気狂い少女
ケルンエヒト上空。
見えない《
やはり、ルオッサはなかなか見つからない。以前、ナズルトーでルオッサに刻んだ“印”は、時を経て劣化してしまった。ケルンエヒトのどこかにいるのは分かるが、それがどの通りなのかはしぼりこめない。《透視》と《遠見》を組みあわせ、盛り場や繁華街は大方あらためつくしていた。もはや後には、膨大な細い街路があるばかり。これだけ入りくんだ路地を一筋一筋確かめていては、それだけで日が暮れてしまう。
最悪の事態が予想され、ハインはヴァイセルシュタイン城に目をやる。白亜の城はさらにもう一重の結界にはばまれて、肉眼でなければ真っ白に抜けてしまう。初日に《
ベルテンスカの魔術師は大抵、自分より腕が悪い――これは自惚れでなく、事実だ。だからこそサーインフェルクは、こうして強気の密偵を出している。だがその一方で、なかには止水卿と同列かそれ以上の魔術師が潜んでいるらしい。
問題は、それが簒奪の魔術師であるか、否かだ。
簒奪の魔術師。自分から全てを奪い、釣り銭とばかりに犬人の肉体を与えた仇敵。彼奴を打ち
……なのに。
今なら、わかる。自分はまた、虚しい希望を持ちはじめている。そう悟って初めて、彼はルオッサを仲間に引き入れた本当の理由、語らなかった本音がわかる気がした。
ハインは当初、ルオッサを危険ながら大勢として有利と、
かつて自分は、ベルテンスカを救うために必要とあらば、何でも切り捨てる覚悟を誓った。そのはずだった。それなのに、今日とて城を調査する予定を、無駄なことで潰そうとしている。
――これで、最後にしよう。ハインは覚悟を自らに言い聞かせると、すうと降下を始めた。例のごとく《不可視》のハインは、白昼堂々、城下町の一角に降りていく。着地の瞬間、勢いを殺して音を消す。いくら姿を消そうと、足音はごまかせない。
狭い路地には鋭い風が吹いていた。そのせいか、吹き溜まりにはつきものの塵芥や浮浪者も寄りつかない。ハインは無意識のうちに、そんな路地を選んでいた。
その路地はどこか居心地がよかった。そうだ、サーインフェルクでルオッサに店を選ばせると、きまってこういう道を選んだものだ。人間ならば凍えるほど風が強く、なにもかも洗い流されるような、ぺんぺん草も生えない日陰の
わざわざガラの悪い酒場を探して入るや、いの一番にべらぼうに高い吟醸酒を頼む。名が売れてからも、本性を隠しハインの代弁のように注文するものだから、ハインはひとりのときでも好きな甘い酒を飲めなくなってしまった。あんななりだがザルで、一晩で寝小便するほど飲むこともあった。そして泥酔すると、オリーブのピクルスはないかと絡みだすのだ。あっても黒では納得せず、青でなければ頼みもしなかった。毎度の奇行なのに本人が覚えていないものだから、つい彼はからかってしまった。
ふと思いだす。酔ったルオッサが時折みせる、林檎のように赤く、あどけない顔を。自分を嘲笑う悪鬼でも、犯されることの意味すら知らぬ白痴でもない。ありのままの穏やかな表情。常にその頭蓋のなかで巡らされている策謀、仮説、悪徳も、そのときばかりは空っぽに、ただ酒精のくれる心地よさに浸る顔。
ああ、その顔を肴に飲む、あの吟醸の味ときたら――。
……とめどなく続く回想に浸る自分を見出して、ハインは愕然とした。
短剣の留具を確かめると、記憶の口を固く縛り、静かに、深く、呼吸する。
足音を立てず、
袋小路に至り、ハインは思わず空を見上げた。山間から空へと、白から青へ次第に移り変わってゆく。雲ひとつない空は家に四角く切り取られ、空色のカンバスのよう。
――あきらめよう。にわかにハインは思った。そこに理由はなかった。
そうして、踵を返した時だった。
「ハハ……ハハハハハ!」
頓狂な笑い声に、ハインはゆっくりとふりかえる。大通りの方から声は続いている。格子状の
合点がいった。それは“苦痛”と呼ばれるチンキの臭いだった。正確には単離した液体の
