルオッサは震え始めた。自分の体を抱きしめ、ふと自分が凍えていることに気がついた。

「ハイン……やめてやれ」

 オルゼリドの声に、ハインは追及を止める。

 けれど、なにをおもったのか、ルオッサはたわんだ声で自ら話しはじめた。

「……イレーネは、アタシが二年前に弔った。人狼の発作に耐えかねて……アタシを喰い殺す前に、殺してくれと頼んできた」

 ――今でも、思いだす。

 青い雪の上、白い月の光に照らしだされた白銀の人狼。なにものにも染められない、純白の美しい狼だった――そう、こんな黒い狼なんかより、ずっとずっと!

「イレーネは、あんなのなんかじゃないんだよ……。

 アタシには、あんなのがイレーネと名乗ってそこにいることが――耐えられない」

 ふたりはともに沈痛な表情になる。オルゼリドは黙りこんだが、対照的にハインは低く口にする。

「それは、同一人物なのか? よく似た別人かもしれないぞ」

 その言葉に、ルオッサはわずかに逡巡する――けれど。

「ちがう。あれはイレーネだ。アタシの嫌がることを、あまりにもよく知ってる……。口調は違っても、受け答えのひとつ、言葉尻ひとつとっても、あれはイレーネだった。何か違うものになってしまっても、根底にはイレーネがいるんだ。アタシには分かる」

「記憶を盗んだ何者か、でもなさそうなんだな?」

 ルオッサが首肯するに、ハインは続ける。

「《蘇生》であれば、何かしらが生前より劣化する。風化するほど古い死体であるとか、死者の合意がない場合はなおさらだ。状態が悪ければ悪いほど、後に人格が崩壊する危険リスクはあがる。……おそらく、そうやって無理に蘇生されたんだろう。問題はなぜ、そうまでして蘇生したかだが――」

 ハインはそこで言葉を切ると、その前に、とルオッサに釘を刺すように言う。

「伏竜将である以上、いずれ決着はつけなければならない。できるのか、ルオッサ」

「……やるさ」

「相手は刻印者の可能性が高い。それでもか」

 ルオッサはすぐには答えず、ややあって、「ああ」と生返事を返した。

 人格破綻の危険まで冒して蘇生するというのは、つまるところそこまで投資しても利益があるということだ。ただの人狼なら価値はない。でなければ――強引に人知を超えた力を生み出す、“竜の刻印ドラゴンマーク”くらいしか考えられない。

「……はっきり言っておく。おまえをしたり作戦が失敗したりしかねない、そう判断した場合には、俺が処断する。俺は、そうする以外の選択肢を持たない」

 ルオッサは忌々しげに牙を剥き、懇願とおりこして雑言を射かけようとした。だが、

「そうしないようにするのがおまえの仕事だ。、ルオッサ」

 ハインはそんなルオッサにさえ、真摯に言い聞かせた。ルオッサはにわかに自分の立場を思いだし、恥じ入るように顔を前髪のなかに隠してしまう。

「……止水卿そっくりだな、オマエは」

 もう聞き飽きているんだがな、とハインはそれをあしらう。

「オルゼリド。こちらの状況も明かそうと思うが……そうすればもはや一蓮托生だ。もう後戻りはできなくなるが、覚悟はあるか?」

「ああよ。……オレは今まで、いつでも逃げられる場所に陣どって生きてきた。だが、ようやく分かってきたのさ。それじゃ失うもんもあるってな。いいぜ、泥舟だろうが乗ってやる。自分の尻くれえ自分で拭くさ」