そんな身に余る快楽が、口を利くものを壊さないわけがない。一度だけが三度目になり、気づけば人格は破綻している。サーインフェルクならば製造だけで極刑になるほどの麻薬だ。なにしろ――
ハインは、そんな劇薬がケルンエヒトに出回っていることに胸を痛めた。そして、早くしなければな、と城に向かおうとした時だった。
中毒者の笑い声が大きくなる。麻切れの山が、崩れる。
ハインは足音をたてて立ち止まる。急制動に足跡が残る。ハインは言葉を失った。
崩れた布の山からのぞいているのは、呆けた赤髪の少女――ルオッサの顔だった。焦点のあわない目で虚空を覗き、よだれと
ハインは叫びそうになった。なんとかこらえたが、駆け寄らずにはいられなかった。抱き起こし、壁にもたれかからせ、そこでやっと人目を探した。人気はなかったが、すぐそこは大通りで、いつ見つかってもおかしくはない。
「ルオッサ! しっかりしろ、おい」
「ハハ……ア? なンだ、誰かいンのか。へへへ、どォだ? オマエも一献……」
透明な気配に気づいたか、ルオッサは深緑の小瓶を掲げる。彼はそれを叩き落とし、《
「どうしてしまったんだ、おまえは……。なにがあったんだ。なにかされたのか?」
ハインの問いかけにも、ルオッサは反応しない。ハインは頭を抱える。これまでも作戦中の命令違反は少なくなかった。だが、それらはすべてルオッサの策略のためで、無意味なものはひとつとしてなかった。
こんな変わり果てた姿のルオッサを、ハインは見たことがなかった。
その時だった。
「見つけたぞ!」
突然の声にハインは反射的に立ちあがるが、相手を見て冷静になった。ルオッサに走り寄ってくるのは、ハインにとっては腐れ縁の
「おい、お前! ゲオルグの野郎を知ってるのか!」
オルゼリドは背後に立つ透明なハインに気づかず、ルオッサの襟首を揺さぶる。
ゲオルグだと? 彼は身じろぎする。ありふれた名だが、ハインにとって、ましてケルンエヒトにおいてゲオルグといえば、ひとりしか思いつかなかった。
ルオッサは酩酊したまま、薄気味悪く笑うのみ。
「ちッ……。クソ、お前が知ってやがるんだったら、昨日中にどうにかしたのによ。……ヤクが抜けねえことには無理か」
オルゼリドはあの男を知っているのか? ハインには聞き捨てならないことだった。彼は危険を承知で、おい、とオルゼリドの名を呼んだ。
その刹那。
ばす、とハインの右腕に衝撃があった。次には、がくんと足が勝手にしゃがみこむ。
オルゼリドは隣でどさりと音がして、ナイフが宙に浮いているのを目にした。
「おい、おいおい! オルゼリド、てめえ、サーインフェルクと繋がってやったな!」
大通りの方から、人間のハイン――トビアスが次のナイフを抜きながら歩いてくる。飛びあがったのはオルゼリドだ。
「なっ――ち、違うんでさ、伏竜将の旦那ぁ。イレーネサンとは、ちょいとひと悶着ありやしたが……このガキとはたまたま出くわしただけで――」
オルゼリドはにわかに媚びた笑みを浮かべ、釈明しようとする。だが。
「じゃあそいつはなんだ?」
精神集中が途切れ、《不可視》が解ける。浮遊するナイフは、オルゼリドの目の前で犬人に突き刺さったナイフになる。
げっ、と彼はうめいた。そうでなくとも、ルオッサと喋っているところを見られているというのに! ハインは顔を歪め、ナイフを抜こうと足掻くものの、体の自由が利かないらしい。《不可視》が切れてしまっていることにも気づいていない。
オルゼリドは顔を引きつらせ、なおも口先で抵抗しようとする。
だが、頭に血が昇ったトビアスは一蹴する。
「アントン! 構えろ!」
トビアスの後ろから盾の従者の少年が走ってくる。こっちは単独、隣には
――あっ、無理だコレ。
ただでさえ何年にもわたる放浪のせいで怪しまれ、黄銅の騎士の口利きでどうにか雇われた身。三十四年の人生経験が、「今逃げないと死ぬ」と告げていた。
「あ、あれ? 剣が……!」
その時、従者の少年は文字通り切羽詰まったのか、レイピアが抜けずにもたついた。トビアスは馬鹿野郎、と後ろを向く――今しかなかった。
「ハイン。歯ぁ食いしばれ」
オルゼリドはハインの腕からナイフを引き抜いて手を放し、その勢いのまま、宙を泳がせる。反対の手、二本の指でその刃を挟みとり、反動で瞬時に重心を把握する。その時には、頭上に張られた屋根代わりの
投げる。回転するナイフが、細い麻紐をあやまたず断つ。たわんだ布は支えを失い、なかに溜まった雨水ごと、ばさりとトビアスたちの頭に落下した。
「うわっぷ……な、何しやがる!」
「悪いな! それで頭冷やしてくれよ!」
オルゼリドはハインに肩を貸し、起こそうとする。だがハインは力が入らないのか、死体のように重い。
「おい、シャンとしろ!」
「……て……うご、ど……」
いくら小柄な犬人とはいえ、小人の方がはるかに軽い。毒か、とオルゼリドは顔をしかめる。まずい。ひとりでケルンエヒトから逃げるか――。
……いや。冬に手ぶらで山道を降りるなど、自殺行為だ。それに――
オルゼリドはハインの体を投げだし、隣のルオッサの頬を張る。その頬にハインの血がべっとりと付き、その臭いにルオッサは目を見開いた。
「いつまで
自分の頬に触れて血を認め、倒れたハインと大通りの喧騒に目をやる。幌の内から、トビアスのナイフが突き出る。
「ンだ、よ……アタシは――」
「死にてえのか! ハインも殺されるぞ!」
「――!」
畜生とルオッサは呟き、頭を叩く。残った薬で頭が割れそうだ。目の前はかすむし、動悸が止まらない。それでもルオッサは麻袋の山から己のポーチを探しあて、真教の
「早くしろ! トビアスのバカが……!」
ルオッサは聖句を唱えながら、ハインに駆け寄る。
その腕からあふれる、真っ赤な血液。
不意にルオッサは、ぎゅうと胸が締めつけられた。意識が空白になり、唱えていた聖句は途切れる。その理由は分からない。けれど、少女は必死に詠唱を再開する。
聖印を傷に押し当て、《
だが。
聖印に集う神威の光は、集まりきらずに霧散する。
ルオッサは青褪めた。どっと冷や汗がふきだす。前にもあった。こんな――決して失敗してはならない時に、詠唱に失敗することが。
「何、手間どってやがる!」
オルゼリドが駆け寄ってくる。
「……失敗した」
「ハァ!?」
ルオッサは頭を抱え、震えていた。布を裂く音にオルゼリドは振り返る。そこでは、ずぶ濡れのトビアスが抜け出てくるところだった。
「だ、れ、が……
「オル……こ、よ……」
ハインの腕が、力なくオルゼリドの足を小突く。オルゼリドはその手元、中空から現れた紙片に気がついた。それが何かを理解するや、彼は
「くそ……! ええい、どうなっても知らねえぞ!」
オルゼリドはその紙片を縦に広げ、早口に読みあげた。竜語の文章なんて見るのも久しぶりだったが、竜語は竜語でも古代のもの。意味の分からない発音記号や発音の分からない単語はごまかして、ただ噛まないようにだけ神経を尖らせた。
「させるかよ!」
トビアスはナイフを抜き、素早く投擲する。棒立ちのオルゼリドの背中へ、白刃が突き刺さる。
――はずだった。
とすん、とナイフは地面に突き立った。
瞬きをする間に、三人の姿は、もはや影も形もなく消えていた。
自分の失態を悟ったトビアスは、空いた手を握りしめる。悪態をつき、壁を殴った。
「クソ、クソっ……! 《真実の瞳》までかけてもらったってのに、またこれかよ!」
「ハイン……。ごめん、おれのせいで……」
人間のハイン――トビアスは、うなだれるアントンを見て、はっと顔色を変えた。
「……気にすんな。黄銅のを信じとけ。それよか、剣を貸しな」
「うん……なんで、急に」
「なんか詰まったんだろ。まあ、よくあることさ」
トビアスは捻ったり揺らしたりして、レイピアを抜こうとした。何度か試みるうち、
ぬちゃ――その刃が、白日の下に晒される。
「ひっ――!」
アントンは思わず、尻もちをついた。
「――おい、アントン。こりゃあ、……なんだ」
その刃には――べっとりと粘つく、血糊がついていたから。
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