 ハインはうなずき、ひと呼吸おく。そして、ゆっくりと語りはじめた。

 来たるベルテンスカとの戦さに備え、蒼紋兵の解析を試みていること。一騎当千の力があるにもかかわらず、情報が少ない伏竜将の調査をしていること。

「だいたい想像どおりだ。蒼紋兵を見たことはあるがよ、多分、お前らの方が詳しい」

「そうか……。哨戒に出ているところから考えても、どこかに詰所があるんだろうが……さっぱり足取りがつかめない。どこにいるのやら」

 待てよ、とオルゼリドは顔色を変えた。

「そういや……城の地下から出てくるのを見たな。もしかして、フェルンベルガーが研究してるってのは――」

「……! フェルンベルガーが蒼紋兵の秘密に関係しているのか?」

 ハインは身を乗り出す。オルゼリドも確証はねえが、と続ける。

「そう考えると辻褄があう。てっきりフェルンベルガーが人嫌いなのかと思ってたが、機密保護のために軟禁されてる、つう方が自然だ」

「……ハイン」

 ルオッサのいぶかしがる声にハインは、分かっている、と答える。だがその一方で、ルオッサは自分がしたことに冷静になった。

「ルオッサ、おまえの懸念はもっともだ。当然、厳重に警護されているだろう。だが、蒼紋兵をどうにかしなければ、俺たちに明日はない。虎穴に入らずんば何とやらだ」

 ルオッサはそうかい、とだけこたえた。警告はしたぞ、と言わんばかりに。

「オルゼリド、助かった。これで早くサーインフェルクに帰れるかもしれない」

「そいつぁよかった。それで、これからオレは何をしたらいい?」

 そうだな、と言いながらハインは、懐をまさぐった。そしてなにか思いついた顔で、ケルンエヒトの地図を取りだすと、三つある印のうちふたつを示した。

「このふたつの地点ポイントを日没まで見張っておいてくれないか。日没までには使いを送る」

「こりゃ林ん中じゃねえか。こっちは急斜面だし……見張るだけでいいのか?」

「ああ。ダンに下見をさせている場所だ。話は通しておく。詳しくは話せないが……」

「話さなくていいぜ。オレの危険が増えるだけだからな」

 楽な仕事で助かるぜ、と言うと、オルゼリドは早速出ていった。

 その背を見送ると、ハインは立ちあがる。腕の傷が痛むのか、包帯を押さえながらルオッサに歩み寄った。

「……なンだ。傷の手当はできねえつッてんだろ。……明日まで待てよ」

 ルオッサは毛布をたぐりよせ、頭からかぶって言った。対するハインは、いや、といつもの仏頂面でつぶやいてから、出し抜けにフッと半笑いになった。自嘲のような、安堵のような――リタにしか見せない顔に。

「家出するなら、書き置きのひとつも残せよ。おまえが達筆だって、知ってるんだぞ」

「……はァ?」

 場違いな台詞に、ルオッサは白けてしまった。相手をしている自分が馬鹿みたいに思えて、馬鹿か、と聞こえるようにつぶやいた。

「馬鹿さ。馬鹿じゃないと、こんなことしてられないさ」

 きゅ、とハインは首元の紐タイを緩める。

「おまえも、イレーネのことは知らなかったんだな。混乱して当然だ。

 ……イレーネのこと、よく話してくれた。信用してくれて、礼を言う」

 ルオッサは顔を見せないまま、胸のなかで泥が這いまわるのを感じていた。

 ――自分が報告に戻らなかったことを、ハインは都合のいいように解釈している。それがそのとおりであることも腹立たしかったし、それなら仕方ない、と多めに見る青臭さにも反吐が出る。

 ルオッサは虫唾を噛みしめる。

 ああ、くそ――それなのに、どうしてアタシは! さっきだってそうだ。どうしてアタシは警告した。アタシはもう、

「俺は城に向かう。ルオッサ、おまえはどうする。なにか懸念材料はあるか」

 ルオッサは顔だけを毛布から突きだして、不満そうに口をとがらせた。

「懸念も何もねェ。アタシがいない間に、他のヤツはどうしてンだ」

「ウラはリタを付けておまえの代わりに行かせた。ダンはの下見だ」

「……そんなモンだな。昨日のうちにしといても良かったが、この人数じゃァな」

 そこまで流れるように答えてから、ルオッサは言葉に詰まった。まただ。アタシはまた、ハインに請われるがままに動いている。ルオッサは苦虫を噛み潰した顔になる。ハインはそんなルオッサに、どうした、と言う。

 など、もはやひとつとしてなかったのに。

「――ハイン。身内に裏切り者がいるのは歴然だ。そうだな?」

 ルオッサはひどくしわがれた声で言った。ハインがたしかにがえんずるのを待って、ルオッサは顔をあげる。

「アタシが裏切り者だったら――オマエはどうすンだ」

 ハインは、ルオッサの顔を見つめた。苦悩と“苦痛”に疲れ果て、深い隈をこさえながら――それでもなお輝く、赤い瞳を。

「必要ならば斬る。それ以外の答えがないことくらい、分かりきっているだろうが」

 ルオッサの表情が、失望に染まりかける。

「――だが。俺は斬りたくない。現実に私情は挟めなくとも、仮定なら、な」

 ハインは空虚になるルオッサの顔を見るに、納得して戸口にゆきかけ、

「明日は忙しくなる。その分だとろくに寝ていないだろう。……今日は休め」

 そう言い残し、ハインは出ていった。

 ルオッサは、昨日の苦しみを思いだした。“苦痛”の痛みよりも遥かに耐えがたい――胸を裂くような痛みを。

 忘れていた。狂いかけた歯車を、薬に狂うことでどうにか忘れていた。

 それなのに――何も変わってなどいない。ルオッサは、分かりかけてきていた。

 いつの間にか、毒を飲ませる側と飲み干す側、それらが入れ替わっていることに。

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